第一部
黒臼理都はその日、大学の授業を最後まで終え、コンビニのバイトまでこなし、帰り道の途中で急に甘いものが欲しくなって近くとスーパーに立ち寄り板チョコを三枚ほど買って、家路についていた。何気ない日常の中の、日々繰り返される普通の一日だった。そう、独り暮らしのアパートの扉を開くまでは。
「ただいまー」
誰もいない家だというのに、つい帰宅の挨拶をしてしまうのは半年前までの実家暮らしの名残だった。
足元を見つめながら靴を脱ぎかけて、ふと気づく。
誰もいない暗いはずの部屋が明るい。
え? と思った時には返事が返ってきた。
「おかえり」
高く澄んだ女の声だ。再びえ? と思って靴を脱ぐのをやめて顔を上げた。目の前には明るい光が輝き、それを背にして一人の少女が佇んでいた。
三度「え?」と理都は呟いた。今度は声に出ていたかもしれない。緩いウェーブのかかった赤毛を背中まで伸ばした少女が眼前に立っている。年のころは理都より少し幼く感じた。大きな緑色の瞳の中に金色の瞳孔をした不思議な瞳が興味深そうに理都を見ている。
四度理都は「え」と、今度こそ声に出して呟いた。
自分の部屋に人がいる。泥棒か? 少女の泥棒か? 外人の女の子の泥棒か?
というか、さっき「おかえり」と言ったのはこの子なのか?
混乱を極めた理都はただただ目をぱちくりとさせ、立ち尽くしていた。
と、少女が顎を指でつまんだ。数度、その不思議な瞳を瞬かせ、理都を見ると、動き出した。
「ふむ」
彼女は少し距離を開けて、ぐるぐると三度ほど理都の周りを歩いた。その視線が頭の先から足の先や腕の先、手に持っているスーパーの袋などをじろじろ眺めているのがわかる。あまりに不躾な視線に、急に怒りがわいてむっとした理都は、きりっとした表情で言った。
「不法侵入で、警察に訴えますよ。ここは俺の家ですからね!」
後で思えば、バカな発言だった。よく周りを見渡すべきだったのだ。
------ここは理都の家ではなかったのだから。
「どうだ、成功したぞ!」
喜色を浮かべて少女が言った。
「本当にやりとげるとは・・・・」
疲れた声が少し離れたところからする。不法侵入者が二人? 混乱を極めた理都が、そちらをみる。
いかにもサラリーマンという風袋の眼鏡をかけた男が、疲れた顔をして立っていた。瞬間、急に理都の意識が開けた。
眼前に見知らぬ少女。その少女から離れたところにサラリーマン風の男が、一人ではなく複数人立っている。みな一様に疲れたようなしなびたような表情をしていた。
そして、その背景は大きなステンドグラスを張り巡らせた窓。いつの間にか教会の講堂のような場所だに立っている。理都の部屋ではない。
「ええ?」
どういうことだ? 自分は確かに家に帰ったはず。自宅のアパートの玄関に鍵を差し込み、間違いなく鍵を開けて家に入ったはず。え? 道を間違えた? 他人のお宅に突撃無断侵入かましちゃった??
目も口も大きく開いたまま、顔面蒼白になる。自分はそんなに間抜けだっただろうか? と。
「ようこそ、ユーフレシアへ、異界人殿、私はこの国の王女ダリア・ユーフレシアという。そなたの名はなんだ」
「あ、えっと・・・黒臼理都と言います。あの俺家を間違えてしまったみたいで、その、大変失礼しました。ちょっと疲れてたのかな? ははは」
乾いた笑い声をあげながら後ろ頭をかく。とにかく、なんかわからんがここは失礼しなくては。
「えっと玄関玄関」
「玄関ならそこの扉を出て、通路をまっすぐ進んで右に折れて、さらに階段を三階下って左の通路を進んでからまだ一階に降りて、右の先のところにあるぞ」
少女が丁寧に教えてくれたが、正直パニクッた頭では覚えられる気がしなかった。しかし、いつまでもここにいるわけにはいかないと、歩き出そうとして、少女が止める。
「どこに行くのだ?」
「あ、いえ、家に帰ろうかと」
「それは無理だろう、先ほど術式が終了したばかりだからな。なんだ、おまえは元の世界に帰りたいのか?」
「元の世界?」
「先ほども言っただろう。ここはユーフレシア国。アッシュヴァルツ大陸の東端にある小さな国だ。おまえの世界とは違う世界だ」
「は? えっと意味がよくわからないんですけど・・・・?」
「ふむ」と少女は首を傾げた。
「最近な、我が世界では異世界召喚というのがめちゃめちゃ流行っているのだ。やれ勇者を召喚したとか聖女を召喚したとか、それが世界を救ったとか救わなかったとか王子と結婚したとか王妃になったとか、あるのだ。つい先だっても隣の国が異世界から勇者を召喚して魔王軍と戦ったらしい。それでな、我が国もこの流行りにのってみてはどうかということになってな、それでそなたに白羽の矢を立てたのだ」
「はぁ・・・異世界召喚・・・・・ここは異世界なんですか?」
「うむ。異世界だな。そなたは地球の日本という国の出身だろう。いま日本人はかなりの流行りなのだ。黒髪黒い瞳に白い肌、というのがいいらしい。そなた日本人だろう? 黒髪黒い髪に白い肌、流行りの恰好をしている」
「はあ、日本人ですけど」
異世界召喚? なに、そのファンタジー? 自分は夢でも見てるのか? 家の玄関をあけた瞬間に気でも失ってしまったのか?
パニック通り越して、逆に、スンとなってしまった。そんな理都をみて、少女---ダリア姫がにこりと笑った。
「それでは改めて、ようこそユーフレシアへ、異世界人殿」
ぼけっと混乱したまま立ち尽くしている理都に、ダリアが手を引いて隣室に案内してくれた。そこは応接間になっているのか、ゆったりとしたソファが並び、壁には絵画や花が飾られている。漫画でよく見る外国の貴族の部屋のようだ。見た目とは違ってやや硬めのソファに座らされ、目の前にはダリアが座る。その傍らには先ほどのサラリーマン風の男が立つ。
そこへメイド服を着た中年ぐらいの女性が紅茶を運んできた。花の匂いのするお茶だった。
「改めて自己紹介をしよう。私はダリア・ユーフレシア、このユーフレシア国の第一王女だ。傍らにいるこれは、宰相のグエンだ。日本人の名前は前が家名で後が名であろう? 間違いないか?」
「そうですね」
そんなことをよく知っているなぁと、感心しながらまだ夢だと実は疑っている。奇妙な夢だ。
「ではリトと呼ばせてもらおう」
「はぁ」
「我が国は国王が病身でな、今現在は第一王女であるわたしが政務を取り仕切っている。第一といっても、私は兄弟がおらぬから時期女王だ」
「それは大変ですね」
頭に浮かんだのは英国のエリザベス女王だったが、比べてダリアはずいぶんと若い。苦労が多そうだなぁと、のんきに視線を巡らせて、傍らに立つ宰相をみると、確かにやつれ感が半端ない。ブラック企業のサラリーマンかな?
「あの俺はなんの用で呼ばれたんですか?」
「うむ、そこは一番大事はところよな。勝手に呼び出しておいて、説明をせぬわけにはいくまい」
彼女は小難しそうに腕を組んで、首を縦に振った。
「実はな、我が国は貧乏なのだ。150年ほど前にあった大陸間戦争のごたごたでひょっこりと独立を果たした、もとは小さな領国だったのだがな、いかんせんド田舎で、おもな産業と言えば林業と畜産、それと小麦を主体にした農業しかない。領地のほとんどが山林で、鉱山の一つもなく、とにかく貧乏なのだ。まあ、国民たちは生活には困らぬ程度には暮らしているが、今後もこのままというわけにもいくまい。隣国では聖女や勇者が、やれ魔物を倒した、瘴気を浄化した、世界樹という珍しい木を育てて金の果実が生った、どんな病気も治してみせた、といろいろ異世界人事業を進めているらしい。それがかなり金になるようなのだ」
「異世界人事業?」
あまりに聞きなれぬ言葉に、目が点になる。
「まあ、つまりだ異世界人は金になるのだ」
「異世界人は金になる・・・・」
理都は呟いた。首を捻る。
「そうなんですか? でも俺、何の力もありませんよ? そもそも召喚って困っている人が力ある人間を呼び出すために行うもんなんじゃないんですか?」
漫画でしか知識はないが、異世界の窮地を救うために、召喚されるのものだという認識が理都にはあった。しかし、自分は平々凡々を絵に描いた大学生である。彼女の言うところの勇者? 聖女? そのような大義がつくような力など持ち合わせているとは思えない。
「っていうか、貧乏だからって俺が呼び出されても・・・大学の専攻も経済学部じゃなく文学部だし、せめて農学部なら良かったかもしれないですけど・・・召喚する相手間違えてるんじゃないですか?」
そういうと、ダリアもむうとうなった。
「そう自分を過小評価するではない。何事もやってみなければわからぬであろう」
「いや、やってみるって何をですか?」
「そなたにも勇者か、聖女・・・ではなく聖者か、もしくは賢者とか魔術師とかなにかあるかもしれないではないか」
「いやいや、ないですよ、ないない、絶対にないですって」
魔物退治とか絶対無理だという自信がある。そもそもまず喧嘩などしたことがない。勇者と言えば剣だが、そんなもの扱えない。弓や槍も無理だ。聖者と言われても、医者の心得なない。高校卒業と同時に通った自動車教習所で、蘇生法は学んだがあんなのただの付け焼刃の知識だ。そもそもこの世界にAEDはあるのか?
絶対無理だろう、勇者も聖者も賢者も魔術師も。それとも、隠れた素質が自分に?
「ってかそんな力があったとして、俺なにすればいいんですか?」
「まあ、大々的に名乗りでも挙げて、こう、観光の手助けになればと思ってな」
この王女様とんでもないこと言い出した、と理都は思った。
「え? 勇者とか聖女とか呼び出して、観光の名所にするつもりなんですか?」
「外貨を稼ぐに手っ取り早いだろう? うちは観光資源も少ないのだ」
「そんなことのために俺は呼び出されたんですか? 嘘でしょ?」
せめてもっと大義名分があってもよくないか? さすがに呑気な理都でも絶句する。と、傍らにいた宰相のグエンが頭を下げた。
「申し訳ありません、リト殿。我々も必死で姫様をおとめしたのですが力及ばず、こんなことになってしまい、どう償えばよいのやら」
額の汗をぬぐいつつ、顔色が非常に悪い。なぜかずいぶんと苦労の感じられる顔だ。反対に、ダリアはふんぞり返った。
「何を言う、金がない金がないとおまえらがいうから、こ奴を召喚してやったんだろうが!」
「確かに、城の老朽化が進んでいるため改築費をどうにか捻出したいとは申し上げましたが、普通異世界人を呼び出しますか? どういう発想をしてるんですか!」
「こういう発想だ!」
「えっと、お姫様が呼び出したんですか?」
「ああ、そうだ。私はこれでも魔術師の端くれでな。召喚の儀式が行えるのだ」
あまり厚みのありそうにない胸をそらせて、えへんと得意顔をする。
「ちなみに、我が国はコンプライアンスもきちんとしておるからな。他国と違って呼んだら呼びっぱなしということはないぞ。私は召還術も扱えるのでな、当然我が国にきてもらった以上は、帰りの切符も用意せねば申し訳がないというもの。召喚した時と場所にそのまま戻すことができるゆえ、リトはとにかくこの国でいろいろとゆっくりとしてもらいたい。------我が国の為に」
我が国の為に、彼女はもう一度にたりと笑いながら繰り返した。
そうか、一応は帰れるのか。
まったく安心はできなかった。