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海を漕ぐ自転車

作者: 立花

 残り五メートルを告げる赤いラインが真下に見える。ここからゴールまでは百メートルのレースを考えれば一瞬だ。だが、この指先があの壁に触れるまでは、絶対に、絶対に気を抜いてはいけない。小学一年生から中学を卒業するまで通っていたスイミングスクールの先生に何度も言われた言葉だ。


 右、左、と腕をかいた後に右手の指先が壁に触れ、晃はぷは、と水面から顔を出した。すぐ右側のレーンを見ると、すでにゴーグルを外した一つ先輩の光太郎がこちらを見ていた。


「お疲れ、晃。残念だが今回はアイスはお預けだな」


 光太郎がニヤリと笑う。晃もゴーグルを外して答えた。


「コータ先輩もお疲れっす。先輩アイスがかかると余計に速くなりません?」

「しょうがないだろ。体育祭の打ち上げやら何やらで今月結構小遣い使っちゃったんだよ」


 そう言って光太郎は軽々とプールから上がっていった。晃は折角奢ってもらうチャンスだったのにー、と大袈裟に悔しがりながら仰向けで大の字の姿勢になって水面に浮かんだ。


 視界を遮る物は何もなく、目の前にはただただ空が広がっている。遠くから女子部員の楽しそうな話し声が聞こえてきた。


 夏ではないがまだ秋とも言い難い、九月中旬。今日はプール締めの日だ。今後の水泳部の活動は筋トレやランニングが主体になってくる。こうやって学校のプールから空を見上げるのも今年度は今日が最後になる。


 今日の練習中、光太郎と話しているうちにせっかくだから最後に対決しようという流れになった。種目は二人が専門とするクロールの百メートル。晃が勝ったら光太郎にアイスを奢ってもらうことになった。ちなみに光太郎が勝っても何もない。それは光太郎が先輩だからというのと、晃が今年の四月に入部してからこの半年間、一度も光太郎に勝ったことがないためである。


 光太郎はこの部活のエースであった。







「晃じゃあな」

「また明日ー」

「ばいばーい」


 練習後、校門の前で同じ学年の部員たちと別れ、晃は一人自転車を漕ぎ出した。前を見ると数十メートル先の交差点に、同じく自転車に跨った見慣れた後ろ姿を見つけた。ちょうど赤信号だったので晃はその後ろ姿にすぐに追いついた。


「コータ先輩、どうしてこっち方向に来てるんすか」


 晃はその人物、光太郎に話しかけた。光太郎の家は晃の家とは反対方向のはずだ。


 光太郎は晃を見るとああ、と呟き再び前を見た。


「ノートが無くなったから買おうと思って」

「あ、そういうことすか」


 それだけの言葉で晃は察し、同じく前を見た。目線の先、交差点の向こう側にはスーパーがある。そのスーパーには食品だけでなく文房具も売られており、しかもそれが安い。晃たちが通う高校の生徒らはこのスーパーにはよくお世話になっていた。


「俺も寄ってきます。先輩何か食べません?」

「いいけどアイスは奢らないぞ」

「分かってますって」


 他愛もない話をしながらスーパーに寄り、結局二人ともアイスを買った。駐輪場の端っこで早速頂くことにする。


「そういえば先輩、先週の木曜日の部活の後また温水プール行ったって本当ですか」

「うん、行ったよ。その日部活でタイムが出なかったから」


 なんてことのないように光太郎はアイスにかぶりつく。晃からすれば部活の後にさらに自主練をするなど考えられない。


 光太郎はこの部活のエースだ。しかしそれと同時に練習の鬼でもあった。練習量は間違いなく部内で一番だった。


 晃もアイスを口に運ぶ。ふいに脳裏に浮かんだのは、いつも自分の一メートル先を泳ぐ光太郎の姿だった。


 光太郎にはきっと水泳の才能がある。そして人一倍の努力をしている。そんな彼に誰が追いつけるのだろう。


「……先輩って偉いですよね、いつもたくさん練習して。本当に凄いと思います」


 自然と言葉がこぼれた。お世辞ではなく、本音だった。


 二人の目の前を一台の車が通り過ぎて行く。


「確かに人より練習してる自覚はあるけど、それが偉いかっていわれたらなんか違うな」


 いつの間にかアイスを食べ終えていた光太郎がぽつりと呟いた。晃は隣に立つの光太郎の顔を見る。


「俺さ、自分が納得いくまですっげえ練習して、いいタイム出したり試合で勝ったりして、一人で心の中でこっそりガッツポーズするのが好きなの。単純に好きなんだ。好きだからやってるってだけだから、正直これは自己満足だよ。俺が思うに、嫌なことを無理矢理頑張ってやる方が偉いと思う」


 すぐに返す言葉が思いつかず、晃は黙り込んだ。


「俺の好きなことがたまたま水泳だったってだけで。これが勉強だったら良かったんだけどなー」


 光太郎がわざとらしく戯けて言った。


 二人の間に沈黙が流れる。


「……先輩心の中でガッツポーズしてたんすか」


 やっと晃の口から出た言葉はそんなヘンテコなものだった。







 それから二人はスーパーの前で別れ、晃は再び一人自転車を漕いでいた。


 光太郎は水泳の練習をただの自己満足だと言ったが、あれだけの努力を自己満足の一言で片付けられるのはやはり凄いと思った。しかも光太郎の場合結果も出している。少なくとも、晃にとって光太郎は尊敬すべき先輩だ。


 光太郎の言葉が再び頭の中で繰り返される。好きだから頑張れる、なんて誰かが勝手に作り出した名言で、それはただの理想のように思っていたけれど、どうやらそうでもないらしい。


 そこでふと疑問が湧き上がり、晃は自転車を漕ぐスピードを緩めた。


 ーーーでは自分の好きなものは? 自分が努力していることを、偉いとも思わないくらい夢中になれるものは?


 少し考えたのちに出た正直な答えは、そんなものはない、だった。だがそれと同時に思ったことは、今まだそんなものを見つけられていなくてもきっと大丈夫、ということだった。


 いつか見つけてやる、その日まで。今は今の自分にできることをするしかない。とりあえず今日は明日提出の課題をやらないとな、と心の中で思いながら、晃は自転車を漕ぐ足に力を込めた。

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