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明日おはようが言えたなら

秋を迎えた空が冷たい風を運ぶ午後の事だった。


「現代の医療ではどうする事も出来ません。」


感情を殺して淡々と語る医者を前に誰も何も言えなくなる。


「大変申し上げにくいのですが、」


私の横では母が涙を流していた。


「娘さんは、いつ亡くなってもおかしく無い状況です。」


医者の後ろに控えた看護師が憐れんだ目をしたのが見えた。


「…申し訳、ありません。」


それでも、何も悲しくはなかった。




後天性睡眠時低換気症候群、別名を「ヒュプノスの恩恵」と呼ばれるこの病は近年になって発見された奇病だ。

病状はシンプル、眠ると呼吸が止まる。

とは言え、毎日そんな事態に陥る訳では無いらしく、ある日突然、体が呼吸を辞めるらしい。その原因は分かっておらず、いつそうなるかわからない所がこの病の難しい所であり、解明されない謎だとか。

この病に罹った人には、決まって身体に三日月型の痣が浮かぶ。


左肩にちらりと目をやる。

私はどうやらこいつに罹ってしまったらしい。


母は随分取り乱した。

どうにか、助ける術は無いのか、と最後の希望に縋り続けた。

でも残念ながら救いは無く。

どうする事も出来ず、死ぬのを待つしか無いらしい。


誰も彼も、私を憐れんだ。


そりゃあ、そうだろう。

突然意味の分からない病気に罹って、いつ死ぬか分からない、なんて言われたら、不幸だと言うだろう。


だけど、みんな忘れている。


私達は常に、いつ死ぬかなんて分からないんだ。


平和ボケした世界が、明日も笑って暮らしているだなんて勘違いをしている。


今日話した人が明日死んでたって何一つおかしなことでは無いのだ。


それを、病だと言うから、とても不幸な事に聞こえているだけなのだ。


…ばかばかしい。


私は別に、死ぬ事を恐れてはいなかった。


人生に絶望しているとか、死にたいと思っているとか、そういう訳では無い。だが私は、人生とかいうものに満足していた。満足していたからこそ、いつ死んだって良かった。

それこそ、今死んだって悔いは無い。

…誰にも、理解はして貰えなかったが。


だから、自分が病に侵されていると分かった時、少し安心した。


眠っている間に全てが終わるなんて理想的じゃないか。

医者曰く、苦しむことも無い。

朝になっても目覚めないだけ。


素晴らしい事この上ない。


要するに、安楽死だ。


何を悲しむ必要が有るのだろう?



…でも、



「…僕は、寂しいけどな。」

「まあ、それは悪いと思ってるけど。」

「本当に助からないの?」

「何しても意味は無いんだって、人工呼吸器も意味をなさないからどうしようも出来ないって。」

「…そう、なんだ。」


「僕は、まだ、あなたと生きていたいよ…」



彼の存在だけが、私の気がかりだった。



彼と出会ったのは3年前、彼はバイト先である学校の近くのパン屋の常連さんだった。

彼は決まって水曜日の13時に来る。

メロンパンがお気に入りらしく、いつも必ずメロンパンを買っていった。


別に、なにか特別な事があった訳でも無いが、こう、毎度の如く見ていると勝手に親近感が湧く。年も近そうだったから、なんと無く、気になっていたのだ。


「あの…お名前、なんて言うんですか?」


そんなある日、彼から声を掛けられた。


「あ、いや、不審者とかじゃないです、その、いつも見掛けるから、お話してみたくて…!えっと、あの、僕は、林田陸と言います!」


良ければ、仲良くしてくれませんか、と。


そんなの、こちらのセリフだった。


「…木下未夢。こちらこそよろしくね、…林田くん。」


あの日の輝かんばかりの笑顔はずっと忘れないだろう。

それから、月日は流れて私はパン屋のバイトを辞めた。バイトを辞めることを伝えた日、彼から告白された。

晴れて私たちは付き合い始め、もうかれこれ5年の仲だ。喧嘩はそんなにせず、まあ仲睦まじくここまで来たと思う。

そんな中で突然、こんな別れ方をしなくてはならないのは、


「でも、君には悪いんだけどさ、きっと死んだら私はそれまでなんだよ。私には何も残らないし、悲しむ事も出来ないんだろうね。」

「僕はずっと悲しいよ。」

「だからごめんってば。」

「あなたがなんと言ったって、僕は、とても悲しくて寂しいんだからね。」

「…………、」


これ以上は、何を喋っても傷付けてしまいそうだった。


「ねえ、僕にできること、何かないの?」

「君に出来ること、ねぇ…」

「なんだってするよ、あなたの為なら。」


何より、私が耐えられなくなる気がした。


「……じゃあさ、」


だって、死ぬのはどうでも良くても、彼と離れてしまうのは、私も寂しかったから。

だから、


「一緒に住んでよ。」


最期に見る顔は、君が良かった。



そうして、私たちは同棲を始めた。

今までより格段と一緒にいる時間が長くなった。

それに対する嫌悪感は無く、むしろ、そこには安心感と穏やかな日常があった。

お互いの生活があるので、会話の無い日もあったけど、それでも毎日同じベッドで寝た。

私は彼の腕の中で、安心して眠れた。


病に罹ったとは言え、日常生活には支障がなければ、お互い話題にする事もない。

そんなもの、無かったのかもしれないと思うような平穏だけがあった。

いや、そんなものは無かったと思いたかったんだと思う。


けれど、まあ、人生とはそう上手くいかないものだ。


彼との生活が美しくて、まだこの中で微睡んでいたいと、この生活が続けばいいのにと、望んでしまったのがいけなかったのか。


眠る前、布団に入ってから、


ああ、私は今日死ぬんだ、と、突然覚ってしまった。


別に何か調子が悪い訳ではなく、本当にいつも通りだったのに、確信があった。



はじめて、眠りたくないと思った。



「じゃあ、電気消すよ?」

「………うん、」


部屋の照明が落ちる。


「…今日ね、可愛い犬がいたよ、道端に。シーズーかな、白と茶色で、ふわふわしてた。」

「シーズーかぁ、可愛いよね。僕も犬飼いたいなぁ。でも、あなたがいるからなぁ。」


ふふ、と笑う彼に笑い返せない。


「どうしたの?どっか調子悪い?」

「あ、いや……考え事してた。」

「何?話聞くよ?」


眠りたくない、なんて言えなかった。

なのに刻々と、私は眠ろうとしていた。


「…あのさ、私のわがままで、今、一緒に住んでるじゃん。その、迷惑じゃなかったかなって。」

「…なんで?」

「だってさ、その、言ってしまえばさ、」


「看取ってくれって、言ってる訳、だし。」


息を呑んだ気がした。


「その、今思えば、酷いこと言ってたよね。ごめん。」



「…あのね、未夢さん。僕はね、あなたに謝って欲しくは無いよ。」



「一緒に暮らし始めて、そりゃあ最初は、明日起きなかったら、って怖かったよ。それでもね、あなたと暮らす毎日はとても楽しい。そう思ってるのは僕だけだった?」

「…ううん。」

「それに、あなたは毎日起きてきてくれた。それが嬉しかった。」

「……うん、」

「そのうち僕も覚悟が出来た。明日、あなたが目覚めなくても、それでも、今、あなたを抱き締めてあげられるのは僕だけなんだ。あなたがいつ眠ってしまっても良いように、僕はあなたの心を守るんだって。」

「…うん、」

「なんの根拠もなくったってさ、大丈夫だよって、また明日ねって、抱き締めるんだ。」

「…っ、」


「僕は、僕だけが、あなたの望みを叶えてあげられるんだ。

最期に見るのは、僕がいいって望みを。」


「辛くないし、迷惑なんかじゃない。だって、僕はこんなにあなたに愛されてたんだって、分かってしまったからね!」


「っ、…、うん、好き、大好きだよ、」


うん、と彼は満足したように頷いた。


「ほら、明日も早いんでしょ?ぎゅってして寝よ?」

「…うん、………ねぇ、」

「なぁに?」

「あのね、」



幸せだったよ。



私を力強く抱きしめた彼が、震えていた気がした。



「未夢さん、未夢さん、」

「…陸くん、」



おやすみなさい、
















それは突然やってきた。


彼女が死ぬんだ、と分かってしまった。


最期は笑えていただろうか。


彼女は、寂しくなかっただろうか。


どんどん遠くなっていく彼女の鼓動が、


温度が、


呼吸が、


心臓の柔らかい部分に突き刺さるようだった。



しなないで、



声に出来なかった。



かなしい、さみしい、おいていかないで、



けれども現実は無情にも彼女を連れていく。


僕は冷たくなっていく彼女を抱き締めて声もあげず泣く事しかできなかった。


だって、僕が泣いていたら彼女は安心していけないかもしれないから。



さようなら、いとしい人。



せめて、その最期が、穏やかなものであったことを祈って、


遠くなる温もりを抱き締めた。




さようなら、さようなら、


ああ、でも、


明日もおはようが言えたなら、



僕の世界は、どれほど美しかっただろう。






朝になって、昼になっても、どれだけ待っても、彼女は起きてこなかった。


「…未夢さん、」


泣き腫らした目に夕焼けが染みる。


「……未夢さん、」


返事は無かった。


僕はもう一度だけ、彼女を強く抱き締めた。




おやすみなさい、




その寝顔は、驚く程穏やかだった。




季節がひとつ巡った、秋の事だ。

彼女はその晩、帰らぬ人となった。

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