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会社を辞めたのでのんびりスローライフを送る事にした

作者: 謙虚なサークル

「それでは本日付けで退社させて頂きます」


 くたびれた机と椅子がみっちりと詰まったボロボロの事務所で、男は深々と頭を下げる。

 短髪の精悍な顔つきをした男は、疲労からか目の下にクマができ、頬は痩けていた。

 しかしその表情はどこか清々しさを感じさせている。

 大型ディスカウントストア、マルハチ。

 青果担当、田村耕介。

 男のネームプレートにはそう書かれていた。


「……チッ」


 椅子に座っていた初老の男がそれを見て舌打ちをする。

 彼は耕介の直属の上司である、マルハチの店長だった。

 店長は不機嫌そうにタバコを咥える。


「言っておくが、ウチで勤まらないようでは他でもやっていけないぞ。田村ァ……!」


 店長はそう言ってタバコの煙を吐きかけるが、耕介は全く動じる様子はなかった。

 それを見て店長はますます不機嫌そうな顔になる。


「全く迷惑な男だったよ、お前は! 大した仕事もしないくせに高い給料持っていって、しかもようやくそこそこ使えるようになったら恩を忘れて辞めていくんだものなぁ!? しかも過去の分まで遡って残業代を払えだと!? 舐めた事を抜かしやがって! 本当ならこっちが賠償金を支払ってもらいたいくらいだよ!」


 店長は大声で耕介を罵倒し続ける。

 マルハチでは所謂サービス残業が公然と行われており、朝は6時から早出をし、8時にタイムカードを押して出勤という事になる。

 変える時も17時にタイムカードを押して退勤……とはならず、その後日付が変わるまで仕事が続けられるのだ。

 つまりタイムカード上は8時から17時まで、休憩時間を挟んで8時間の勤務時間という事になっているが、実際はその倍近くとなっていた。

 耕介はその証拠を持って労働基準局に通報、晴れて会社は従業員全員に未払い分の給料を支払うよう命じられたのである。

 皆は喜んだが、店長はそれを逆恨みし耕介を激しく罵倒した。

 元々よくなかった関係は悪化。そして現在に至る……というわけである。


「……未払いだった分を正当に払ってもらっただけなのですが」

「ハッ! それはお前らが仕事が遅いからだ! その責任を取るのは当然な事だろう!? 現に私は毎日仕事を定時で終えている!」


 なお、店長は主な業務を全て他の従業員に任せ、自分は早々と帰っていた。

 そして他の従業員にはタイムカードを切らせて働かせているのだ。

 拒む者は即、解雇。

 それを知っている周りの社員は冷たい視線を送るが、店長は気づかない。

 耕介はそんな店長と争う気はない。ただ呆れ切った顔でため息を吐く。


「……申し訳ありませんが私はもうこの会社とは関係ない。あなたの言葉を聞く必要もありませんので。失礼します」


 耕介は男に背を向け、すたすたと去っていく。


「な……田村ァァアアアアアアアアッッ!!」


 後ろで罵倒するような声が聞こえたが、田村は一度も振り返らなかった。


 ■■■


「田村さん!」


 外へ出た耕介を若い男が追いかける。

 茶髪の軽薄そうな青年は息を切らさながら耕介に追いついた。


「マジで辞めちゃうんすか!?」

「あぁ」


 迷いのない声に、耕介は本気なのだと青年は悟った。


「……はぁ、残念ですけど、本気なんすね。青果部門のエースである田村さんがいなくなったら、仕入れも管理も何もかも、訳わかんなくなっちまう……俺たちもどうなるやら……」

「ははは、俺を買い被りすぎだよ。仕事ってのは人間の一人や二人いなくなっても、どうにかなるような仕組みになってるんだ。それにお前にも色々教えておいただろ?」

「はぁ……」


 確かに引き継ぎをされはしたが、耕介の業務は多岐に渡る。

 青年は耕介の仕事を一割程度しか理解していなかった。

 不安そうな顔をする青年の肩に、耕介は手を載せる。


「頑張れよ。次のエースはお前だ」

「田村さん……!」


 目頭を熱くさせながらも青年は頷いた。

 ぐしぐしと目元を拭うと、誤魔化すような笑みを浮かべる。


「……へへっ、すみません。目にゴミが入っちまった。ところで田村さん、次の仕事は決まってるんすか?」

「あぁ、取引先の農家さんが引退するって聞いてな。農地を売ってもらえる事になったんだ。しばらくはのんびり農業でもやるさ」

「えぇっ!? 田村さん、農業やったことあるんすか!?」

「実は休日とかにそのご老人に色々指示してもらっていたんだよ。基本は習ったんで、後は自分で思考錯誤しながらやってみるさ」

「はぁぁ……あれだけの仕事をしながらいつの間に……やはり田村さんはすごいっすねぇ」

「馬鹿野郎、褒めても何も出ないぞ」

「へへっ、またなにか奢ってくれれば充分っすよ」


 そう言って笑う青年に、田村は呆れたようにため息を吐いた。

 しかしその表情は、けして嫌な感じではなかった。

 互いに再開を誓い合うように、握手を交わす。

 しばらくそうしていただろうか、


「やっべ、仕事に戻らないと! では田村さん、また!」

「おう」


 慌ただしく駆けていく青年を見送りながら、耕介もまたマルハチに背を向ける。


「さて、俺はのんびりスローライフを送るとするかね」


 大きく伸びをして、耕介は新たな仕事場へと向かう。

 地方都市島波町、その郊外にある農作地帯へと。

 それから数年の月日が経った。


 ■■■


 古びた単身者用アパートである『コーポしまなみ』の一室。

 1DKの部屋には様々な本がうず高く積まれており、そこかしこに新聞紙に包まれた野菜が転がっている。

 カーテンから漏れる光が枕元に刺し、眠っていた耕介は薄目を開ける。


「ふぁぁぁ……よく寝たな」


 大あくびをしながら耕介はベッドから起き上がる。

 洗面所で顔を洗って歯を磨き、サンダルを履いて庭へと出た。

 アパートに備え付けられた庭には、プランターが所狭しと並べられている。

 そこに生っているのは、色鮮やかなミニトマト。

 全て耕介が育て、実をつけたものである。

 その中から耕介は、丁度良い具合のものを一つずつ毟り、手のひらに乗せていく。


「いただきます」


 そう言って口の中に丸ごと放り込む。

 むぐむぐと口を動かした後、器用に取り分けたミニトマトのヘタを土の上に吐き捨てる。

 ヘタは土に還り、また新たな野菜の栄養となるのだ。

 プランターに植えられているミニトマトは植える時期を少しずつずらしており、夏の間中出来続ける。

 耕介はそれを毎朝の朝食としているのだ。


「……ようやくここまで来たな」


 青々と茂るミニトマトを見渡し、満足げに呟く耕介。

 のんびり自給自足生活を送るために農業を始めて最初の1年は苦難の連続だった。

 知識として知ってはいても、やってみたら実際は別物……というのはよくあること。

 最初は中々思うように農作物は育たず、実らず、貯金を食いつぶすだけの日々が続いた。


 だが試行錯誤を続け、耕介の畑ではようやく農作物が実るようになった。

 そこからは工夫の日々。余裕ができればより手間がかからぬよう強い品種を掛け合わせたり、より美味しくできるよう好みの味の品種をかけ合わせたり……更に年月を重ね、耕介は畑だけに飽き足らず、庭にまで作物を植えていた。

 用途は朝食用だったり、料理の際にちょっと野菜が足りなくなった時に使ったりと、色々である。

 ともあれ耕介は自給自足生活に近い環境を実現させつつあった。

 今日も耕介がミニトマトの世話をするべく、如雨露を用意しようとしたその時だ。


「おはようございまーすっ!」


 隣から聞こえてきた声に振り向くと、区切られた柵の向こう、隣の部屋で引き戸を開ける女性の姿が見えた。

 セミロングの黒髪を後ろで括り、やや袖の長いセーターにジーンズのスカート。

 美人、というわけではないが、小柄ながらも可愛らしい顔立ちをしている。

 年齢は20代前半くらいだろうか、明るい笑顔とよく通る声で女性は微笑む。


「初めまして、先日お隣に越してきた三条恵です。よろしくお願いしますねっ!」


 恵と名乗った女性が勢いよく頭を下げると、括っていた後ろ髪もぴょんと跳ねた。

 そういえば先週辺り、隣の部屋で何やらゴソゴソとしていたのを思い出していた。

 彼女の引っ越す音だったのか、と耕介は納得した。


「俺は田村耕介。よろしく」

「はーいっ! よろしくでーす」


 耕介は戸惑いながらも挨拶を交わす。

 そのあと、恵の視線が耕介の足元に生い茂るプランターに向いた。


「わぁー、すっごいお庭ですね。これ全部耕介さんが育ててるんですか?」


 いきなり名前で呼ばれ、少々面くらいながらも耕介は答えを返す。


「あぁ、朝食代わりに丁度いいんだよ。今の時期はミニトマトを作っている」

「ミニトマト! いいですねぇ、ヘルシー、そして経済的です。庭の有効活用ですね! 最近お野菜が高いですし、経済的ですねぇ」


 しみじみと呟く恵だったが、ふと耕介の方へ視線を送る。

 内緒話でもするかのように口元に手を当て、猫のような興味津々といった目で尋ねる。


「……ちなみにどうです? 家計的にはけっこう助かってます?」

「まぁそうだな。スーパーとかにも滅多に行かなくていいし、食費はあまりかからないよ」


 耕介の言葉に、恵の目はキランと光る。


「あー、あー、いいですねぇ。昔テレビでやってたじゃないですか。一か月1万円生活とか、私貧乏性だからちょっと憧れちゃうんですよねぇ」

「アレは生活費込みだったからな。食費だけなら俺は1000円くらいしかかかってないぜ」

「うそっ!?」


 驚きの声を上げる恵。


「すごくないですかそれっ!? めちゃめちゃ羨ましいんですけど?」

「そ、そうかね」


 一転、羨望の視線を向けられ耕介は照れ臭そうに頬を掻く。

 そんな耕介を恵はじろじろと見つめる。


「いいなぁ、家庭菜園ってお得なんですねぇ」

「まぁその分手間もかかるけどな」

「へぇぇ、ほぉぉ……」


 耕介の言葉を聞き流しながら、恵は興味津々といった顔でプランター群を眺めている。


「……私、やってみたいかも」


 恵の呟きをかき消すように、スズメがチチチと鳴いていた。


 ――――翌日、耕介が朝食ミニトマトを食べていると、隣の部屋からガラガラと扉の開く音が聞こえた。


「よい、しょっと」


 ひょっこり現れたのは、両手にプランターを抱えた恵だった。

 恵は耕介に気づくと、ぺこりとお辞儀をした。


「あ! おはようございます、耕介さん」


 その拍子に、後ろで括っていた髪が跳ねる。

 恵はサンダルを履くと頼りなさげにぽてぽてと歩くと、庭の端にプランターを置いた。

 ふぅ、と一息吐くと耕介に笑顔を向ける。


「と、いうわけで私もお野菜育てる事にしましたっ!」


 そう宣言する恵に、耕介は呆れ顔を返す。


「昨日の今日じゃないか。行動早いな」

「行動が早いのが取り柄でして。それに昔から家庭菜園にはちょっと興味があったのですよ。耕介さんがやってるのを見て、いい機会だと思いまして。……あと毎月食費1000円に惹かれまして」

「ははは、確かに食費は大きいよな」

「あ、もう笑わないでくださいよ! 別によく食べるからじゃないんですからねっ!」


 苦笑する耕介に、恵は赤ら顔で抗議する。

 家計を圧迫するのはやはり食費、その大半は野菜である。

 耕介もまた、一人暮らしを始めた頃は野菜の高さに辟易したものだ。

 自分で野菜を作り始めたのもその背景が大きい。


「そんなわけで手始めにこのミニトマトを育ててみようかとっ!」


 じゃん! とばかりに取り出したのは、ホームセンターから買ってきたミニトマトの苗だった。

 初心者には種より苗から育てた方がやりやすい。

 ちゃんとある程度は調べているようで、耕介はうんうんと頷く。


「同志が増えるのは俺も嬉しいよ。俺にわかる範囲でよければドンドン聞いてくれ」

「はーいっ! ……でも最初は自分でやってみますね。わからないことがあったらドンドン聞きますっ!」

「おう、いい心がけだ」


 最初から人に頼りきりになれば本人の向上心がなくなるし、わからない事を放置して進めると失敗し手間がかかり、やる気が失せる。

 ある程度は自分で進め、困ったら人に頼る。

 これが一番バランスの良いやり方だ。

 それをわかっている恵に、耕介は頼もしさを感じた。


「じゃあ頑張りな」

「はーい」


 元気よく返事をし、恵は作業を始めるのだった。


「ふんふんふふふーん♪」


 隣で作業をする恵の鼻歌を聴きながら、耕介もまたミニトマトの世話を進めていく。

 手慣れたもので、小一時間もすればあらかたの仕事は片が付いた。

 先に作業を終えた耕介が軒先でゆっくりお茶を飲んでいると、恵もプランターの前から立ち上がり背中を逸らす。

 ポキポキと背骨が鳴る音が聞こえた。


「ふー……終わった終わったぁ! あ、耕介さんいいもの飲んでますね。私も飲ーもおっと」


 恵はそう言って部屋に入って行くと、グラスに紅色の液体を汲んで持ってきた。

 どうやら紅茶のようだ。

 恵はおもむろに口をつけ、一気に飲み干す。


「んく、んく、んく……ぷあー! 一仕事した後の一杯は美味しいっ!」


 満足げに息を吐く恵。

 その視線は自らが植えたばかりのプランターの苗木に注がれていた。


「こんな感じでいいんですかね?」

「ふむ……」


 早速の質問に耕介もまたプランターを注視する。

 恵のプランターは単純なもので、ホームセンターで買ってきたミニトマトの苗を移し替え、そこに同じく買ってきた土を入れただけだ。

 耕介はそれを一瞥し、目を細める。


「……もうちょっと肥料を入れた方がいいな。市販の土だけだと栄養が足りないこともある。それに石灰も入れた方がいい。ミニトマトは酸性の土壌では育ちにくいからな」


 耕介の言葉に恵は目を丸くした。


「そうなんですか? ていうか酸性とか、なんでわかったんです?」

「土の色を見ればわかるさ」

「へぇー、そういうもんですかねぇ……」


 恵は感心した様子で、土を舐めるように見ている。

 耕介と自分のを交互に、何度も、目を動かす……が、違いが全く分からないようで、首を傾げるのみだ。


「……全然わかんないですね」

「そのうちわかるようになるさ」


 と言って、耕介は軒下からゴソゴソと袋を引っ張り出した。


「……こいつを撒いておくといい。ミニトマト用に配合した俺オリジナルの肥料だ。実をつけやすく、枯れにくくなる。ただしやりすぎには注意な」


 そう言って耕介は軒下から取り出した肥料を恵のプランターに入れ土と混ぜた。


「おー、ありがとうございます」

「あとは水やりを忘れないように。堆肥は二週間おきに一回、それで育つだろうさ」


 最初から色々言ってもダメだが、失敗してもやる気がなくなるものだ。

 このくらいの手助けは構わないだろうと耕介は思った。

 恵は肥料を受け取ると、大切そうに持つ。


「なるほど……耕介さん、色々と教えてくださってありがとうございますっ!」


 恵が勢いよく頭を下げると、括っていた後ろ髪もぴょんと跳ねた。


「上手くいくといいな」

「はーいっ!」


 耕介は恵に手を振り、部屋の中へ戻っていった。

 外ではまだ恵がプランターに肥料を撒いていた。


 ■■■


 隣の部屋だという事もあり、耕介と恵はしばしば顔を合わせるようになった。

 例えば二人が仕事を終えて帰宅する時間が丁度同じくらいで、耕介が軽トラから降りて荷物を出し入れしていると恵が自転車で帰ってくる、とかそんな具合だ。


「ただいまでーすっ!」

「はいよ、おかえり」


 と、まぁそんな感じで軽く挨拶をするのが二人の日課となっていた。


「いやぁ、今日も色々疲れちゃいましたよ。帰ろうとしたら先輩から仕事を押し付けられちゃいましてー。コピー30セット! 明日の会議で使うから早くしろー、とか言われまして」


 憂鬱そうにため息を吐く恵に、耕介は苦笑を返した。

 今は夏なのでまだ少し明るいとはいえ、もう19時を回っている。

 朝の6時半から出勤している恵はへとへとであろう。

 以前の耕介の勤務時間の2/3程度とはいえ、女性にはかなりの長時間労働だ。


「おぉ、それは大変だなぁ」

「えぇもう、朝に言えばいいのに、帰る直前に言ってくるんですもの」


 どうやら恵は近くのデザイン会社で仕事をしているらしく、こうして愚痴を聞くのも耕介の日課の一つだった。


「まぁ憂鬱な話は置いといて……耕介さん、ミニトマトのお世話をやりましょうかっ! 早くしないと日が暮れてしまいますし」

「おう、そうだな」


 そう言って二人は各々の部屋に入り、庭に出てくる。

 耕介は軽く泥を落としただけ、恵はスーツを脱ぎ、ジャージに着替えて。


「さー、トマ子ちゃん。いっぱいお水をあげましょうねー」


 どうやら恵は自分のトマトに名前を付けているらしい。

 自分も子供の頃にそんな事をしたなぁ、などと感慨にふけりながら耕介も如雨露を傾ける。

 出来るだけ葉に当たらないよう、根元に水を与えてやる。

 土を掘らないように満遍なく、染み込ませるように。

 あまりやり過ぎると根腐れするので適度に、恵も耕介に教えられたように水をやっていく。

 と、恵は何か見つけたようにひょいとしゃがみ込んだ。


「あーっ! 虫がいっぱいついてるっ!」


 恵のミニトマトには1ミリくらいの小さな虫がびっしりついていた。

 耕介も恵の隣に座り、それを覗き込む。


「こりゃアブラムシだな。こいつ自身に実害はないが放置すると大量に湧いてくる。するとほかの害虫も集めてしまう……早めに駆除した方がいい」

「んもー、私のトマ子ちゃんに何てことを! 許せん、吹き飛ばしてやる。ふー、ふー、ふーーーっ!」


 懸命に息を吹きかけるが、アブラムシはビクともしない。

 その様子が可笑しくて、耕介は吹き出した。


「むっ、耕介さん今笑ってませんでした?」

「いや……ぷくく、笑ってないよ」

「やっぱり笑ってるじゃないですかー!ひどーいっ!」

「ごめんごめん」


 恵は不機嫌そうな顔で、笑いを堪える耕介を睨む。

 そしてふと、口元に指を当て考え込んだ。


「……ていうかなんで何もしてないのにこんなに虫がついたんです?」

「買った土に有機肥料が混じってたからな。有機肥料は栄養豊富だが虫が湧きやすい。……ちょっと待ってな」


 耕介はそう言って部屋に戻る。

 しばらくして出てきた耕介の手にはセロテープが握られていた。

 それを見た恵は、すぐに耕介が何をしようとしてるのがわかった。


「ま、まさか耕介さん……」

「ふふん、そのまさかだよ」


 耕介は返事の代わりにニヤリと笑った。

 セロテープを切ると、葉の裏に粘着部分を何度か軽く当てる。

 ぺたぺたぺたぺたと。

 そのたびに大量のアブラムシがセロテープにくっついていく。


「あああっ!? 何て恐ろしい事を……!」

「いいアイデアだろ? 一匹一匹落とすより効率的だ。さぁて次々行こうか。恵ちゃんも、ほら」

「ひぃぃぃぃーっ!」


 耕介はそう言うと、恵にもセロテープを渡すのだった。

 ある程度アブラムシを取り終えると、次の葉の駆除へ。

 それを繰り返し、ようやくミニトマトからアブラムシがいなくなった。

 代わりにセロテープの裏側には、大量のアブラムシが手足を蠢かしていた。


「……ふぅ、こんなところか」


 耕介はセロテープを折りたたむ。

 恵は苦々しい顔でそれを見ていた。


「うぅ……なんかいやーな気持ちになりますね」

「まぁ仕方のないことさ。それに恵ちゃん、折角手間暇金をかけたトマ子ちゃんを食べられて、構わないのかい?」


 いじわるっぽく笑う耕介に、恵はむぅと唸る。


「……そうですね。美味しいミニトマトを作るためには仕方のない犠牲です。そう考える事にします……えいっ」


 恵もまた、アブラムシのついたセロテープを折りたたんだ。

 目を瞑り、手を合わせ、出来るだけそれを見ないようにしながら。

 小さくごめんなさいと呟いた。


「……そういえば耕介さんのミニトマトには虫がいないですね」


 手入れを終えた恵が耕介のミニトマトを見やると、アブラムシやその他の害虫が付いていなかった。

 少なくとも目に見える範囲内には。


「俺は化成肥料を使ってるからな。こいつは化学物質だから、虫が湧きにくいんだ」

「へぇぇ、だったら私もそっちにすればよかったなぁ」


 残念そうに呟く恵。

 耕介は自分のプランターの中から一つ、鮮やかなミニトマトを手に取った。


「とはいえ有機肥料が悪いってわけじゃない……これを食べてみな」

「耕介さんのミニトマト! ……いただきます」


 恵は興味深げにそれを見つめた後、ひょいと口に放り込んだ。

 もぐもぐと無言で噛みしめた後、恵は閉じていた目を大きく見開いく。


「おおっ! これはっ!」


 恵はキラキラと目を輝かせ、声のトーンが一つ上がった。


「張りのある皮を破ると、瑞々しい果汁が口の中に広がっていきます! とても甘いんだけど、いい感じにしょっぱくて……こんなトマト、食べたことがないですっ!」


 最大限の賛辞に、耕介は満足げに頷く。


「こいつは俺のオリジナル品種でね。土の栄養をグングン吸うから化成肥料じゃあ間に合わない。有機肥料じゃなきゃ追いつず、土が枯れてしまうのさ」

「おりじなるひんしゅ?」


 恵は有機肥料の有用性よりも、むしろ聞き慣れない単語に聞き返す。


「極上の甘みを持つエメラルドルビーと塩っぽい酸味が特徴のソルトマトを掛け合わせたものだ。名付けて『ソルラルド』ってところか」

「えぇっ!? じ、自分でそんな事をしたんですかっ!?」


 耕介の答えに恵は声を上げた。

 品種改良なんてのは未知の世界だった恵にしてみれば、驚くのも無理はない事である。

 まじまじと耕介の顔を見つめる恵。


「……もしや耕介さんは植物学者さんっ!?」

「いやいや、ただの趣味さ」

「趣味の範囲を完全に超えていると思うんですけどっ!?」

「そうかなぁ」


 事もなさげにそう言いのける耕介を、恵は釈然としない様子で見つめるのだった。


 ■■■


「ねぇ陽子、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」


 翌日、昼食のランチタイム。

 恵は同僚と小さな弁当箱を並べていた。


「なによ、恵」


 陽子と呼ばれた栗色の髪の女性は弁当箱を開けると、ウインナーを頬張る。

 ぷちん、と皮が弾ける心地よい音が鳴った。


「あなた、大学で農業専攻してたじゃない? 品種改良ってさ、やったことある?」


 恵もまた弁当箱を開けおにぎりを一口食べる。

 一緒に夕食の残り物である豚肉の大葉巻きを口に入れた。


「どうしたの、あんた農家でも始めるわけ?」

「やるわけないでしょっ! ……んで、どうなのよ」

「ないって。ナイナイ。変わり者の教授がちょっとやってたくらいよ。それもあまり上手くいってなかったみたいだし」


 陽子は卵焼きを頬張りながら首を振る。

 半熟の卵が唇にとろっと溢れ、それを舌でぬぐった。


「まず、手間がべらぼうにかかる。やり方自体は簡単よ。特定の品種同士でおしべとめしべをチョメチョメすればいいだけだしね。ただ確実に種子が出来るわけじゃないし、それを増やすには一組じゃ駄目だから結構な数をかけ合わせる必要がある。加えて例えかけ合わせが成功としても、思い通りのものが出来るとも限らない。様々な組み合わせを試して、試して、試して……ってそんな感じ。知識と経験、センスにカンが必要なのは前提として、時間とお金もかかるのよ。だからガチ農家でもやってる人は稀ね」

「へぇぇ……やっぱりすごいんだ」


 恵は最後のおにぎりを食べながら、感嘆の息を吐く。

 デザートに残しておいた苺を一口に食べると、弁当箱を閉じた。


「ありがとね、陽子。それじゃ私、仕事に戻るわ」

「え? 昼休みまだあるわよ?」

「先輩から言われてる仕事があってさ。早く帰りたいから昼休みにやっておく!」

「はぁ……真面目ねぇ。あー私はお昼寝して行くから」

「うんっ、それじゃあまた!」


 早々に机に突っ伏す陽子に手を振り、恵は走り去るのだった。


 ■■■


「よっ、今日は遅かったな」


 日がすっかり暮れた午後8時半、自転車を立ち漕ぎしながら帰ってきた恵を耕介は迎える。

 耕介の方は既に一通り作業は終わっているようだった。

 恵は自転車を一番端の定位置に止め、鍵を掛ける。


「すみません、仕事が中々終わらなくって」

「お疲れ。大変だったな。無理すんなよ」

「あはは、大丈夫ですよっ! 若いですしっ!」


 恵は元気よく腕まくりをし、力こぶを作るポーズを取る。

 細い二の腕は全く膨らむことはなかったが、心配無用とでも言わんばかりの満面の笑みだった。

 だが耕介は真面目な顔で続ける。


「……若くても壊れる時は壊れるもんだ」

「耕介、さん……?」


 どこか悲しそうな声に、恵は息を飲む。


 耕介の勤めていた会社には、毎年のように大量の新入社員が入ってきた。

 しかしすぐに体を壊したり精神を病んだりで、すぐに辞めてしまっていたのだ。

 耕介とて出来る限りのフォローはしたものの、若くして壊れていく新入社員を見続けていれば無理に辞めていく者たちを止める気にはなれなかったのだ。

 それを思い出してしんみりとしていた耕介だったが、すぐにいつもの顔に戻る。


「……ま、そうは言っても真面目なのは基本いい事だぜ。恵ちゃん」

「はいっ!」


 恵もまた、元気よく答えた。


「ほら、今日は暑かったからな。ミニトマトに水をあげるといい」

「おっと、そうでした。待っててねートマ子ちゃーん」


 恵は自分のプランターにウインクを送ると部屋に入ると、すぐにジャージ姿に着替えて出てきた。

 花柄の如雨露でプランターに水をあげていると、ふと顔を上げた。


「そういえば耕介さん、ミニトマトには水をあげない方が甘くなる……って聞いたんですけど、実際どうなんです?」

「ちゃんと水を与えないとダメだ」


 小さく首を傾げる恵に、耕介はそう答える。


「トマトは高冷地帯の原産だ。多湿を嫌う性質がある。それが極端に伝わったんだろう。ここは多湿の日本だからあまり水をやらなくても育つかもしれないが、それは土に植えている場合の話。鵜呑みにしてプランターに水をやらなかったら普通に枯れちまうよ」

「あー……なるほどたしかに」


 水が大量にある場所であればなるほど、わざわざ水を与える必要はない。

 逆に水がない場所であれば、頻繁に水を与える必要がある。


「これはあらゆるものに言える。水だけではなく、光や温度、湿度……植物だけでなく人間だってそうだろ? 仕事ばかりで休養がないと、枯れてしまうからな」


 耕介の言葉に恵はまるで今の自分を言い当てられたかのように、どきっとなる。

 そういえば最近空いた時間は先輩たちの手伝いをしていて、ほとんど休憩を取っていない事を思い出した。

 気を付けます、と消え入るような声で呟いた。


「……そ、それにしても耕介さんてなんだか学者さんみたいですねっ!」


 重苦しい雰囲気を振り払うべく、恵は話を変えた。


「よせよ。趣味が高じて……ってやつさ」


 耕介もそれに乗っかる。

 空気が戻ったのに安堵しながら、恵は話を続ける。


「いえいえ、品種改良もしてますし、いろいろ詳しいし、耕介さんってやはり高名な植物学者なのでは?」

「うーん、本当にただの趣味なんだけどなぁ」


 ぼりぼりと頭を掻く耕介。


「……ただまぁ、ずっとやっているうちに、植物の顔みたいなのはわかるようになったかも」

「かお……ですか」

「例え話だけどな。その植物の色、艶、形……その他諸々の感じで何を欲しているのかがわかってくるんだよ。恵ちゃんもトマ子を育てていけばきっとわかるようになるぜ」


 ニカッと白い歯を見せる耕介に恵は大きく首を傾げた。


「そうなの? トマ子ちゃん」


 恵はミニトマトの前にしゃがみ込んでその葉を指でつつくが、葉はただ揺れるばかりで何も返すことはなかった。


 ■■■


「三条さーん、ちょっと手伝って!」

「はーい!」

「それ終わったらこっちもよろしくー!」

「はいはーい!」


 先輩たちに呼ばれるがまま、事務所内を駆け巡る恵。

 それを陽子が不機嫌そうな顔で、じっと見ていた。

 ――――その昼休み、


「恵、アンタ人の仕事ばかりやりすぎじゃない?」


 陽子は恵を捕まえて言った。


「えーと……そうだっけ?」

「そうよ、しかも雑用ばっかり押し付けられて……何やってるのよ、全く」


 呆れたような顔で陽子は恵に言う。

 恵はまだ入社して1年ほど、ようやく仕事にも慣れてきた頃だ。

 少し余裕が出てきた恵は周りの皆から「何か手伝えることはないか?」と聞いて回り仕事を集めているのである。

 結果、舞い込む大量の雑用。

 コピーに書類の送付、テキストデータを打ち込んだり、お茶を汲んだり……

 恵はそれを嫌な顔一つせず、快く引き受けていた。


「いやぁ、私ってば新人だし、皆さんの仕事を手伝えば、交流にもなって仕事も覚えられて一石二鳥かなー、とか思いまして」


 にへらと笑う恵に、陽子は怪訝そうな視線を向ける。


「アンタがそんな事言ってるから、皆が自分の仕事を押し付けてくるのよ。言っとくけど、なんでもやればいいってもんじゃないんだからね。雑用なんてやってもアンタの評価にはならないわよ。せっかく才能あるのに、もったいない」


 厳しい言い方だが、恵を慮ってのものだった。

 二人の勤める会社、ヤマザキアートコーポレーションは契約社員を多く雇うデザイン会社。

 社員各々が顧客の依頼に対してデザインを考案し、上司に採用されなければ評価にならない。

 評価を得られなかった者は契約を更新できず、会社を去る事となる。

 それは社員である恵にとっても同じ事。

 皆の雑用を快く受けていた恵は、ここ最近ろくにデザインを起こせていなかった。


「全く、雑用を新人一人に押し付けて皆さんは自分の仕事をやってるんだから、恥ずかしくないんですかねーえ?」


 皆に聞こえるような大きな声を上げ、陽子は事務所内を睨みつける。

 その場の全員が慌てて陽子たちから目を逸らした。


「ま、まぁ、私も頼られるのは嫌いじゃないし……」


 慌ててフォローする恵だが、陽子は不機嫌なままだ。


「限度があるって言ってるの。誰かの手伝いをするなんてのは、余裕がある人間がやる事よ。アンタは新人、余裕があるなら自分の事に使いなさいな。自分の休憩時間まで削って、残業も最後まで残って……それでやっているのが雑用なんて、そんなのはダメよ」

「ごめんっ!」


 そんな陽子に恵は、ぱちんと手を合わせて頭を下げる。


「心配させちゃったね。陽子、でも大丈夫だから!」


 元気が有り余っている、とでも言わんばかりにガッツポーズをして見せる恵。


「今月末〆切のしまなみ町農業祭のポスターデザインコンペ、私も出すよっ!」


 力強く満面の笑みを浮かべる恵を見て、陽子は呆れ顔になる。


「皆が押し付けた雑用をしながら?」

「まぁね。でも私やるから」


 決意に燃える瞳の恵。

 こうなっては何を言っても無駄だと陽子はよくわかっていた。


「……はぁ、昔からそうなのよね、皆がやりたがらない学級委員長とかを自分で立候補したりしてさ」

「あはは、そんなことあったかな……でも楽しかったよ?」

「それはアンタだけでしょ。恵がやる気出しすぎて、結局ついてきたのは私だけだったじゃないの」

「……その節はご迷惑をおかけしました」


 迷惑をかけた、とは微塵も思っていなさそうに恵は笑う。

 陽子は諦めたように肩を落とし、首を振った。


「ま、アンタの好きにしなさいな。困ったら手伝ってあげるわよ」

「ありがとう陽子、大好きだよ!」

「……ばーか」


 小声で呟く陽子に、恵は苦笑を返した。


 ■■■


「ただいまーでーす……」

「おう、おかえり」


 疲れ切った顔で自転車を漕ぎながら、恵は耕介に挨拶をした。

 日は完全に落ちて辺りは暗くなっており、耕介は庭仕事を終えて部屋に戻るところだった。


「最近帰ってくるのが遅いな。仕事が忙しいのかい?」

「えぇ……ちょっと居残りでお仕事をしておりましてー……」


 恵はヨロヨロと自転車を置くと、疲れ切った顔で笑う。

 結局恵は全員からの雑用を済ませた後、定時が終わった後に自分の仕事をしていたのだ。

 陽子が手伝おうかと言いはしたが、自分の仕事は自分でやると頑として聞かなかったのである。

 しかも数日、そんな日々が続いたのだ。

 恵の体力は限界だった。


「うー、それでもトマ子ちゃんの世話をやらねばーっ!」


 恵は頼りない足取りで部屋に入ろうとするが、よろけて壁にもたれかかってしまう。

 そのままずるりと、地面に沈む。


「お、おい恵ちゃん!?」


 慌てて駆け寄り、抱き起こす。


「大丈夫かよ。いきなり倒れるなんて……」

「いやぁ、つい足がふらついちゃって……大丈夫ですよ! 立てるので……んっ!」


 力を込めて立ち上がろうとするが、それは叶わず。


「あ、あれ……おかしいな……?」


 生まれたばかりの小鹿のように足をふらつかせるのみだ。

 恵は尻もちをついたまま、動けなくなっていた。

 耕介は仕方なく、手を差し出す。


「仕方ないな……ほれ、掴まりな」

「すみません……」


 恵はその手を取り、支えにして立ち上がる。

 それでもやはりふらついており、耕介は肩を貸したまま扉の前にまで連れて行った。


「……まぁ流石に女子の部屋に入るわけにもいかんからな。ここでいいか?」

「えぇはい、そうですね。ご迷惑をおかけして……」


 恵が言いかけた瞬間である。

 ぎゅるるるる、と音が鳴った。

 音の出所は言わずもがな、恵の腹だった。


「あ……」


 真っ赤な顔で腹を押さえる恵。


「い、いやー、昼ごはんもちょっとしか食べてなかったものでして……」


 昼休み返上で働いていた恵は、昼食も早々に切り上げ仕事に戻っていた。

 当然、夕食の支度をしているはずもない。

 耕介はしばし考えこんだ後、大きなため息を吐いた。


「……何か作ってきてやるよ。ちょっと待ってな」

「え? あ、でも流石にそれは……」

「いいから」


 呆けた顔で困惑する恵を残し、耕介は自分の部屋へと戻るのだった。

 恵の部屋を出た耕介は、すぐに自分の部屋へと戻る。


「と入ったものの……野菜をほとんど切らしてたんだよなぁ」


 いつもであれば野菜が山積みになっているのだが、一人暮らしという事もあり畑から野菜を取って帰るのは本格的になくなってからだった。

 何か作ってくるとは言ったものの、材料なしではどうしようもなかった。


「……いや、まてよ。アレを使えば……!」


 ふと、耕介は何か閃いたように鍋を手にしてベランダへと飛び出していった。


「おまたせ!」


 そして15分後、耕介はホカホカと湯気を立たせる鍋を手に、恵に入る。

 カギはかかっておらず、扉はすんなりと開き、恵は土間でへたり込んだままだった。


「お待ちしておりましたー……」

「……って、まだそこにいたのかよ! 不用心だな」

「いやー、お腹が空いて力が出なくて……」


 力なく笑う恵の前に、鍋を下ろす

 そこから漂ってくるいい匂いに、恵はクンクンと鼻を鳴らした。

 待ちきれないといった顔の恵に耕介は鍋蓋に手をかける。


「ほらよ、作ってきたぜ」


 そう言って蓋を開けると同時に、野菜の濃厚な匂いが溢れ出す。

 まるで大自然の風景が見えるような、土と太陽と水の匂い。

 真っ白い湯気が散り姿を現したのは……一面のミニトマトだった。


「……トマトだ」


 なべ底にぎっしりと敷き詰められたミニトマト。

 異様な光景に思わずそう呟く恵。

 中にはヘタを取った大量のミニトマトが入れられており、茹でられた事で果肉がつぶれ、皮にも亀裂が入っていた。


「さっき採ったばかりのミニトマトを煮付けたものだ。疲労回復に効果がある」

「へ、へぇー……」


 あまりに豪快な料理に、恵はそう返すしかなかった。

 とはいえ腹が減っているのは確か。

 見た目はともかく、その芳しい匂いに恵の食欲は存分にそそられた。

 それを見越したように、耕介が箸を渡す。


「まぁ食べてみなよ」

「そう、ですね。もうホント、お腹空きっぱなしだったのでありがたいです」


 腹が減っているとはいえミニトマトをそのまま煮付けただけというのはいくらなんでも……とはいえ体力的に限界なのも事実。

 恵はミニトマトを箸で摘まむと、一瞬躊躇したあと、思い切って頬張った。

 もぐもぐもぐ、と口を動かしていた恵だったが、突如として目を見開く。


「美味しいっ!」


 そう言って、立ち上がった。


「一噛みするたびに果肉の中からたっぷりと甘酸っぱい汁が出てきます! 生で食べた時よりずっと美味しいです!」


 感動の声を上げながら、恵は箸を進めていく。

 一つ、二つ、三つ……

 すごい勢いでトマトがなくなっていくのを満足げに見ながら、耕介は頷く。


「芳醇なミニトマトの甘みは生で食べるよりも茹でた方がずっと濃くなる。だがそれをより引き立たせるのが塩なのさ。全体に満遍なく塩を振る事でミニトマトの甘さがより際立つ。これが素材の味を一番生かす食べ方なんだ。加えて言うと疲労回復の効果もある。元気が出てきただろう?」

「確かに力が溢れて……っていやいやいやっ! ミニトマトに疲労回復効果があるなんて、ましてや塩をかければ甘みが増すなんて! このご時世子供でも知ってますからっ!」

「……え、そうなのか?」

「ですよっ! だからってこんなに美味しくて、元気にもなるなんて、おかしいですっ!」


 シンプルな味付けでも素材が良ければ美味い、という事はままあるがそれにも限度がある。

 それに先刻まで動けなかった恵は回復し立ち上がっていた。

 旨味も疲労回復の効能も、耕介のミニトマトは常識の範疇を大きく超えていた。


「と言っても別に他の工夫はしてないんだがなぁ……ちょっと品種改良したくらいで……」

「それですよっ! むぐむぐ……全くただ塩で味付けただけで、ここまで美味しくなるなんて……あむあむ……信じられません! んっ、はふぅ……」


 怒っているのか感心しているのか、ともかく恵は一心不乱にミニトマトを口に入れていく。

 半分ほど食べた辺りでようやく、その動きが緩んだ。


「ふはぁ……美味しかったです……」


 満足げに息を吐く恵の身体は先刻と違い、ほんのり赤みを帯びていた。


「うーん、それにしてもこのミニトマト……」


 回復したにもかかわらず、恵はまだ満足いってなさそうに鍋を見つめていた。


「どうした? まだ食べたいなら遠慮しなくていいんだぞ?」


 尋ねる耕介の方にくるりと向き直ると、恵は鍋を持ち上げた。


「……この鍋、少し借りてもいいですか?」

「? もちろん構わんが……」

「ありがとうございますっ!」


 何か思いついたように、恵は鍋を持って自分の部屋の奥へと駆けていく。

 と思ったらすぐに戻ってきて、耕介の前に立った。


「さ、何をしているんです! どうぞ中へ」

「へ? い、いやしかし……」

「いいからいいから」


 半ば無理やり、耕介は恵に手を引かれ、部屋の中へと入っていった。


「どうぞ座っていて下さいなっ!」

「はい」


 恵は部屋の中に耕介を連れ込むと、中央に置かれていた丸テーブルの横、座布団の上に座らせる。

 耕介はその迫力に押され、なすがままであった。


「そして、ちょっと待っていてくださいね」


 そう言って恵は鍋を手にキッチンへと立つ。

 包丁とまな板を取り出し、冷蔵庫の中から肉や野菜を取り出し刻み始める。

 それを鍋に投入、火にくべながら戸棚から取り出した調味料を入れていく。


「一煮立ちさせて……出来た!」


 鍋の中には玉ねぎと豚バラ肉、そして先刻と同じように大量のミニトマトが入っていた。

 飴色のスープからは何とも言えない良い匂いが漂っている。

 汁椀にそれを注ぎ入れて、スプーンと水と一緒にテーブルに二つ並べた。


「はいっ、ミネストローネですよ、耕介さん」


 汁椀の中には真っ赤なスープがたっぷり入っており、煮込んで形の崩れたミニトマトと玉ねぎ、豚肉が浮かんでいる。


「おおっ、こいつは美味そうだ!」

「はい、食べてみて下さい」


 促されるまま、耕介はスープの中にスプーンを入れ、ミニトマトと一緒に掬う。

 ふーふーと息を吹きかけて冷まし、一口。


「……美味い!」


 反射的に出た賛辞の言葉に、恵は満面の笑みを浮かべる。


「これは最高だぜ恵ちゃん! 甘いだけじゃなく、旨味もすごい! いくらでも食べられそうだ!」

「ふふっ、それは良かったです。おかわりもありますからね」

「おかわりっ!」


 即座にお椀を差し出す耕介に恵は一瞬目を丸くするも、すぐに満面の笑みを浮かべて注ぎ直した。


「どうぞっ!」


 二人して鍋を囲み、ミネストローネをぱくぱくと食べるのだった。

 あっという間に鍋は空になり、お椀の上に投げ出されたスプーンがカランと音を鳴らす。


「ふはぁ、お腹いっぱいだ!」

「私もです」


 二人は満足げに満腹になった腹を撫でていた。


「こんな美味いもの初めて食べたぜ。ありがとな」

「耕介さんのミニトマトがそれだけ美味しかったんですよ」


 恵は何かを思い出したようにハッとなる。


「あ……す、すみません! せっかく作ってくれた料理に手を加えてしまって……ホント、申し訳ないっていうか、あれだけ美味しいミニトマトなら、ミネストローネにしたらさぞかし美味しいだろうと思っちゃいまして、つい……」

「ははは、そんな事気にしないでくれ。むしろありがたいぜ。こんな美味しく作ってくれてよ。ありがとう」

「い、いえ……こちらこそ……」


 耕介にべた褒めされ、恵はほんのりと顔を赤らめた。

 いや、ほんのりというよりは真っ赤だった。


「恵ちゃん、顔赤くねぇか?」

「ふぇ?」


 呆けたような返事をして、恵は頭をふらつかせた。

 そのまま床に倒れこんでしまう。


「恵ちゃん!? おい、恵ちゃん!」

「あ、ははは……お腹いっぱいになったら、疲れていたのを思い出しちゃって……ミニトマトで完全回復したかと思ったんですが……すみません」

「そんなわけないだろ。ったく、仕方ないな」


 耕介はそんな恵に手を貸し、引き起こすのだった。


 ――――翌日、大事を取って恵は会社を休んだ。

 正確には耕介が休ませたのだ。

 なにせ玄関先で倒れるような状態だったのである。

 無理はするなという耕介に、恵は渋々従った。

 会社に連絡した恵は、ベッドの上でスマートフォンをぽちぽちと操作していた。

 付き合いで始めたソーシャルゲームにも飽き、枕元に放り投げる。


「暇だなー……」


 思えばここ数ヶ月、有給も取らずに朝から晩まで働いていたのだ。

 会社を休んだ手前、外出もしにくいし、室内でじっくりやれるような趣味もない。

 降って湧いた休日を恵は持て余していた。


「ん、あれは……?」


 ふと、ベランダの外を見ると耕介がハサミを持ってミニトマトの前に立っていた。

 何をしているんだろうと思い、恵も扉を開けて外へ出る。

 それに気づいた耕介が、恵の方を向いた。


「おう、恵ちゃん。身体の調子はどうだ?」

「おかげさまで。……耕介さんは何をしているんです?」

「剪定だよ」


 ぱちん、と音を立て枝が切り落とされた。


「栄養が枝葉に回ってしまうと、木ばかりが大きくなって実が不味くなっちまうんだ。そうさせない為にこうして余分な枝を摘んでるのさ。栄養が十分に回ったミニトマトの美味さは恵ちゃんが体験した通りだ」

「へぇぇ……」


 感嘆の息を漏らす恵。

 確かに耕介のミニトマトは、市販のものと比べてもぎゅっと味が濃縮して感じられた。


「力の入れどころは見極めなくっちゃな。余分な事に力を費やすと、自分が本当にやりたい事を見失ってしまう。何でもかんでも手を出せばいいってもんじゃないんだぜ」


 恵は自分の事を言い当てられたかのように、肩を窄めた。

 耕介は昔を思い出すように、目を細める。


「俺も昔、がむしゃらに仕事をしていた時期があったんだ。入社直後だったかな。とにかく目に付く仕事を全部やってた。でもそれで身体を壊しちゃったんだよ。ウチの職場はやること多すぎたから、寝る時間がほとんどなくなっちゃっててな。まぁそれに反省してからはある程度範囲を決めて仕事をするようにしたんだよ」


 スーパーの仕事は多岐に渡る。

 レジ打ちに品出しから清掃から始まり、惣菜作りにバイトの指導、仕入れに交渉、トラブル対応……他にもなんやらかんやらと上げればキリがない。

 入社したばかりの耕介はほとんど休む事もなく泊まり込みで仕事をし、身体を壊してしまったのだ。

 身体を壊すなんてのは自己管理が鳴っていない証拠だ、と怒った店長は耕介を青果コーナー専属とした。

 結果的にはそれが見事にハマり、耕介は化けた。

 大量の青果を取り扱う事で目利きの腕はグングン上がり、あっという間に青果部門のエースになったのである。

 ――――などとは、もちろん言わなかったが。


「……なるほど、耕介さんも苦労されたんですね」

「昔の話さ。……さて、畑に行ってくるぜ。恵ちゃんも今日は安静にしてな」

「はい、行ってらっしゃい」


 耕介は恵に手を振ると、軽トラックで畑へと向かうのだった。


「恵ちゃーん、ちょっとコピー50部、大至急お願いできるかな?」


 翌日、出社した早々恵は部署の先輩に声をかけられた。

 恵はいつものように笑って、


「すみませんが、忙しいので」


 しかし首を振った。

 いつも快く引き受けてくれる恵に断られ、先輩は驚き目を丸くしていた。

 事務所内の同僚も、隣に座っていた陽子もまた、同じように驚いた。

 その午前中、何度も声をかけられたが恵はその全てに首を振って返したのである。


「ちょっと恵、どういう心境の変化なわけ?」


 その昼休み、陽子は恵を掴まえて尋ねる。


「雑用引き受けるのやめちゃったの? 皆、面食らってるわよ」

「デザインコンペ。もうあまり期日がないから。先輩方には悪いけどね」

「へぇ、どうやら本気になったのかしら?」


 恵は無言で、しかし力強く頷いた。

 陽子はどこか頼もしくなった恵を見て、微笑む。


「いいじゃない。頑張りなよ。応援してるから」

「ありがとう。……さて、仕事仕事!」


 恵はさっさと弁当を食べると、パソコンに向かうのだった。


 ■■■


 それから数日、耕介が庭で水やりをしていると、


「耕介さーん!」


 恵が声を張り、キコキコと自転車をこぎ帰ってきた。

 手には一枚の書類を持っている。


「おう、恵ちゃん。おかえり」

「ただいまです! それよりコレ見てくださいコレっ!」


 鼻息を荒くしながら、恵は耕介に書類を押し付けた。

 圧倒されながらも耕介はそれを読み上げる。


「えーと、なになに……しまなみ農業祭ポスター制作担当者……三条恵。おお! 前に言ってたデザインコンペ採用されたのか! すごいじゃないか!」

「でしょうっ!」


 自慢げに胸を張る恵。


「耕介さんのおかげです」

「俺は何もしてないんだけどなぁ」


 耕介はそうぼやきながら頭を掻く。

 恵は仕方ないなといった様子で小さくため息を吐いた後、微笑った。


「さ、お腹も空いたしご飯にしましょうか。今日は何か食べたいものはありますか?」

「また作ってくれるのか? ありがたいけど、流石に悪いぜ」

「いいんですよ。野菜の作り方を教えてもらっているお礼ですから。それに」

「それに?」

「これも私のやりたい事、ですからっ!」


 満面の笑みを浮かべる恵。

 その顔は夕焼けで真っ赤に染まっている。

 庭ではミニトマトが小さな蕾を付け始めていた。

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― 新着の感想 ―
[一言] 話自体は悪くないのですが短編だからか、のんびりスローライフやキーワードの農業無双の感じがあまりしません。単に、隣に越してきた恵とイチャコラするだけのラブコメのようです。
[一言] あああ~。 新人で優先順位がまだわからなくて、とにかく引き受けちゃうんですね。 ありました、そんな時期。 が、がんばれ~。
[良い点] 二人のやり取りにほっこりさせられました。人の経験を聞いて自分に生かすところがよかったです。 [一言] その後の二人の関係がどうなったか気になりますねー(によによ)
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