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ゴリラ紳士

淡い月が照らす夜道で、俺は不審な男に遭遇した。


その男は分厚いコートを着込んでいて、ひどく背中が曲がっているが、背筋をただせば身長が二m以上あるように思われた。そして住宅街の歩道の脇にポツンと設置された一台の自販機の前で、何やら不自然な動きをしていた。フードをかぶっているようで、俺の立ち位置から顔をよく見ることはできなかった。それは深夜一時くらいのことで、俺は残業を終えて帰宅する途中であり、なるべく早く疲れた体をベットに横たえたかった。しかし自宅への一本道の途中に男はいたので、俺は男が立ち去るのを待ち続けた。そのまま数分が経過した。男はいまだ、まごついている。飲み物を買うにしては動作がのろすぎて不可解だ。


俺は意を決し、視線を足元に落として男のほうを見ないようにして歩き出した。男の背後を通るとき、腐ったバナナと糞尿を混ぜあわせたような臭いがした。

「モゥシ、モゥシ」

---------野太い声。人間でないかのような声。

「キコエマセンカ、ネエ、ネエ、」

俺は全身の筋肉がこわばるのを感じたが、立ち止まった。勇気があるわけではなく、走り出して逃げてもかえって悪い結果が待ち受けているような気がしたからだ。俺が恐る恐る振り返ると、そこには男の顔があって、それは異常に毛深くゴツゴツしていて、まるで獣、そう、獣のようだった。俺は返事をしようとして開いた口をパクパクさせながら、何も言えないでいた。

「アッ、スイマセンネ。ソリャ、オドロキマスヨネ。ワタシ、ウエノドウブツエンノ、ゴウダトモウシマス」そう自己紹介しながらフードをとった男の顔は、まさしくゴリラのものに違いなかった。ゴリラが言葉をしゃべっているなんて!俺は夢を見ているのか!

「エエ、ミテノトオリ、ワタシ、ゴリラデス。ダケド、アナタニ、ガイヲ、クワエタリ、シマセンヨ」ゴリラはやけにゆっくりと話し始めた。動揺している俺を落ち着かせるようとしている感じの口調だった。

「ワタシ、イマ、ジュースヲ、カイタイノデスガ、ポケットカラ、オカネガ、トリダセナイノデス。テガ、オオキクテ、ポケットニ、ハイラナイノデス。」

ゴリラはやけに丁寧な言葉づかいをし、まるで日本語を勉強中の外国人紳士みたいだった。暴力的な印象や野蛮な気性は、彼の中に全く感じられなかった。俺は冷静さを取り戻してきた。

「あなたのポケットからお金を取り出せばいいんですね」

「エエ、ソウデス。オネガイシマス」

俺はそのゴリラ紳士に近づき、「ミギポケットデス」という言葉に従い、そこに手を入れた。コートからほのかな柔軟剤の匂いがした。出てきたのはくしゃくしゃの千円札一枚だった。「これでいいんですね」ゴリラの毛むくじゃらの手のひらに、そのお札を渡した。「エエ、エエ、アリガトウゴザイマス」彼は黒くて太い唇に、優しげな笑みを浮かべた。彼はお札を挿入口に入れようとしたが、やりにくそうだったので俺が代わりに買うことにした。

「どれがいいですか?コカコーラとか?」

「ワタシ、タンサンハ、ノメナイ。コーヒー、スキナンデス。ブラックヲ、オネガイシマス。アッ、アナタノブンモ、カッテイイデスヨ」

「それはどうも、いただきます。」

ブラックコーヒーと自分用の炭酸飲料を買ってから、俺はたった今ゴリラに奢られたんだということに気が付いた。なんて奇妙な体験なんだろう、、、


それからゴリラと共に自販機の前で立ち飲みしながら、たわいのないことを話した。彼の言葉の発音は非人間的だったが、文法的にはごく自然な日本語を喋った。

「日本語、お上手ですね」

「ハハッ、ソンナコト、ナイデス。」

「どこで身に着けたんですか?」

「タントウノ、シイクイント、ショッチュウ、シャベッテイルンデス。ワタシガ、ハナセルコトハ、ホカノヒトニハ、ナイショナノデスガネ。カレハ、ホンヲクレタリモスルンデスヨ。」

「文字も読めるんですか?!」

「エエ、デモ、ゴリラハ、シリョクガ、ワルイカラ、ヨムト、ツカレマス。ニンゲンハ、メガヨクテ、ウラヤマシイ。ハハッ」

彼は礼儀正しい世間話というのを心得ているらしく、俺の年齢や職業についても当たり障りのない程度に尋ねてくれた。

「今日も残業だったんですよ。毎日毎日。どう残業代は出ないですしね。」

「ウーン、ソレハ、タイヘンデスネ。サイキン、ニュースデモ、ソウイウハナシヲ、ヨクキキマス。ウーン・・・・・・ワタシ、ゴリラナノデ、アナタノヤクニ、タテマセンガ、ナントカ、ガンバッテクダサイネ」彼は励ますようにして、俺の肩を軽くたたいてくれた。どっしりとした重量が頼もしく感じられた。


しばらくして、少し冷たい風が吹き始めた。俺は思わずくしゃみをした。

「ジャア、ソロソロ、オワカレ、シマショウカ。アナタト、ハナセテ、タノシカッタ。」

彼が手を差し伸べてきたので、俺たちはしっかり握手を交わした。

「あなたのことは誰にも言わないから、安心してください。」

「アリガトウ。デモ、イッタトシテモ、ダイジョウブ。ダレモ、シンジナイダロウカラ。ハハッ」

ゴリラ紳士はフードをかぶり、歩き出した。身をかがめている後ろ姿から、大柄ながら優しい人柄が容易に想像され、俺はつい頬を緩めた。彼がゴリラではなく人間だったように思えた。反対方向にある自宅に向けて俺も歩き出し、数歩して振り向いたとき、彼の姿はもうなく、ただ薄暗闇が月の下にぼんやりと浮かんでいた。


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