単身赴任中の不倫について
「失礼ですが、どちら様でしょうか」
ドアが完全に閉まるのを防ぎながら、知らない女性がこちらに問いかける。明らかに不審者を見る顔つきだ。 それもそうだろう。単身赴任中の夫の部屋を訪れたら、見ず知らずの若い女が上がり込んでいるのだから。
迂闊だった。合鍵を使うにしても、正樹さんに連絡してから来るべきだった。
昨夜、家に帰ってから携帯電話の充電器がカバンに入っていないのに気づき、今朝いつもより早く家を出て、忘れた携帯の充電器を取りに寄った上司の部屋で彼の奥さんと鉢合わせしているのである。
「ちょっと座ってお話できますか」
なすすべも無く、緊張しながら奥さんの正面に正座する。今日に限ってタイトスカートを履いてきてしまい、太ももの辺りがミチミチといっている。
これからどうなるのか。会社に連絡され、同僚達から距離を置かれ、左遷され……いや、最悪クビになるだろうか。一方で慰謝料を請求され、そんな額払えないとなれば、自分の実家までやって来るのだろうか。お前の教育が悪いと罵られたうちの親は泣いて謝るだろうか。私を見捨てるだろうか。
そんなところまで一瞬のうちに思考し、氷をぶちまけたように頭の中が冷たくなる。
「あなたは誰?どうして正樹の部屋にいるの?」
奥さんは冷静を装っているが、返答次第ではいきなり平手打ちされそうな、そんな激しさも表情から読み取れる。
嘘をつく余裕もなく、私は自分のことを説明した。自分が山本 美羽といい、正樹さんの部下であること。部屋に忘れ物を取りに寄ったこと。ただ、「合鍵」というのはためらわれて、正樹さんから鍵を借りていると言った。 奥さんにとっては同じことかもしれないが。
「あなた、いくつ?」
思いがけない質問だった。
23です、と伏し目に答えた。
東北の過疎の町から東京の大学に入り、なんとか就職した会社で入社一年目から九州支店に配属された。
慣れない場所での一人暮らしと残業の多い職場で、心身共に疲れ果てた時に、上司である正樹の優しさと大人の余裕に癒され、次第にそういう関係になっていった。
正樹も東京から単身赴任中のため、人恋しかったのかもしれない。
不倫は悪いことというのはもちろん分かっている。ただ、自分が陥った状況は、世間一般の「不倫」のような艶めかしく色っぽい刹那的なものではなく、もっと理性的で親にすがる雛鳥のような必然性があると思った。正樹以外に頼れる人がいたならば、絶対にこうはならなかったと言い切れる気がした。
「申し訳ないけど、正樹とは別れてもらえませんか」
私の年齢を聞いて、しばらくして奥さんが口を開いた。
「あの人、結婚してるって言わなかったかもしれないけど、妻と子がいるの」
奥さんはお腹に手をあてた。気づかなかったが、言われてみれば、小さな膨らみがあるように見える。
「やっとできたと思ったら単身赴任なんて」
奥さんはため息をついた。
「私はもう35よ。あなたから見たらおばちゃんでしょう。きっと正樹からしてもおばちゃんに見えているでしょうね。もう若くない」
そう言う奥さんは美しかった。歳相応な身なりをしていて、きちんと生活している様子が見てとれた。
ただ、自分ほどは張りのない肌や髪に少し同情した。
「あなたはまだ若いし綺麗だから、きっとよい人に巡り会えると思う。お願いだから正樹と別れてください。お金がいるなら多少は用意できるから、どうか、この子のために、お願いします」
奥さんが目の前で土下座している。
思いもよらない言動に、どうしたらよいかわからずにいると、奥さんがゆっくり頭を上げた。
「うちのが本当にごめんなさい」
正樹さんを愛していたなら、きっと今の一方的な言葉に怒りを覚えただろう。でも、私はもう正樹さんへの感情はなかった。
もしかしたら最初から何もなかったのかもしれなかった。
それより、今、目の前で頭を下げている女性に人間としての興味があった。
どんな気持ちでこんなちんちくりんな若いだけの女に頭を下げているのだろう。
どうしてそこまで気持ちを抑えられるの。
「私が寂しかっただけで、付き合っているなんて言えないくらいの関係だったんです。迷惑かけてすみませんでした。もうしません。だから、その、落ち着いたら色々お話したいので、あなたの連絡先、教えてくださいませんか」
奥さんは狐につままれたような顔をしていた。
今思えば、自分でもびっくりするような提案だった。 続く