ふたたび歓楽街に
やはりあの女性は現れませんでした。昨年と同様にこの日本有数の歓楽街のとある雑居ビルの前に佇んでいたのですが。ただ、あのときとは違いその女性が姿を見せいないかという想いでそうしたのです。そうです。あの日、事件の現場となった場所に案内してくれた方です。歳にして七拾ぐらいの。確か「どちらかに案内しましょうか」と話しかてきたはずです。もちろん、それが売春に関わることであるぐらいは承知しておりました。でも、それを受けたばかりに危うく殺人の被害者になるところでしたし、結果的に勾留請求はされなかったものの、現住建造物放火の容疑で緊急逮捕されました。だから会ってそのことを質そうとしたのです。一方せんないことであることも承知できていました。でも、心のもやもやしたものは、その女性に対し何も云わずして解消されそうにありません。もちろん、理知的に接するつもりでいました。決して声を荒げるようなことはしないと。しかし、相当ながく立っていたもので疲れてしまったのです。この分だとどうやら現れそうになさそうです。であってもこのまま此処を立ち去れずにいました。もう一度自身の記憶を頼りに事件のあった画廊へ行くことにしました。もっともためらいもありました。何分、私を殺そうとした女、そう、そこの画廊の店主はまだ捕まっていなかったからです。ある意味、そら恐ろしいことでした。しかし、そこに訪れ、別な方が新しく商売でもされていれば、幾分か自身の気持ちはおさまるのではと思ったのです。
その道すがら思い出していました。あのとき、何とか難を逃れすぐに交番に行き警官に事の次第を告げたことを。しかし、内容が殺人未遂被疑事件でもあることから所轄の警察署にパトカーで連れてゆかれました。ただ、被害者であると共に現住建造物放火の容疑者として身柄を確保された次第でもあったのです。それというのも床に落ちた蝋燭の炎にキャンバスやスプレー缶をくめたことを話していたからです。警察署では聴取を受け、すぐに緊急逮捕されました。そして、裁判官から逮捕状が発布され、その執行を受けました。それについて係官は正当防衛とも考えられるが、何分、旅行中であり住所があるにしても所在を掴めなくなるおそれがあるからやむをえない措置だと説明してくれました。ただ、若干後悔しました。それというのも全く正当防衛と受け止められると考えていたからです。だからすすんで火にくめたことも話したものですから。
しかし、その後消火にあたっていた消防吏員より現場の冷凍庫から複数の死体が見つかったとの通報がありました。きっとあの爆発で扉が開いたのでしょう。私は、留置場の房から呼び出され検証の立会を求められました。私も一刻も早く容疑を晴らしたい想いから協力は惜しまなかったのです。
現場では犯行に関連する品々が押収されていました。その中に私の頸部をしめたロープも含まてていました。もちろん、ハーブティーの茶葉も。そして、捜査官は破損したスプレー缶を見て私の供述に整合性を見出してくれました。また、検証で犯行時の状況を再現したとき、供述との矛盾がないとの所感も伝えてくれました。
そうして翌日の午後、検察庁に連れて行かれました。もちろん、女が殺害したであろう遺体が発見されたお陰で疑いも随分晴れたものと思いました。ただ現住建造物放火被疑事件ゆえ、一応は送検するとのことでした。でも、やはりというべきか担当の検事は被疑者ではなく、参考人という感じで接してくれました。もちろん、正当防衛であると認めてくれたのでしょう。もっとも説明としては殺人の容疑者である女店主の身柄が確保出来ていない状況で私を起訴するのは難しいとのことでした。要は、女の供述も得たかったのでしょう。また、後で知ったのですが、そのときは激しく焔は燃え上がったものの、単に火花が飛散したのみで実際はボヤ程度であったことや、ビルのオーナーとそこを借りて女に使わせていたパトロンが今後を慮り、殺人のみならず放火事件の現場になるのは痛手だとし、宥恕する向きを顧問弁護士を通じ検察庁に申し入れた事情もあったみたいです。
そういう諸々が作用し、嫌疑なしとの理由で釈放されました。もっとも今後の捜査への協力は約束させられました。そして、検事は老婆心ながらと断ったうえ、もし、女が捕まった後、また、事情を聴かれるが、くれぐれも自身がしたスプレー缶を火に投げた行いで女が死んでも構わない、そう思ったと述べない様にアドバイスしてくれました。これは正当防衛なのだからと。ただ、そのときは意味合いがよくつかめませんででした。
そんなことを思い出しつつ、何とか画廊があったビルに辿り着きました。何分入り組んだ処にあるものですから。でも、事件の影響か借り手がつかずシャッターは閉じられたままでした。ふと気付きました。斜向かいも画廊であることを。ただ驚いたことに私があのとき買おうとした絵が掲げられていました。あの男性の死に顔を描いた。それを見て、たいそう怖気づきました。すぐに立ち去るべきだったかもしれません。でも外にいる私の存在に気付いたみたいです。中から男が現れました。見ると顔に傷跡がありました。そして、云うのです。「お待ちしていました。」と。