003
一つの言葉が、僕の自殺を引き止めた。
なぜ、屋上に、僕以外の生徒がいる?
まさか、僕の知り合いの誰かが死のうとしているのを勘付いてやって来たのか?
だとすればマズい、特に、死に異常なほど執着を見せるアイツにバレたら、一日中説教を垂れる事になってしまう。それだけは嫌だ。何とか避けなければ。
どの言い訳が一番妥当か必死に思考を巡らせながら、僕は声のする方向へ、聞いたこともない声の方向へ振り返った。
……聞いたこともない声?
フェンス越しに、引き止めた人物を確認してみる。すると、毛先にウェーブが掛かった、低い位置にリボン紐で二房に結ったツインテールの女子生徒の姿が見えた。息が乱れているのか、胸部に手を付き、肩で呼吸を整えている。表情は苦しそうに見えるが、僕と視線が交わされると、口元が、嬉しそうに、緩んだ。
「良かった、間に合ったんだ! 本当に良かったわ、朝生くん!」
「え、……あ、いや、誰?」
それが率直な質問だった。この生徒は、さも友達であるかのように語りかけているが、僕の記憶には一切ない。同級生なのか、先輩なのか、はたまた後輩なのかも検討が付かない。こんなことをいうと、ただお前は忘れているわけじゃないのか、と疑念を抱かれそうだが、そんな事は絶対にあり得ない。これも先程言ったことなのだが、僕の人間関係はとても狭いのだ。この高校で仲の良い人は、片手で数えるほどしかいない。しかも、心の底から仲が良いと、胸を張って自慢げに言えるような友達の数はゼロである。
だからこそ僕は、この女子生徒を初対面として接することになる。しかし、彼女の方はといえば、こんな有様だった。
「え? やだなぁ、私だよ、私。榛名若葉だよ。もう、忘れるだなんて酷いな……小学校の時、一緒に行動してたじゃない。確かに、朝生くんは記憶力が皆より悪かったかもしれないけど、私のことを忘れちゃうだなんて、いくらなんでもそれはショックだよー」
にこにこ、にこにこ。穏やかな笑みを浮かべながら、僕に話し掛けてくる。いや、もしかすると、少し大きな独り言なのかもしれない。正直、一方的に言葉をぶつけられたとしか思えなかった。
何なんだ、この女の子は?
「いや、悪いけど、僕はきみのことを知ら」
「さ、朝生くん一緒に帰ろう」
絶句した。言葉を遮られたこともあるのだが、彼女の言葉に、より一層驚いたのだ。
一緒に帰ろう?
待て待て、一体どこに帰ろうというのだ。
還ろうというのなら、まだ分かるが……。
ていうか初対面で僕のことを朝生くんだなんて気安く呼ぶなよ。そんな呼び方をするのは母親だけなはずだぞ。
「は、榛名さん。邪魔をしないでくれ欲しいんだけど」
「んん? やだ、朝生くん。そんな鬱々しい呼び方しなくて良よー。昔むたいに、ワカちゃんって呼んで? そうしてくれたら私、すっごく嬉しいから」
誰がお前をワカちゃんなどと呼ぶか。
本人にそう言ってやろうと思ったが、寸でのところでぐっと言葉を飲み干した。こんな知らない女の相手をしている場合じゃないのだ。
僕は再び彼女へ背を向け、あの美しい夕空と向き直った。最後に変な女に出会ってしまったけれど、この景色を眺めていると、どうでもよく思えてきた。
だけど、榛名若葉という女は、僕の行動が気になったのか、慌てて引き止めようとする。
「え……ね、ねえ? 無視? 流石に、本当に、傷付いちゃうんだけど……」
「……悪いけど」
ああ、どうしてこんな奴の相手をしなくちゃいけないのだ。
全くもって面倒臭い。
一つ感情だけが、僕の心の中でうごめいていた。
それでも僕は、はっきりと言っておくべきだと思ったのだ。
「悪いけど、僕はきみのことを知らない。榛名さんは本当に僕と関係があったのか? 全くもって見覚えがない。そういうの、はっきりいって気持ち悪い。ていうか、人が今から自殺しようと思っている時に、邪魔をしないでくれよ。きみのなかで、僕がどういう存在なのか全く知らないけど、それなりに仲の良い奴が死にたがっているんだから、そこは普通、相手を思いやるってのが筋ってもんじゃないのか?」
支離滅裂な屁理屈でしかなかった。いや、先程のが本心かと聞かれれば、全部が全部、嘘だとは言い切れないのだが……それにしたって、どんな言い草だよ。
自殺しようとしてる奴がいたら、普通は引き止めるに決まってるだろ。
まあ良いや。どうせ、この高さから飛び降りれば、そんなことも関係ない。あとは、僕の居ない世界は好き勝手にやっててくれ。
「…………」
彼女は何も言ってこない。
だけど、それが正しいのだ。
何も言わず、ただそこで黙って僕がみっともなく死んでいく姿を見送っていればいい。
しかし、またもや、僕の行動を妨げるものがいた。
『きちきちきちきち……』






