第三話
――そうして迎えた日曜日。
涼介とめいりが校舎の三階……男子トイレの前に到着したのは、午後三時を二十分ほど回った頃だった。
休日だけあって校内に生徒の姿は少ない。ここに来るまで、文化部らしい生徒数名……それと用務員の男性一人とすれ違っただけだ。
時おり、遠くの方からクラリネットやトランペットの音色が運ばれてくる。吹奏楽部員が自主練でもしているのだろうか。
とはいえ、やはり静かな校舎内。涼介たちの靴音もいつも以上に大きく耳に響いた。
「……いないね」
「ああ。トイレどころか、この階には誰もいないようだな」
一階や二階にはちらほらといた生徒も、この三階にまでは来ていないようだ。
涼介は、左手に巻いた腕時計に目をやりつつ、先日の笑海の話を思い返す。
職員室から戻ってすぐ、涼介は事件のことや調査のことを笑海に話した。
……笑海も笑海で、今回の事件と例の噂話に関連性を見い出したらしく。
今回の犯人であろう者……つまり、『三時ババア』に関する情報をいくつか教えてくれたのだ。
そのひとつに、
「たしか三時ババアが現れるのは、三時半過ぎだったか……」
然木談によると、正確には『三時三十三分』。
でもどのみちあと十分近くある。
「今のあいだに一階の廊下も見とくか……」
来た道を辿って再び一階へ……。
そのまま何事もなく、なんの変哲もない渡り廊下に辿り着いた。
涼介の歩幅で二十歩ほど歩けば、向こうへ渡りきれるほどの長さ。
一方は壁のみ、もう一方はアルミ製の簡易な柵があるだけで、そこから中庭が見渡せる。
「おや? 涼介涼介……これ、ちょっと変じゃない?」
「ん?」
めいりの指さすところ……校舎側の壁の一部を見てみる。
そこには、じんわりと黒い染みが二つほど浮かび上がっていた。
「染みか。それにしても……」
「なんだか、人の形に見えるね」
その染みはそれぞれ子ども一人分もの大きさがあり、その形もまさに人の影を映したかのようだった。
「ちょっと気味悪いな……。これって、今回の事件と関係あるんだろうか」
「ええ。すごく臭うわ。これは……カレー臭よっ」
「この気味悪さにカレー臭は嫌だなぁ……」
めいりの言葉に顔をしかめつつ、涼介は時計を見る。もう三時半になろうかというところだ。
「んじゃ、そろそろ戻るか……。ちょっと覚悟しておかないとな」
「そうね。トイレにカレーだもんね」
「頼む。それ以上は言うな……」
「いた……」
三階の男子トイレ前に戻ってきた涼介の、これが第一声だった。
トイレの右壁に並ぶ扉。その手前から三つめの個室前に、誰かが立っているのだ。
ボサボサの白髪頭に、ところどころ破けかけた浴衣のような服。
右手にサンポー○、左手にラバーカップ(俗称:スッポン)を持ち、こっちに視線を寄越してくるのは、年老いた女性。
つまりは……ババアだ。
「おや?」
「ん……? どうしためいり?」
めいりはいつもの無表情を少しだけしかめ、鼻をすんすんとヒクつかせていた。
「なんだか、危険な香りがするわ……」
「あ、ああ……、それはなんとなくわかるよ」
学校の男子トイレにババアがいる。それだけでもう、立派に異様だ。
「いえ、そうじゃなくて――」
「おやおや、また獲物が捕まったんかいな……」
めいりがなにか言おうとしたところで、ひどくしわがれた声。
それが予想以上に強く涼介の耳朶を打った。
涼介たちに気づいたのか、目尻のつり上がった双眸をこちらに向ける老人。
――獲物……。
今の言葉から、彼女が例のババアで間違いなさそうだ。
そういえば、さっきまで聞こえてきた吹奏楽器の音色もいつしか止んでいる。
それどころか風や建物の軋む音すら聞こえない……。まるで別世界に迷い込んだような感覚だった。
「こんな短期間に二人もいただけるとはね、ひひひひ……」
「二人ってことは……前に教師を襲ったのも、あんたなんだな?」
そして、おそらくコイツが『三時ババア』……。
「おや、そこまで知ってるんかいな。じゃあ話は早いねぇ」
いやらしく口元を歪めながら、ついでに舌なめずりをしながら近づいてくるババア。
合わせるように後ずさる涼介たち。やがて入口付近……廊下を見渡せるあたりで、再び対峙する形となった。
見た目だけでいえば、ただのみすぼらしい婆さんだ。でも、その殺気ともとれる眼力が人間のそれではない。
その異様な雰囲気を前に、涼介はふと思い至る。
たしか、先の数学教師……彼はズボンとパンツをずり下ろされた状態で見つかった。つまり、下半身丸出しの状態で。
そして、その顔はゲッソリとやつれていた。まるで、生気を根こそぎ吸い取られたかのように……。
「ま、まさか……!」
「ひひひ……今日の獲物は特段に若いねぇ。良い精が吸い取れそうだぁぁ」
「や、やっぱりかぁぁ――――!」
そういえば笑海からの情報にもあった。
休日の校舎に棲まう『三時ババア』、彼女が襲うのは決まって男らしい。
そして、襲われた教師のなれの果て……。
三時ババアのいう……精。
つまりは……涼介がこの十七年大事に守ってきた貞操(ただ機会に恵まれなかっただけだが)、それが今危険にさらされている……そういうことだった。
無意識のうちに涼介は一歩後ずさってしまう。
と同時、めいりが涼介を庇うようにして一歩前に踏み出してきた。
「涼介は下がってて……。ババア、わたしが相手よっ」
「はん、女連れかい。それにしても威勢のいい嬢ちゃんだ。……おや? もしかしてあんた……こっち側の子かい」
「いかにも。正義の幽霊少女めいりとは、わたしのことよっ」
ドドンと控えめな胸を張るめいり。
正義うんぬんはともかく、涼介は今ほどめいりが頼もしく思えたことはなかった。
「それに……そうかい。化け猫連れとは、変わった趣味の坊やだ」
同じ人外の存在である三時ババアには、めいりの正体はお見通しらしい。
「……なにがあるかわからんから、気をつけろよ、めいり」
「ふふん、大丈夫よ。このままレーザービームで成仏させてあげるわっ。観念しなさい、ババア!」
ババアなんぞに負けないという気迫がめいりから感じ取れる。
だが当の三時ババアの方も、その皺だらけの頬に余裕の笑みを浮かべたままだ。なにか策でもあるのだろうか……。
「図々しいガキ猫だ。そうだねぇ……アンタには……っと、これだ」
かくして、涼介の嫌な予想はよく当たる。
ババアはしばらくゴソゴソと着物の裾を漁ると、勢いよくそれを取り出し、目の前に掲げた。
「そ、それは――!」
驚き声をあげたのは涼介ではなく、もちろん三時ババアでもなく……めいりだった。