第一話
※今章は本編同様、涼介視点です。
新たな怪異も登場します!
――とある日曜日の午後。星凪高校校舎内でのことだった。
「よし、これで採点は終わりだな……」
男性教師の呟きが、他に誰もいない職員室内に木霊する。
短髪に、濃くも薄くもない平坦な顔立ち。
中肉中背。二十九歳。
……独身。
小犬のように愛らしく、天使のように優しい女性――日向陽菜先生に憧れる彼は、ここ星凪高校の数学教師である。
彼はこの休日を利用して、先日行った小テストの採点をしているところだった。
でもその作業もようやく終了。
あとは校舎の見回りを残すのみだった。
時計を見ると、ちょうど三時半になろうかという頃。
「よし……、さっさと終わらせて帰るとするかな、っと」
凝った肩を軽くほぐしながら席を立つ。そしてそのまま、隣のデスク上に置かれた写真立てを見やる。
友達と遊びにでも行ったのだろうか。その時に撮ってもらったのだろう。
遊園地をバックに咲く陽菜(+その他大勢)の笑顔が、その写真立てには収まっていた。
ちなみに、彼は幸運にも陽菜先生と席が隣同士なのである。
「くぅぅ~っ、陽菜先生ぇぇ~、くぅぅぅ~っ」
屈託のない陽菜の笑顔にアテられ、梅干しでも食べたような顔でしばらく身悶えた後、その数学教師は気合いを入れ直し職員室を後にした――。
――日曜日とはいえ、この日は校舎内に生徒の姿は全くなかった。
普段なら文化部員が数人ほどいそうなものだが……。
不思議に思いながらも、一階から順に見回っていく。
端から端まで練り歩く。
一階。
二階……。
三階…………。
「……ん?」
三階の端、ちょうどトイレがあるところで、なにやら物音がしたような気が――
――いや……誰かの声が聞こえた気がした。
用務員がトイレ掃除でもしているのだろうか。
そう思いながら、一応チェックはしておこうとトイレの方へと歩み寄った。
…………ぃ……ぁ…………。
だが、男子トイレの入口に差し掛かったところでふと、違和感を覚える。
声はたしかに聞こえる。
でも、それはどうやら女性の声らしい。
たしか、この学校の用務員は全員男だったはずだが……。
それに掃除用具も、全て揃った状態で元の用具入れに収まっていた。
……ぃ……ぃ……ぉぉ……。
「……? じゃあ……この声は……?」
男子トイレの、手前から三つめの個室。
そこから聞こえる女の……。
……おぉ……ぉ……ぇぇ……。
ひどくしわがれた……。
……老婆のような、声だった。
数学教師の顔は一気に青ざめる。
……考えると、色々おかしい。
休みの日とはいえ、学校内に生徒が一人もいないなんてこと、今まで一度たりともなかった。
それに、今も聞こえる得体のしれない声。
こんな声を出すような女性は……この学校にはいないはずだ。
――ガタッ!
鈍い音がして、三つ目の個室の扉が開く。
と同時に、その隙間から皺だらけの手が覗く。
ボロボロの長い爪に、灰色の……まるで老婆のような手だった。
「ひ、ひぃぃ……っ!」
途端、身体中を恐怖で支配された彼は、すぐさまその場から立ち去ろうと踵を返す。
……だが、一足遅かった。
足を前に出そうとしたと同時に、何者かに肩を掴まれる。
そしてすぐ耳元……吐息とともに年老いた女性の声が流れ込んでくるのを感じる。
――つ か ま え た……。
すっかり気が動転してしまっていた彼は、思わず振り返ってしまう。
そこには……。
「ぎ……ギャァァァァアアアア――――――――――――――!」
ここ……星凪高校の数学教師は、そのまま男子トイレへと引きずり込まれていった――。
* * *
「――と、ここまでが今日のお話……『休日の校舎に現る三時ババア』、その第一部だ」
「おいおい。今日のはやけにリアルだったな……。それに第二部もあるのかよ」
星凪高校二年Cクラス。
授業中の時間でありながら、普段よりも若干騒がしい教室内で。
クラスメイトである然木笑海の話を聞き終えると、涼介は思わず身震いしてしまった。
今日の話はいつになく、少しばかり怖い話だった。
学校だろうと路上だろうと、いきなり知らない婆さんに襲われるなんてぞっとしない。
しかも今回は、噂話にしてはやけにリアリティがあり……なによりタイムリーな話題だった。
そう……ちょうど今。
本来ならば、とある男性教師による数学の授業が行われるはずの今。
その教師の急の病欠により、涼介たちのクラスは自習時間となっているのだった。
「もしかして、その話って……マジじゃないよな?」
「ん? さあな」
「さあってお前……」
あっけらかんと応えるクラスメイト(一応……親友)を見て、涼介は嘆息する。
「あくまで独自で仕入れた噂を話したまで、だ。それが本当か否か……ボクは正直、あんまり興味がないな」
「そうなのか?」
「うん。それにもし噂が本当だったら、ボクは柳瀬に“事実”を伝えたことになる。ということはだ。ボクの異名は“歩く噂話”ではなく“歩く事実”になってしまう。そんな面白おかしい異名はいやだ」
「問題はそこなのかっ!?」
つい立ち上がって叫んでしまう。
まったく……驚きだ。
最近の笑海はどこか頼りになってたし、涼介はそんな彼女に対して、ほんの少しながら尊敬の念を抱いてさえいた。
……のだが、やはり笑海は変わらず笑海のようで、どこまでもボケ体質らしい。
「ま、ともかく今日の本題はここまでだ。第二部はまだ資料が少ないから、また後日だな」
「どこまでも噂話がメインのお前が、やっぱりお前らしいよ」
それにちゃんと資料なんてあるのか……。どこまで本格的なんだ。
若干呆れながら、涼介は再び着席する。
笑海の本題も終わったとなると、あとは自習……いや、昼寝しかすることがない。さっそく、名目上机に出してあった筆記用具を端に寄せ両腕で枕を作る。
「あ、ところで柳瀬。寝る前にひとついいか? ついでに伝えたいことがあったんだ」
「ん? なんだ?」
「この授業の前だったかな。お前がトイレに行ってる間に、伝言を預かってたんだ。保健の日向先生から」
「え……」
「『至急職員室に来るように。次の授業は出なくていいから』……となっ!」
「お前それ“ついで”じゃねぇよっ!」
最優先連絡事項だよっ!
ツッコミながら涼介は再び起立。
こいつめ……あくまで自分の用事が優先か。こっちにとっては先生の呼び出しの方が怪談よりも重要だってのに。
ところで……陽菜先生の呼び出し……そっちもそっちで良い予感がしない。
「……ともかく、今からでも行くか」
とりあえず、近くで腕立て伏せをしていためいりを呼び寄せ、教室の入口へ向かう。
「あ、帰りにイチゴのオレを買ってきてくれないか? ふふん、どうだ。これこそ“ついで”だろぅ?」
「うるせーよ!」
“ついで”か“ついでじゃない”かに関してツッコんだんじゃねーんだよ!
そうして肩を怒らせながら、涼介は一階の職員室へと歩を向けた――。