第二話
――真殊が涼介の生き様を習得すると決意した、その翌日。
「……よし」
公立星凪高校、一年Aクラスの教室内。
始業時間にはまだ一時間以上もあり、生徒たちの姿はない。
ただ一人……。
本日日直である少女、柴咲都だけがせっせと黒板掃除に励んでいた。
黒板をキレイにし終え、黒板消しのお手入れも終えたところで、都は腰に両手を当ててグッと上体を反らしてノビをする。
「ふぅ。これでやるべきことは終わったかな」
少しずり落ちそうになった丸縁めがねをそっと直し、両耳の後部から生えるトレードマークの三つ編みを踊らせながら、都は自分の席に向かう。
そして席に座るとすぐに、机に置かれた鞄をしばらくゴソゴソと漁り、最終的に一冊の漫画雑誌を取り出した。
日直の作業を一通り終え、始業時間までまったり読書としゃれ込むらしい。
彼女は円らな茶色の瞳を輝かせ、漫画の世界に入り込む。
その漫画は、『一人の平凡な少女がぶっきらぼうなイケメン男子に恋をする』という、オーソドックスな恋愛もの。
今回は「今日は良い天気だね」と挨拶する少女に、男子が「なに言ってんだ……今日は曇りだろ?」と冷たくあしらうシーンが描かれていた。
「ぐぬ、このイケメンめ……。女の子が頑張って明るく振る舞ってるのに、なんて冷たい態度だ。……でも、それがまたゾクッときちゃうんだよね~、うふふ」
都は顔を赤らめにまにま笑みを浮かべる。完全に物語の少女になりきり、仮想の恋を楽しんでいた。
だがそんな時間は、最後のページの“つづく”の字によって終わりを告げる。
とたん、現実に引き戻された都。ほんの少し後ろ髪を引かれるような思いで、そっと本を閉じた。
「はぁ……。つづきはまた来週かぁー」
ぼんやりと呟いて顔を上げると、クラスメイトたちがちらほらと挨拶を交わしながら教室に入ってきていた。どうやら結構な時間が経っていたらしい。
「あ、おはよう。下ノ怪さん」
「おはよう、みっちゃん……。今日もイカした背後霊ね?」
「う、う~ん……。私にはどうしても見えないんだけど……ありがと」
有名霊能者“下ノ怪ヨシコ”の娘である下ノ怪優子との挨拶は、いつも決まってこんな感じ。
最初はその意味不明な挨拶に驚いたけど、今でもその返答には困るけど、いつの間にか日常になっていた。
登校する時間帯もだいたい同じだ。
一番に都、そして数十分あとにヤサコが教室に入る。
そして、その毎日の順番からして次にやってくる友達は……。
「あ、やっぱり来た。朽咲さんだ」
都の予想通り、都の後ろの席に座る女の子……朽咲真殊がこちらに向かってくるところだった。
「おはよう、朽咲さん!」
都の元気な挨拶にピクリと反応する真殊。
いつもなら、少し照れたような笑顔を浮かべて「お、おはようみっちゃん」と返してくれる真殊。
「……おう」
だが、今日はその一言だけだった。
笑顔も照れも、手を振るもなし。
真殊は一言も発さずに、そのまま自分の席で頬杖をついてしまった。
「……あ、あれ……?」
なんとも冷ややかな真殊の反応を受け、都は平静を保ちつつも自分の席で、
(どどど……どうしたんだろうか朽咲さんはっ!!)
心の中でダラダラと冷や汗を流した。
普段から世話焼きで他人の態度に敏感な都。
今も自分が、真殊の気に障るようなことをしてしまったのではないかと、罪悪感と焦燥感に似たものを内心で抱えてしまっていた。
(でも……今だって普通に挨拶しただけだよね……?)
記憶にある限りの真殊との接点を洗い出すも、都には思い当たる節はなかった。
なら、どうして今日の真殊はあんなぶっきらぼうな態度を?
(もも……もしかしたら、私の勘違いなのかも……。……よしっ)
意を決し、都は再び振り返って真殊に笑顔を向けた。
「く、朽咲さん……。きょ、今日は良い天気ですねぇ~……」
「……」
真殊は……間違いなくこっちを見ていた。
だが、反応が全くない。
無表情の視線が痛い。
(これは……やっぱり私、なんかしちゃったんだ……)
半ば混乱した頭を抱え、どうしようかと悩む。
「都」
「……ほぇ?」
すると不意に、そんな言葉が真殊の口から発せられた。
都はさらに混乱する。真殊から下の名前で……しかも呼び捨てで呼ばれるなんて、初めてのことだったのだ。
半思考停止状態の都。
そんな彼女の心理を知ってか知らずか、真殊はさらに追い打ちをかける。
「今日は……曇りだぜ? ふ……まったく、しっかりしろよな」
「……あが……あががが……」
都は顎は外れるかと思うほどにびっくり仰天した。
お花摘みだろうか……。
そのまま教室を出て行く(スカートのポケットに両手を差し込んで)真殊。
そんなうしろ姿を都はあんぐりと眺め続ける。
昨日の真殊はたしかにいつもの真殊だった……はず。
なら一体……昨夜の間になにがあったんだろうか。
どれだけ想像しても、都にはさっぱりわからなかった。
……でも。
「なんか……ドキッとしちゃった……」
今日の真殊のあの態度は、ついさっきまで見ていた少女漫画、そこに出てくるイケメン男子そのものであったのだ。
そうしてしばらく、都は己が胸に根城を築いたドキドキに苛まれるのだった。