プロローグ:いつもどおりの日常。(上)
今回から本編に入ります。しばらくの間よろしくお願いします。
※今話は三人称で、めいりサイドのお話です。
――出笛町。
これといって秀でた名物も売りもない、静かな町である。
そして、この町の中で一番大きい大通りから少し奥まった場所に、さらに人気の少ないこぢんまりとした商店街がある。
中高年向けの洋服が並んだ店や、開いているのかさえ判別できないような古びた建物が数軒、その錆びた身を寄せて並ぶ。
初めてここを訪れた人なら口を揃えて言うだろう……閑古鳥が鳴いている、と。
見た目は昭和以前を全開に醸すこの通りにも、八百屋、魚屋、電器屋、その他もろもろの店が存在し、とりあえず生きていくうえで必要なものは揃うようにはなっている。
その一世代ほど時が遡った風貌の商店街は“溢藻通り”と呼ばれ、長らく地元住民に愛される場所であった。
午後三時を回った頃。
電器屋の店主はたびたび腰を伸ばしつつ、すでに閉店準備にとりかかっている。その後ろを買い物袋を携えた主婦たちが控えめに談笑しながら通り過ぎる。
全体を見回しても二十人いるかいないか……。だが、その時間こそこの商店街が一番混む時間帯であった。
そんな寂れた商店街の一角に、軒並み揃える店たちの中ではわりと立派な店舗がある。
そのすぐ入口。木の板で作られた陳列台の上には、大小さまざまな魚たちが丸い目をぱっちり見開きながら息絶えている。文字通り口を揃えて、事切れている。
その大半が氷水に漬けられ、そうでない者たちは腹をかっ裂かれ食品トレーにパックイン状態。
溢藻通りの魚屋さんの風景である。
その日その魚屋は、商店街の中で一番の賑わいを見せていた。
店内では主婦や小さな子ども、それに高校生くらいの少年少女が死せる魚たちと対峙している。店主と思しき男性が、腰にかけた大きいエプロンで濡れた手を拭いながら、お客であろう少年と会話を弾ませていた。
その表情は上機嫌そのものだ。
「フガわぁぁ~ぁぁ……っと……」
店の外の端っこ。
建物と電柱の間にひっそりと空いたスペース、ちょうど日の光が当たるアスファルトの上には、不揃いな影法師が二つ、のんぼりとその尻尾を揺らしていた。
そのうち一つ、柄のゴツい方が大きくあくびをかます。
「暇だぜ……」
「たしかに暇だなぁ……。でも、そんな厳ついあくびしてたらお客が怖がるからやめな」
柄のゴツい影……その主を冷静に、どこか呑気な口調でたしなめるのは、すぐ隣の細身の影の主。
「しゃーねぇだろうが。この暇な日常が悪いんだよ。もっとスリルある毎日ならあくびも出なくなるだろーよ。フガガぁぁ~……」
「まぁ、暇なのは同感だけどねぇ……ふわわぁ……」
二つの影の主……柄のゴツいドラ猫と細身な若い猫は、同じタイミングで大あくび。
この魚屋に飼われる♂猫二匹組である。
彼らを知る人間からは、一方はドラ、もう一方はししゃもと呼ばれている。
ぐぐっと尻尾を伸ばし、何度か耳を手で撫でた後、再び揃ってアスファルトの上に座り直す。
空気もすっかり冷え込んできた十二月中旬。
二匹とも少しでも暖をとるためか、両前足後ろ足をしっかり体の下に収めて香箱座りの様相だ。
「しかしいよいよ寒くなってきたなぁ……ぶるぶる」
「おうよ……、こんな日にはガッツリ太ったカツオでもかぶりてぇなぁ……」
「おいおいドラ。お前最近になって、やっと店の魚に手を出さなくなったんだから。それに、店主さまもお前のためにキャットフードのグレード上げてくれたんだし、我慢しろよ?」
柄のゴツい方の猫――ドラは、つい最近まで店の魚(※大物限定)を日常的に盗む荒くれ者であった。この店の店主も色々と手を尽くしてみたが、ドラはその網をことごとくかいくぐってきた。……つい最近までは。
「わかってるよ。たしかに今のメシはうめぇ。まぁ、マズくても盗みはもうしねぇけどよ……」
今となっては、ドラは店の商品には一切手を触れていない。
店主としては今回の“エサグレードアップ作戦”が功を奏したと思っているのだが、どうやら本当の理由はそこではないらしい。
「オレはこう見えて若いんだ。まだまだ死にたくねぇよ……」
そう呟きながらチラリと目をスライドさせるドラ。
二匹が座っているスペースのすぐ隣。そこには、人一人分ほどの日当たりスペースがあった。
まるで故意に空けられたようなその場所には、しかし実際は空けられてなどいないのである。
アスファルトにその影は映らねど。
店前を通りすがる人たちの目には留まらねど。
――そこにはたしかに、一人の少女がいるのだ。
ちょこんと体育座りの小さく華奢な体。季節外れの白いワンピースのスカートが、時おり吹く風に揺れる。
透明な糸を思わせる白い髪は、細い肩を伝って腰の近くまで流れ、日の光を浴びてサラサラときらめいていた。
「もし次に盗みがあらば、店前にドラ猫の姿焼きが転がることになるわよ? ……ぶい」
起伏のない声。感情を窺えない幼顔にさらに感情のないジト目を浮かべ、意気揚々とブイサイン。
よく見れば、そのマリンブルーの瞳には若干の色があった。彼女は楽しんでいる……その証明の色だ。
猫二匹の隣に一人の少女……。
かつては猫であった幽霊少女めいりが、たしかにいるのだ。
日の当たる店前のスペースに、ししゃもとドラ……そしてめいりが並んで座っている。
今は猫二匹と元猫一人で井戸端会議中であった。
「も……もう絶対しねぇから! 縁起でもねぇこと言うなっ」
以前、めいりの得意技“レーザービーム”を目の当たりにしたドラは、以来、すっかり彼女に怯えてしまっていた。
「それにしても……猫が死んで人間になるとはなぁ。不思議なことがあるもんだぜ」
「ぼくも初めて見た時はちょっと現実を疑ったよ。でもよく見るとわかったよ。眼の色なんて、猫の時のまんまだしね」
「ふふふ……思いの力がわたしを人間にしたのよ」
二人の感心した様子に、得意気に胸を張るめいり。すぐに調子に乗るところが彼女の悪い癖だった。
「お姉さんとおそろいになりたかったんだっけ?」
「そうよ。まぁ、車に轢かれたのは事故なんだけど……」
「不幸中の幸いってやつだねぇ」
「そうね。九死に一生ってやつだわ」
「それは……ちょっと違うねぇ……」
「ん? ……じゃあ、急死に一生ってやつだわっ」
「まぁ何でもいいけどよ……。オレも何度か、道で絨毯みたくペッチャンコになったヤツらを見てきたが、あれはマジ痛そうだ……」
「わたしとしては一瞬だったし、よくわからなかったけれどね」
誰が誰と目を合わすでもなく、ぼんやりと会話が続いていく。
自分たち以外には誰も聞くことのない、猫間にだけ繋がれるやりとり。
「でもよ。人間になって、どうなんだ? 猫より便利になったのか?」
「そうねぇ……。手が器用に使えるし、結構便利よ。それに色んな食べ物が食べられるようになった。牛乳とか、ラーメンとか……ブリ大根とか」
「お、そりゃいいなぁ! オレも死んだら人間になりてぇな……」
「ふふふ。う……でも、いいことばかりじゃないわ。高い塀に登ったりできないし。それに人に憑いた幽霊だから、あんまりその人から離れられないしね」
「行動範囲が限られるのか……。それは嫌だぜ……」
「一長一短なんだねぇ……」
「うん。でも、少なくとも猫でいた時よりも色んなことが起きるわ」
「君は今や人だし……それに幽霊だしね」
「んで、色んなことってどんなことなんだ?」
「そうねぇ……。たとえば……」
めいりは過ぎた日を思い返しながら空を見上げる。
ブロロロ……と、魚屋の前をオンボロな原付バイクが駆け抜けていく。
年季の入った音と排気のニオイが消えた頃、ようやくめいりは少しずつ、これまでにあった出来事を語り出した――