第二話
「……」
男子トイレ、一番奥の個室にあったもの。
それは、一変の曇りもない満月だった。
みずみずしくきめ細やかな白。その無垢のキャンバスに描かれたささやかな肉感が、どこからか流れる息づかいが、月に脈動を与えている。
草履のようなものを履いた、同じく白い二本の柱に支えられた満月……。
順に視線を上げると、淡い若草色に桃色の花柄を散りばめた着物が見えた。
次いで、その着物の肩あたりにかかる艶やかな黒。
その黒から覗く、丸くて幼い女の子の輪郭……
「って、女の子っ!?」
……よく見れば、それは満月などではなく、女の子だった。
上品に揃えられた黒い髪の、学校という場所に似つかわしくない着物を召した、十歳になるかどうかという年ほどの女の子。
今はそのぷくぷくした顔を林檎のように赤く染め、わなわなと震え、
「おま……おおおおおおまえ…………いつまで見とるんじゃ――――――!!」
「し、失礼しましたああ……っ!」
叫んだ。
それは林檎の赤ではなく、憤怒と羞恥の赤だったらしい。
すっかり思考停止していた涼介も、その声に目を覚まし急いでドアを閉めた。
(てか、なんで女の子がっ!? ここ、男子トイレだよな……?)
辺りを見ると、アイボリー色の小用便器がせせこましく並んでいる。男子トイレで間違いないようだ。
それに、幼い容姿に着物姿……あの少女はここの学生ではないようだった。
暴れる心臓を落ち着かせ、頭の中を整理しようとすればするほど、今の出来事が不可解なことだと認識され、さらなる混乱に陥ってしまう。
……学校のトイレになぜかいる、着物を着た小さな少女。
「ま、まさか今のって……」
『お、おお……おまえ! まだそこにおるのかっ!?』
つい呟きの声を零し、その声に反応したのか、扉の向こうからも慌てた声が漏れ聞こえてくる。
エラそうな、でも幼さが高圧さを抑えきっている声音。さきほどの満月の持ち主だ。
「あの……君って、この学校の生徒じゃないよな……?」
ついさっきまでトイレの花子さんについて思い巡らせていたせいか、涼介は事の真相が気になっていた。
そして事はついでと、少女に尋ねてみた。
『そうじゃよぅ! あたちはこのトイレの主、耶麻田花菜子じゃよぅ! というかおまえ! どうやってこの結界内にどうやってここに入ってきたんじゃ! 今は誰一人寄せつけないはずなのにぃ!』
すると返ってきたのは、予想……とはちょっとだけズレたような、でも概ね予想通りの応えだった。
――耶麻田花菜子。
……つまりは、この学校の(男子)トイレの花菜子さん……。
「まさか、本当にいたんだ……。こんなタイミングで見かけるとは……」
『てかいつまでそこにおるんじゃぃ! れぢーがトイレにいるのに、話しかけてくるやつがおるかぁ! さっさっと出てけぇぇぇええ!!』
「わっ! す、すみませんでしたっ!」
花菜子さんの怒号に、涼介は謝罪とともに入口へ駆けた。
彼女が人外とはいえ、さすがに女の子に対する配慮が欠けていた。
入口まで戻ると、なぜか洗面台の水を出しっぱなしにして遊んでいためいりが、不思議そうに見上げてくる。
「涼介? 騒がしかったけど、なにかあったの?」
「あ……ああ、それがな……」
蛇口を閉めながら息を整える。
「もしかして……間に合わなかったの……!?」
「もしそうならもっと大惨事だけど、違う!」
鼻をつまみ後ずさるめいりに弁明しつつ、今一度最奥の個室の方を見やった。
『……よりにもよってあたちのお花摘み時に……くぅぅ……恥ずかしい……ぶつぶつ』
かすかにそんな声が聞こえたような、聞こえなかったような……。
でも、これ以上彼女に恥をかかせるのも忍びないと思い、
「いや、腹の具合が治まったんだ。ごめんな」
そう誤魔化して、そのまま男子トイレを後にした。
* * *
――トイレから教室に戻ってきた涼介は、自分の席に腰を下ろしてふぅと小さく息を吐く。
ようやく脳に酸素が行き渡ったところで、さっきの“現実”を認知しだす。
さっきの満月……じゃなかった……少女は、この学校のトイレの主とか言っていた。たしかに、やけにしゃべり方が堂には入っていた。
そして、彼女が名乗ったその名前……。
(というか、結局トイレできなかったな……)
だが、さっきまであった鈍く腹を絞る違和感がなくなっていた。
咄嗟にめいりに言った誤魔化しが、思わず誠となっていた。
「お、柳瀬。戻ってきていたのか」
どうやら教室を出ていたらしい笑海が、自分の席に座りつつ挨拶程度に声をかけてくる。
「次はたしか英語だったかな……」
ごぞごぞと次の授業の準備を進める笑海。
そのうしろ姿を見て、涼介はなんとなくさっきの夢、トイレでの出来事を思い返した。
――この高校の女子トイレには、花子さんがいると思うか?
「なぁ、然木」
「……ん? どうしたんだ?」
「お前、ここに入学してすぐ僕にした質問……覚えてるか?」
「んん……、なんだったかな」
手を止めて、考える様子で天井を見上げる笑海。
その双眸は面白いように泳いでいた。それで涼介は確信する。
なぜ誤魔化したのかは分からないが、こいつはしっかり覚えていると。
「いる……と思う」
「え……?」
「ただし、男子トイレに…………なんてな。ははは、忘れてくれ」
「そ、そうか。ついに柳瀬もその手の冗談を言えるようになったかぁ」
「まぁ、たまには僕がボケ役でもいいだろ」
軽く笑い合ううち、チャイムの音とともに英語教師が入ってきた。
涼介も笑海も、他のクラスメイトもそれぞれが自分の席で黒板に向き直る。
……なので、涼介に気づくことはなかった。
前の席の少年のような少女が、まるでお菓子を与えられた幼子のように、嬉しそうな笑みを浮かべていたことを。
そんな風にして、一年半越しの質問はその答えを導かれたのだった――。
おわり。




