立体眼鏡
「これはですね、世の中すべてのものが立体に見える眼鏡なのです」
店主はそう言った。
もちろん、私はその場で試した。
「……普段と特に変わったように見えませんが」
私は、眼鏡から覗いた景色が変わらないことに一度は落胆した。
「それはそうです、なぜなら、お客様が見ていらっしゃるものはもともとすべて立体でございますから」
「なるほど」
と納得して、十二万五千円のその眼鏡を購入して帰った。
何しろ、今までは妄想でしかなかった。
萌香ちゃんやラピスラズリちゃんが、飛び出してくるのだというのだから。
それが現実になろうというのだから、自宅に着くまでの道筋さえ気が急く。心臓が高鳴る。
飛び出してきたものにどこまで『いたせる』のかは分からない。
あくまで眼鏡なのだから、その効果は視覚的なものに限定されているだろうが。
でも、それが目の前に凛と立つ様子を思い浮かべると。
思わずにやけ顔になる。
帰り道、親子連れに指差された記憶もあるが、いまさらその程度で動じる私ではない。
今や車だって萌香ちゃんペイントの痛車だ。
ラピスラズリちゃんと迷ったけれど、やっぱり正統派の微ロリ妹系の萌香ちゃんだ。ツンデレお姫様キャラなんて逆に狙いすぎてて、仲間にも「あえてサブヒロイン狙い? あざといね」なんて笑われるのが目に見えている。
そんな車に乗っていて、指差されることなんて慣れている。
むしろ、それは私にとっては誇らしいとしか思えない。
だから、眼鏡を胸に押し抱いて早足で歩く私の姿が指差されるということは、それだけ、私の萌香ちゃんへの愛があふれていたということなのだ。ふふん。
部屋に入って鍵を閉める。
さあ、どの二次絵からにしようか。
いきなり二次創作のR18に行くか?
なんてのは、この道の素人のやること。
本来の愛は、オリジナル。公式画にこそ注がれなければならない。
そこまで思い至って、アニメ製作発表時の公式ポスターのことを思い出す。
そう、あれこそ原点だ。
初めて彼女を僕の前に立たせるにふさわしい。
表に「観賞用」と銘打たれた、A1用紙が丸ごと入る特注の引き出しを引き、和紙で厳重に保護された、そのポスターを取り出す。
これこそ、オリジナルの萌香ちゃん。
さあ、いざ。
立体眼鏡の封を解き。
目を閉じてゆっくりと顔の上に。
ちょっとだけ低い鼻に乗せ、つるを耳にかける。
いざ。
目を開ける。
そこには、相変わらず、平面に描かれた萌香ちゃんの立ち絵があった。
???
り、立体は???
そこからの私の行動は速かった。
サンプル用に劇場版パンフレット(布教用)を引っつかむと、眼鏡を売った店主の元に殴りこんだ。
「立体、に、見えない、じゃ、ないですか!」
息切れしながらクレームを入れる。
「何かが平面に見えてしまいましたか?」
「そうだ! そう、このパンフレットの表紙! この絵が!」
「どれどれ」
店主は眼鏡をかける。
「……立体に見えますね」
「馬鹿な!」
私が眼鏡を通してみると、やっぱりそれは二次絵のまま。
「やっぱり二次元だ!」
「……お客様」
店主は、眉をハの字に曲げて。
「二次元とは、縦横方向の次元しか持たないものを指します。いいですか、縦と横、です」
「分かってる!」
「もし仮に、二次元の世界があるとしたら、ある方向を見たとき、見えるのは一本の線だけです。なぜって、縦と横しかないんですから。視界は――便宜的に横方向と呼びますが――横方向、360度しかないんです。上下方向というものは存在しないんです。だから、くるりと見回しても、地平線のように一本の線があるばかりです。二次元世界のパース投影映像が網膜に像を結ぶとすれば、必ずそうなるのです。もし着色してあるなら、色とりどりの線を眺めることになるでしょうが。少なくとも、上から俯瞰的に眺めることは不可能なのです」
「……?」
「しかして、お客様は、このパンフレットの絵を、上から眺めている、ということは、この絵は、三次元空間に描かれたものであることは疑いようがありません」
「で、でも、アニメは二次……」
「それはお客様がそう呼んでいるだけで、数学的に厳密な二次元空間においては、鑑賞可能な平面的な絵というものは存在を許されないのです。三次元、深さ方向があるからこそそれは絵画として成立するのでありまして、つまり、お客様はその眼鏡で厳密に三次元空間のパース投影映像を網膜上の像としてご覧になっているのです。立体に見えるからこそ、お客様はその絵の美しさを愛でることが可能なのです」
「だが、私はこの絵が飛び出すと……」
「私は、この眼鏡を『世の中が立体に見える眼鏡』と申し上げました。目の前の私めも、周りの商品棚も、そしてこのパンフレットも、お客様には、奥行きのある空間に在るように見えますでしょう。効能書きどおりの効果であろうかと存じます」
「さ、詐欺だ!」
私の罵倒に店主は笑顔を崩さず、何かをカウンターの裏から取り出した。
「まあまあ、勘違いなさるような物言いをしてしまった私にも責任がございましょう、いかがでしょう、本来は四十七万円というお値付けのこちらの品でございますが、そちらの眼鏡と無償で交換というところで手を打ちませんか」
「そ、それはどんな品物なんだ」
「二次元に入ることのできる小窓でございます」