三百年後
男Aは、骨董品店で、主人におかしなものを勧められた。
それは、見たところは単なる化粧鏡のように見える。
縦横二十五センチメートルほどのほぼ正方形で、後ろに足がついていて自立できる、古ぼけた鏡。
Aの注文は単純で、「何か面白い逸話のあるものは無いか」というものだった。
それに応えて骨董品店の主人が出してきたのが、この鏡なのだった。
厳重に梱包されたその鏡を、Aは大切に彼の小さなアパートに持ち帰る。
決心がつくまで自分の姿を映してはならない。
骨董品店の主人は、そう言ってその鏡をAに売り渡した。その価格はAの月収の四十パーセントにも及ぶ高額となったが、それでも、Aはその逸話の面白さに、払う気になった。
その前の持ち主は、やはりAと同じくらい、すなわち二十台の半ば頃に、この鏡を買い求めた。やがてその持ち主は結婚だの転職だのであちこちに転居することになったが、この鏡だけは決して手放さなかった。ばかりか、妻子にさえ、その鏡を決して見せようとしなかった。
やがて年老いたその持ち主は、妻に先立たれ、子供も独立して一人ぼっちになった。あまりに音信が無いため心配した子供たちが何度も訪ねたが、老人はいつも元気で、精力的で、部屋も常に綺麗に片付けられ、誰が訪問するでもないのに自室に花を絶やすこともない、若者のような老人であり続けた。
話し相手の一人もいないのに、認知に問題を抱えることもなく、何もかもを自分で世話してしまえることに、子供たちは喜んでいた。
だが、老人は、ある日、死んでしまった。前の晩の食事はいつもと全く同じものを摂った形跡があった。なのに、別人のように生気を失った顔で、鏡を抱きしめて死んでいた。
これが前の持ち主のすべてだった。
死を迎える直前に殴り書きしたと思われる遺書に、件の注意書きがあったのだ。
覚悟無き者は自らの姿をこの鏡に映すべからず。
この鏡は老人の死にかかわっているに違いない、とAは考え、ならば、自らその死の謎を追っても良かろう、と思い、大枚をはたいたのだった。
自宅に着いたAは、しばらく逡巡したのち、梱包を解いた。三重の耐衝撃梱包材の内側にさらに和紙の包装紙があり、それを開くと、木の板が目に飛び込んだ。図らずも、鏡面を下に向けた状態で梱包を解いたようだった。
そろりと裏返す。そこに、自分の部屋を背景として自分の顔が映っている。
はずだった。
映っていたのは、見知らぬ誰かの部屋の、見知らぬ顔だった。
全く別人がそこに映っているのに、Aは、自分がどんな表情をしているのかが分かった。なぜなら、鏡に映った人物が、自分と全く同じ驚愕の表情を浮かべていたからだ。
テレビ。
安っぽい回答が浮かんだが、これほどに薄く、内側に奥行を感じさせるテレビなど見たことが無い。技術の進歩? しかしこれはどう見ても骨董に分類される品物だ。ただそのように見せかけているだけのいたずら商品だという可能性を排除する材料は何一つ無いが、だからと言って、この鏡が『何らかの不思議な品物』だということを否定する事実も無いのだった。
鏡の中の人物が、なにか、ぱくぱくと口を動かしている。どうやらしゃべっているのだろう。音が出てこないところを見ると、少なくともテレビではない。驚きで観察を忘れていたが、映っていたのは、同じくらいの歳の女性。どこにでもいそうな顔。こんな俳優がいたようないないような。
Aも、君は一体誰だ、としゃべりかけてみたが、それは相手に届いていないようだった。
そして、Aの動きを見て、彼女も、その鏡が音を伝えないことを悟ったかのような顔に変わり、鏡を置いて(少なくともそのように背景が固定された)、鏡の視界から消える。間もなく、白いボードのようなものとペンのようなものを持って鏡の中に戻ってくる。
『わたしの なまえは、――――。あなたは?』
すべてひらがなで書かれたその文字を認めたAは、手近にあった電話メモ用紙を取り上げ、さらさらと自分の名前を書いた。
彼女はそれを覗き込むようなしぐさをしたのち、白いボードに字を書いた(気が付くとさっきの文字は消えていた)。
『よめない。ふるい もじ』
教育レベルの低い女だろうか、と思い、Aはひらがなで名前を書きなおした。
『よめた。ありがとう』
真っ白のボードに、少し下手な字で彼女が書くのを見て、Aもうなずいた。
徐々に状況が呑み込めてきた。要するにこれは、音の出ないテレビ電話のようなもの。骨董の形こそしているものの、どうやら最先端技術の結晶だろう。ここまで高解像度で映像をやり取りできるシステムなど、聞いたことも無い。
前の持ち主の逸話なども、完全に嘘っぱちなのだろう。そんな逸話にだまされた日本中の馬鹿者の間で、無害なコミュニケーションを楽しむための、新機軸のサービスと言ったところか。
商流に骨董品店を使うとは、なかなか洒落が効いている。
せっかく大枚をはたいたのだから、しばらくこれで遊んでみるのも良かろう。
そう思い、Aは鏡を机に置き、家で仕事をするときはここにいる、と相手に伝えて鏡の前を去った。
***
数日間は、時々鏡の前に座ってみて、相手がいれば簡単な筆談を楽しみ、いなければいないで、彼女のいない部屋の風景をぼうっと眺めた。
面白いことに、この鏡は、電池が切れるということが無いようだった。もしかすると鏡面そのものが光発電の機能を持っているのかもしれない。
また、さらに面白いことに、相手の女は、この鏡を無造作に部屋の中に置いていることだった。特にプライバシーについて考えている風もない。と言って、彼女が着替えをしていたりといったプライベートな状況を目撃することも無かったところを見ると、そこは本当にただ寝るだけの部屋なのかもしれない。部屋全体がのっぺりとしていて飾りっ気が無く、家具やテレビなども置いていないところを見ると、そうなのだろう。案外、立派な家に住むお嬢様なのかもしれない。
会話の内容は、それこそ他愛のないものだった。今日は仕事だったとか、天気がどうだったとか、そんな話題ばかり。
しかし、さらに数日が過ぎると、Aは彼女が鏡の前に座ることを心待ちにするようになっていた。
仕事から帰るとすぐに鏡の前に座り、本を開いて彼女が鏡の前に現れるのを待つようになった。
彼女が現れるや、本を閉じてコミュニケーション用のメモ帳を開く。
あっという間に一冊を使い切り、三冊セットを買い足した。
相手の方は、いつの間にか文字が消えている不思議なメッセージボードを使い続けていた。
会話の内容は、徐々に深いものになった。
ある日、彼女が、好きな人に振られた、と語りかけてきた。
好きな人がいたことになぜかショックを受けながらも、Aは、君みたいないい子ならすぐにいい人が見つかるさ、と慰めた。
その話題はそれっきりだった。
だが、Aは、徐々に彼女に会いたいと思うようになっていた。
控えめで地味な見た目だが、会話の内容にはしっかりとした知性を感じさせられた。
相変わらずひらがなしか使わないが、時々、英単語を交えるのを見て、おそらく帰国子女、しかも最近に帰国したばかりで、実は英語の方がしゃべれるのだろう、と推測した。と言って、Aは英語には全く疎く、英語で会話する自信もないし、彼女が時々交える英単語についても毎回辞書を引いて意味を調べた。その様を、彼女は不思議そうな、楽しそうな表情で見つめていた。それもまた、魅力的に思え始めた。
そして、Aは決心した。
会いたい、と伝えた。
どこに住んでいるのか。
どこだっていい、すぐに会いに行く、と。
彼女はにっこりと笑って、自分も興味がある、と返事をした。
そしてひらがなで彼女が書いた住所は、驚くべきことに、同じ市内だった。もちろん、英語圏にいたころの癖だろう、住所を番地からひっくりかえしに彼女は書いた。
その近辺に何度か立ち寄った喫茶店があることを思い出したAは、そこで待ち合わせることを提案した。
彼女はその店を知らなかった。
地図を描いて見せた。
彼女はそれを見て、ボードに何やら操作をすると、きれいなコピーがボード上に現れた。今はそんな便利なものがあるのか。そう思いながら、次の土曜日に待っている、と伝えて、その日の会話は終わりになった。
***
Aは、彼女に会えなかった。
振られたのだろうか。
でも、彼女にも都合がある、何か用事が出来たのかもしれない。
携帯電話の番号くらいは聞いておくべきだった。
そう思いながら自宅に着く。
鏡の前に座ると、彼女も間もなく現れた。
彼女は、どうして嘘をついたの、と書いた。Aは意味が分からず、今日は会いに行って、君が来なかった、と返した。それに対して彼女は、地図の場所に喫茶店なんてなかった、と応えた。
地図が間違っていたのだろうか。思っていると、彼女は白いボードにコピーした地図を表示して見せた。確かに地図は間違っていない。間違いなく、その場所に行って、待っていた。
どこに行ってしまったのか確かめようと、その場所に何があったのかと問うと、なんとかいうショッピングセンターが拡がっている、という。そんな馬鹿な、と返す。少なくとも、あの近辺は閑静な住宅街でショッピングセンターは車で三十分は走らなければ無いような場所だ。間違えるにしてもほどがある。
すぐに彼女は、白いボードに、別の地図を表示して見せた。確かに、ショッピングセンターらしき建物が描かれている。ほっぺを膨らませた彼女はその地図を何かの操作でズームアウトさせた。すると、確かに、見覚えのある地形が見えてくる。間違いなく、あの場所だ。
地図が間違っている、いや、彼女のお芝居か。それにしては手が込んでいる。
喫茶店の名前を検索してみて欲しいと伝えると、少し首を傾げた後、彼女はボードを何やら操作して、喫茶店の名前を表示させていた。そして、付随する情報も。あれは、インターネットにもつながっている端末なのか。
そんな驚きは一瞬で、表示された情報はさらに驚くべきものだった。
喫茶X。1986年開店、XXXX年、店主の死亡により閉店。
こんな古い情報で私をかついで、何のつもり? と彼女は憤慨したが、それさえも受け入れられない衝撃だった。
閉店の年がなぜかモザイクがかかったように見えないが、まだ店主も元気で、店も健在のはずなのに、『すでに閉店している』とは、一体何事だ?
おかしな妄想が広がり、それが事実かもしれないという感覚が増してくる。
この鏡は、未来とつながっているのか。
その妄想は、すぐに確信に変わった。
彼女に直接、今の西暦を聞いた。答えは、2314年。
きっちり三百年後だ。
彼女があれこれと仕掛けをしてAをだまそうとしているのなら結構なことだが、その可能性を除くなら、この鏡は、三百年後につながっているのだ。
訝る彼女に、自分は2014年にいると、伝えると、途端に、彼女の顔が、Aと同じ表情に変わった。初めて鏡を覗き込んだ時のように。
***
数々の情報を整理して、彼女が三百年後にいること、この鏡は三百年後とつながっていることを確信した。
この鏡は、この鏡自身を三百年後に手にするものとの間をつなげる、そんなものなのだ。彼女に合わせ鏡をしてもらい、そこに確かに全く同じ鏡が映っているのを確かめた。
間違ってもいたずらアイテムではない。
正真正銘、本当の不思議アイテムだ。
三百年後には、漢字がなくなっているらしかった。ひらがなで伝わりにくい言葉は英単語で代用するのが当たり前なのだそうだ。欧米の文化に合わせて住所を逆表記するようになっていたらしかった。これまでの彼女の不思議な行動はすべて理由が分かった。
いくつかの実験で、伝えられない情報があることが分かった。
細かい数字や重大な事件などの情報は伝えられない。モザイクがかかったかのように見えなくなってしまう。認識外になってしまうように。
歴史に影響を与えたり、未来を知ることで持ち主が利益を得るようなことが無いような仕掛けがしてあるのだろう。
これが『単なる不思議アイテム』だと分かってからは、それは当然だろうな、と納得するAがいた。
そして最終的に動かしようのない事実があった。
Aは決して、彼女に会うことはできない。
彼女はまだ生まれていないし、彼女の時代にはAはとっくに死んでいる。
絶対に交わらない二人なのだ。
三百年後には、インターネットのようなものがさらに進化していて、あらゆる情報が整理され、権限の許される限り体系的な情報へのアクセスが保障されていた。
そんな権限で彼女はAのことを調べた。彼女はAのことを知るに至ったが、彼女がAのことを伝えようとすると、それはモザイクに阻まれた。Aは知ってはならないことなのだろう。当然だ、自分の将来の死のことさえ知ることになるのかもしれないのだから。
会いたいという気持ちは失せはしなかったが、知的な彼女と、鏡の上だけでの交流は続けようとAは思った。
彼女も、こうして交流し続けることに異論はなかった。
恋人同士にはなれなくても、二人の間には強いきずなが生まれているように思えた。
だから、会えないと知ってからは、前よりも鏡の前に座る時間が増えた。
一ビットでもたくさん、相手のことを知りたい、相手に伝えたい、と時間を惜しんだ。
それでも、現実は残酷だった。
Aは取引先のある女性に見初められ、酒の勢いやその他もろもろの力で、その女性と付き合うことになった。
間もなく、鏡の中の彼女も、自分を認めてくれる男性と出会えた、と嬉しそうに伝えてきた。
二人は、一年の間を空けずに、それぞれ、結婚した。
間もなく、Aには子供も生まれ、幸せな家庭が始まった。
それでも、鏡を手放さなかった。
二人はお互い、今の幸せがあるのは、この鏡の向こうのあの人のおかげだという倒錯した感覚を共有していたから。
そして、単に、二人の秘密の時間は楽しかったから。
やがて、孫が生まれる歳になった。
しわくちゃのおばあちゃんになった彼女を見て、Aは笑ったが、彼の顔もしわくちゃだった。
そして、Aの妻が死んだ。
ちょっとした病気だった。運が悪かったとしか思えなかった。独立していた子どもたちが葬儀のために戻ってきて、父が思いのほか落ち込んでいないことに安心して、また去って行った。
鏡の中の彼女は、Aを慰めたりしなかった。自分がいることがAの支えになっていると感じるからこそ、慰めの言葉はむしろAを突き放すように思えたからだ。ただいつものように、笑って語らった。
やがて、子供に恵まれなかった鏡の彼女の夫が他界した。
そうして、また、二人は二人ぼっちになった。
それでも、二人は幸せだった。
***
ある日の朝、目が覚めると、Aは日課のように、朝食の準備をするオートクッカーのスイッチを入れて、鏡の前に座った。
鏡の中の彼女は、まだベッドに伏していた。
いつもは起きてくる時間に、彼女は起きてこない。
音と光で刺激を与える目覚まし時計が動いているのが見える。
どうしたのだろう。
どうしたのだ?
まさか。
そんな。
そんなことがあるわけがない。
朝食が出来上がったアラームを無視して、Aは鏡を覗き込み続けた。
長年の習慣から、鏡に声をかけるという馬鹿げた行動は全く出てこなかったが、心の中では必死で叫んでいた。
やがて、部屋に別の影が動き始めた。
水色の制服に身を包んだ何名かの男たち。
現代と格好や作法が違うけれども、それは間違いなく、救急隊員だ。
少し彼女のベッドを調べて、何度か首を横に振っている。
それでも、担架に彼女を乗せて、運び去って行った。
連れて行くな! と何度も心の中で叫んだが、届かなかった。
いつまでも、彼女は帰ってこなかった。
Aは、鏡を両手で握りしめ、いつまでも彼女の帰りを待った。
こんなつらい別れがあるなんて。
最後に触れることさえかなわぬ別れがあるなんて。
この鏡は。
人間を不幸にする鏡だ。
意識がもうろうとしてきたAは、手元のノートを引きちぎり、一言、書いた。
『不幸になりたいものはこの鏡に己が姿を映せ』
そして――Aも、静かに、息を引き取っていた。