全身麻酔
「全身麻酔をすると、人はどうなるのだと思う」
「唐突ですね」
「ふむ、突然気になってね」
「先生がですか。でも、全身麻酔って、麻酔ガスを吸って眠るわけですよね」
「そう、その通り。けれどそれは本当にただの眠りだろうか?」
「……含蓄のありそうな設問に聞こえますが」
「通常の眠りは、今では、言ってみれば脳のワーキングメモリのリセットの役割を持っていると考えられている」
「どういうことですか?」
「短期記憶よりももっと短い、刹那々々の思考や認識、そのためごとにも、シナプスは変化し続けている。変容し続けている」
「はあ」
「その変化はきわめて些細なもので、シナプスに小さな枝やこぶが生じるようなものだとも分かりつつある」
「へえ」
「脳全体のシナプスが、その『意識の活動』に伴う小さな変化を継続するための受容器となっているのだ」
「なるほど、その小さな変化そのものが、いわゆる『意識』であると、先生はお考えなのですね」
「そこにはまだ議論の余地があろうが、私はそのように考えている」
「それと眠りがどのような関係で?」
「もう一つ分かったことが、眠っている最中、きわめて強力で定期的な脳波が脳全体を駆け巡ることだ」
「強力な」
「そう、きわめて。どうやらこの脳波は、シナプスの小さな変化を修復せよ、という命令信号らしい。これを擬似的にマウスに与えると、覚醒中に起きた小さな変化が元に戻ったのだよ」
「言いたいことが分かってきました。つまり、眠りというのは、その小さな変化を元通りにするために必要な行動ということですね」
「その通り。それを私は、ワーキングメモリーのリセットと表現した。短期記憶とも違う、意識を継続させるためのシナプスの変化連鎖、それを、一旦リセットする。それによって、翌朝目覚めたあと、また元気に意識を継続できるのだ」
「ははあ」
「さて、全身麻酔だ」
「あ、はい、その話でした」
「全身麻酔は、意識を消失させる」
「そうですね」
「それは、ワーキングメモリのリセットのための眠りとも違う」
「あ、はい」
「つまり、意識を連続させているシナプスの変容を強制的に止めているのだ」
「そう……なのかもしれないですね」
「人間の意識とは何だろう」
「先ほどの説によれば、シナプスの変化が連鎖していくことなのですよね」
「ふむ、意識を失うとはそれが止まることだが、通常それが起こるのは、眠るときだ。その時、後の覚醒に備えたリカバリーが行われている。では、後の覚醒に備えたものではない突然の意識の消失とは、どんな場合に起こるだろうか?」
「……全身麻酔、ですか?」
「……それと、死、だよ」
「え?」
「つまり、私は時々考えるのだよ。全身麻酔とは、全身麻酔を施される直前の人間にとっては死そのものであり、全身麻酔から覚めた人間はすでに意識の連続という観点では別人なのではないだろうか、と」
「いやでも、全身麻酔手術を受けた人が、ちゃんと目覚めて前と同じように生活しているじゃないですか」
「もちろんそうだ。長期記憶に蓄えられた記憶や行動原理はその人の行動を決める。外見上は、その人が、全身麻酔前の人と同一人物であるとしか思えないだろう。だが、それは、たとえば、全く同じ記憶を植えつけられたクローンだとしても同じだろう?」
「……確かにおっしゃる通りです」
「つまり、全身麻酔をした瞬間、その人は死ぬのかもしれない、と私は、時々思うのだよ」
「……こ、怖いですよ」
「そうかね、楽しい思考実験だとは思うが」
「少なくとも私は楽しくありません」
「そうか、興味のない話題だったね。……さて、準備が整ったようだ。さあこのマスクをして。すぐに眠くなって、目覚めたら手術は終わってる。痛くもなんともないから、リラックスしてゆっくり呼吸をして」