星間帰郷
■星間帰郷
惑星、地球。
青い星。
幾多の試練を乗り越えて、二人は帰ってきた。
ドミトリ・ルビンスキーと、リンファ・チェン。
二人は、宇宙飛行士だった。
***
宇宙はあまりに広い。ほんのお隣の星でさえ、光速で数年だ。
超光速で宇宙を旅する理論は山のように準備されたが、それらは全て机上の空論に過ぎなかった。太陽よりはるかに重いブラックホールを人智で動かすなどという馬鹿げた理論を論じる暇があれば、亜光速であってもともかく旅立つ方法を見つけたほうが速い、と国連系外惑星探査委員会は結論した。
世界中の国が経済規模に応じた拠出を求められ、莫大な資金でプロジェクトは立ち上がった。
軌道上に建造される宇宙船は、言ってみればその重量のほとんど全てが推進剤を兼ねた燃料だった。
極めて高効率で燃焼する核融合炉、そして、極めて高効率でそれを運動エネルギーに変換し燃料廃棄物に与える推進装置。
質量の持つエネルギーの三十パーセントを運動エネルギーに変換できるその推進器の発明は、世界中のあらゆる科学・工学の賞を総なめにした。
そのエンジンを積み、質量のほとんど全て燃料としたにも関わらず、外惑星に運べるのはわずか二人の人間だった。万一のときに十分な期間生存するだけの生命維持物資を積み込むと考えると、二人が精一杯だったのだ。
選ばれたのが、ドミトリとリンファ。男女であったのは偶然に過ぎない。平均的な顔つきのドミトリはともかく、東洋的な切れ長な目と半端に混じった中東系の濃い眉の相性が最悪のリンファに関しては、間違いが起こることもまずあるまい、と嘲笑に似た陰口が叩かれたものだ。
そして宇宙船は旅立った。目的地は、十光年先、いくつかの系外惑星が確認されており、『ハビタブルゾーン』に惑星があると思しき星。
宇宙船は全力で加速し、全力で減速する。
最終的には光速の99パーセント以上に達するが、それでも、片道に25年かかるとされていた。
二人は、身寄りのない孤児だったから、彼らの旅立ちを今生の別れとして悲しむものは少なかった。二人が選ばれた最大の理由はまさにそれだった。
一方、彼らの体内時間では、それは二年に足らぬ道のりだ。行きに二年。調査に一年。帰りに二年。合計五年で地球に帰れる。
おおよそ五十年後の地球に降り立つことになるのだが、二人はそれを楽しみにさえしていた。
だが、問題が起こった。
反転減速するための制御装置が故障したのだ。それは、まさにその装置を作動させたその瞬間だった。
様々な事態を想定したマニュアルこそあったが、たった二人で原因を特定し、船外活動をし、修理を終えるのには膨大な時間が必要だった。そう、数ヶ月という時間が必要だったのだ。
ようやく反転減速装置が作動し、宇宙船の対地球相対速度がゼロになるのに一年。
そして彼らは、光速の99パーセント以上で突っ走った数ヶ月という時の重さを知る。
恒星の三次元測量の結果、その位置は、地球から2650光年の位置だった。
当然、予定された調査をする惑星などありようもない。
ただ何も無い宇宙の虚空に彼らはあった。
二年半をかけてここまで来た二人は、即座に引き返すことを決意した。
修理のために無駄に走った時間は記録されている。きっちり同じ時間をナノ秒単位で制御すれば、間違いなく地球に戻れるはずだ。
そうすれば、帰りも二年半。
合計五年の旅程に変更はない。むしろ、この失敗のフィードバックは何よりも貴重なものとなるだろう。
科学者としての二人はそう結論し、旅程制御プログラムを逆転した。
そして、二年半を過ごした。
***
今その二人の前に、地球があった。
出てきたときと全く同じ、青い姿。
宇宙船の対地球速度は、地球までの距離が300万キロメートルのところできっちりゼロになり、そこからはゆっくりと航行して三日の道のりだった。
燃料は八割を消費。しかし、軌道上での制御のための燃料は最後に残される『母船』に搭載のもので十分だ。二人は迷わず、『拡張船』を切り離して捨てた。
出発時、宇宙船の質量の99パーセントを占めていた燃料の塊である拡張船は、くるくると回りながら軌道を飛んでいく。いずれ、害のない大きさに分解され、大気圏突入処分されるだろう。
そして、二人はちょっとしたトラブルに見舞われている。
「通信が応答しない」
ドミトリが言うと、リンファは首を傾げる。
「周波数を間違えているんじゃないの? 確認した?」
「いくつかマニュアルどおりに確かめてみたが、ダメだ。もしかすると、管制側のトラブルかもしれない」
「中継衛星がビーコンを出してるはずよ。プローブを開いてみるわ」
リンファは言い、いくつか操作して無線監視モニターを表示する。
「……やっぱりね。ビーコンが無いわ。中継衛星の故障よ」
「いや、中継衛星の寿命は二十年ほどだ。もしかすると、後継衛星の打ち上げに失敗したか、方式が変更されたか……」
「どちらにしろ、ここからのコンタクトは無理ね。降りるしかない」
リンファが言うが、ドミトリはうつむいている。顔色も悪い。
「……どうしたの、ドミトリ? 準備をしましょう」
「待ってくれ、リンファ」
彼は、何かを頭の中で計算しているような顔つきで黙り込み、やがて顔を上げた。
「僕らは、どこまで行っていた?」
「そうね、ざっと二、三千光年の彼方かしら」
「何てことだ。なぜこんな基本的なことを忘れてたんだ」
「何がよ?」
リンファは不思議そうに首を傾げる。宇宙飛行の訓練こそ受けていても、彼女の専門は生物学、系外惑星の生物の調査のための乗組員だ。
「……僕らは、光速の99パーセント以上で二千光年以上の彼方に達したんだ。少なくとも、二千年以上が、地球では経過している!」
その言葉に、相対性理論の基礎式、ローレンツ変換の式を思い出したリンファが、引きつるような声を上げる。
「きちんと計算しよう。最高速度は――航行時間は――加速度は――」
いくつかのパラメータを手早く入力すると、船のコンピュータは容易くその数字を導いた。
5611年。
地球で経過した時間だ。
地上で初めて文明らしきものが誕生してから人類が地球を飛び立つまでの時間より長い。
「――そりゃ応答しないわね」
ため息をつきながら、リンファ。
「人類は滅亡しただろうか」
「降りてみなきゃね」
「呼びかける手段があれば」
「無線のビーコンは何も見えないわ。人類が滅亡したか、文明が退化したか、電磁波よりも便利な通信手段を見つけたか」
「三つ目の可能性に僕の全財産を賭けるよ」
「あら奇遇。私もよ。賭けは不成立」
「論理だよ。配当を受け取れる可能性があるのは、三つ目の命題が真である場合だけだ」
「奇遇ね。私もそう思ったの」
二人はそうして、お互いに自嘲的な笑いをもらす。
それから、しばらく無言の時間が流れた。
別に悲嘆にくれているというわけではない。
もともと、はるか何光年の彼方へたった二人で旅をして、無事に帰れないリスクの方が高かったくらいだ。お互い、地球に何も残していないし、宇宙の果てで朽ち果てることくらいは覚悟していた。
それが、ただたまたま、地球上空で五千年の時間を失ったということに過ぎない。
「ねえ、思うんだけど」
「なんだい」
「相対性理論だと、ある物体に対して別の物体が運動していると時間が遅くなるわけでしょう? それは、逆にしても同じなんじゃないかしら」
「言いたいことは分かったよ、だいたいね」
「ええ、そう。つまり、私たちが地球に対して光速近くで運動していたってことは、地球だって私たちに対して同じように運動していたわけだから、私たちの時計が五千年止まってた代わりに地球の時計がこの五年ほど止まってたかもしれないわよ」
「それを『双子のパラドクス』と言うのさ。そして僕はその答えを知ってる。例の時間遅れの式、つまりローレンツ変換の式は、確かに相対的だが、これは、『特殊相対論』を適用した場合に限る。実際には『一般相対論』の効果が表れる。一般相対論の原理の一つを一言で言うならこうだ――加速と重力は区別できない。僕らは一生懸命加速し、あるいは減速して地球に対して相対速度を稼いだ。これは、逆から見れば地球がとてつもなく大きな重力場の中を自由落下していたようなものなのさ。そして、一般相対論の帰結の一つはこうだ――重力を受けている物体の時計は遅れる。つまり、僕らは地球に比べてきわめて強力な重力場の中にいたようなものだ。この効果で僕らの時計は遅れる。加速して減速してまた加速して戻ってきて減速――この効果をきっちり足し合わせると、あらゆる項がきれいに相殺して、特殊相対論上僕らだけが運動していたと仮定したときのお互いの時計の進み具合にぴたりと一致するのさ。つまり、パラドクスは生じない」
ドミトリは得意げに双子のパラドクスの正体を説明して見せる。
リンファは一通り聞き終えてから、肩をすくめた。
「きっとそうなのでしょうね」
再び操縦室に静寂が訪れる。
「……おあつらえ向きに、地上のリモート探査システムがある。電磁波信号が検出されないにしても、もし人がいれば分かるんじゃないか」
「ええ、野生動物と人間を区別する方法が分かれば、ね。活動する都市があるかどうかくらいは分かるでしょう」
実験用コンソールを手元に引き寄せ、リンファは、いくつかパラメータを打ち込む。そもそも未知の惑星の生物相の探査を主な目的としていた装置を地球相手に使うわけだから、全く異なるパラメータセットが必要となるのだ。
「……はい、これで、たぶんいけるわ。植物相フィルターをカットにセットして近赤外線閾値を最大に。文明活動に伴う廃熱ならこれで検出可能よ」
言いながら彼女は早速センサーのスイッチを入れる。同時に、検出結果を正面のモニターにリアルタイム表示させる。
「……地球が赤と白に塗り分けられたね」
「ええ、赤が『検出』、白が何もなし。……シベリアと太平洋に広く赤が分布してるけれど、その他の都市のあるべき場所は真っ白。シベリアの赤はたぶん極地補正のせい、太平洋は……さあ、なんでしょう、広域の嵐かしらね」
「オーケー、状況は分かった」
ドミトリは、リンファに顔を向ける。
「さて、君の考えを聞きたい。君は新世界のイブになる気はあるかい?」
その言葉を聞いてリンファは目を見開いたが、含み笑いを漏らしながら顔を伏せた。
「ごめんこうむるわ。たったふたりで人類の未来を背負うですって? ぞっとする」
「そうか、奇遇だね、僕もそう考えていたところだ」
ドミトリもくすりと笑った。
二人の小さな笑い声は、少し大きな笑い声に変わり、そして、ほぼ同時に消えた。
「医務室に、『良き眠りのための薬』がある。どうしようも無くなったときのための、ね。僕は願い下げだが、君がそれを使うなら」
「あら、奇遇。私も願い下げ。誰にも邪魔されず飢えて果てるまで思索にふけられるなんて、こんな天国のような機会をふいにするつもりはないわ」
あくまで科学者であり、思考と推論の世界に生きる彼女は、ただ考えることが何よりも好きなのだった。誰にも触れられなくとも、ただ考えることだけで生きていける。だからこそ、この無謀なプロジェクトに選任されることとなったのだ。
「では、お互いの食料を分け合ったら、そこでお別れだ。よい思索を、リンファ」
「ええ、さようなら、ドミトリ」
二人はおそらく初めてのハグを交わし、そして、必要な処理と準備を済ますとそれぞれの脳内に広がった理論の庭の散策に出かけ、二度と戻らなかった。
***
「二十年前に地球上空に飛来した物体の正体が分かりました」
地球環境管理委員会の席上で、ある委員が仰々しくプレゼンテーションを始めた。
「極めて古い文献に、近隣の恒星系の探査に出て帰らなかった宇宙船の記録がありました。図面などは滅失しておりましたが、特徴からこれに間違いありません。詳細な考察結果はお手元の資料に――」
委員の多くが、すでに資料をめくっている。
「――約5600年前。積んでいた燃料の量などは推測するしかありませんでしたが、おそらく二千光年程度彼方まで飛んで行き、戻ったものでしょう。船内時間は数年しか経過していないものと思われます」
「二十と、数年だな」
別の委員が訂正する。
「失礼、その通りです。地球へ向かう超光速航路は環境保護のためすでに閉鎖されており救出隊あるいは調査団を派遣することもできませんが――」
「仕方あるまい、たかが数人の調査隊のために何千億クレジットを使って航路の再整備などできんだろう。では、この報告に本日の議事録を付与して、本件をクローズとする」
全員の報告書冊子が、パタリと閉じられた。




