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姫心願


 人は祈り、一心に願う。

 深い祈りは、ある瞬間から慈愛に満ちた奇跡を起こす。

 半面祈りは、狂おしい飢えと渇きの末に、純粋な叫びへと変転する。

 奪い求めるだけの呪詛と化す。



 慈円寺。どこからともなく、蝉時雨を制し、墓地を女の呟きが渡ってゆく。

 濃い緑と古びた板塀で、俗世と遮断された広い霊園。縦横に走る参道に人の気配はなく、汗ばむ白昼の陽射しだけが照り付けていた。

 |白楼はくろう様、白楼様。

   どうか、あたいの頼みをお聞き届け下さい。

 |白楼后はくろうきさま、白楼后さま。私の願いをかなえて下さい。

 ||白楼后さま……、白楼后さま…………。

 ゆらりと、墓地の中でも一際見事な御影石の墓碑に、淡い霞みが一筋二筋、まとわり始める。

 ぽつりと、墓の主に捧げるかのように、真っ赤な染みがその墓前に滴る。血溜まりが広がってゆく。

 祈り、もしくは呪詛の呟きは静かに遠のいた。替わって。

「……また、この季節……。

 雪に閉ざされ、会いたくとも会えぬ日々がくる……」

 うつらうつらとした女の声が、そら寒い気配をこの場に呼んだ。晩夏の陽射しが、ここだけすっと陰りを帯びる。

 見えざる女。薄靄が次第に人型を取ろうとしていたが、この場に生きた女の姿はない。声だけが重い息を吐いた。

「春となったら、あの方は奥方を娶るのだろうか……。

 私を差し置いて……。私がありながら……。

 おお、寒い。凍えそうな風じゃ……。

 ……お会いしたい。一言、お伝えしたい……。

 ままならぬこの身がつらい。運命さだめを背負った、この姿が憎い……」

 女は震えながら、おのが記憶の中でもっとも新しい情景を眺めていた。綾錦に暮れる秋の枯れ山を疾風、いや、鷹の速さで駆け降りた心地良さ。目の前で舞い狂った、血の色に似た炎の美しさが、冷えた心をくすぐった。

 その記憶の終いで、炎は己自身であったと思い当たる。

 真紅の温もりが、身じろぐ気力を注ぎ込んでくる。

「……また、われわを、どこぞの娘が呼んでいる。

 この力が欲しいか? 忌まわしい炎の力が欲しいかえ?」

 突いて出るのは、すべてを厭う冷めた声音だった。毅然とした、これもまた若い女の声が、それをなだめにかかる。

「再び、時が巡りましたぞ。参らねば、御鷹姫みたかひめ

 今度こそ、愛しい夫を取り戻しましょうぞ」

 笑みを漏らしたように黙り込み、自負に満ちて言い放つ。

「……いや。我らの名は白楼后。この名に助力する強き力を得た今、すべてが我らの思うままとなる。

 さあ、参りましょう。我らがあるべき城へいざ」

 女たちの思惑を受け、白い霞は血溜まりを糧に石畳にまで達していた。その中から、打掛の裾を長く引いた女が一人、被衣を掲げそろそろと現れる。

 音もなく、女は長い参道の石畳を進む。後を、一人、また一人と、同じ年頃の女が陽炎のように付き従ってゆく。

 時代絵巻から抜け出した女たち。ある者は小袖打掛という武家の子女姿、ある者は豪奢な振り袖、あるいは紬と、一様に着飾る艶姿が続いた。

 彼女たちの存在は儚く、するりと、先を歩く打掛の中に消える。影絵の女たちを得る度に、打掛の輪郭は明確になり、女の肌は滑らかに生者の若々しさを取り戻していった。年は二十七、八。幼子の手を引いていても、おかしくはない年である。

 最後の一人は、白いノースリーブのワンピースという現代に近い装いで、ためらいもなく飲み込まれていった。

 一人残った女は足を止めると、己の身支度にうっとりと見惚れた。指先が懐中の扇を求め、探しあぐねる。見当たらないことに、そっと女は肩を落とした。

 失せた扇を除けば、非の打ち所はなかった。艶やかな刺繍に覆われた見事なうちぎ。扇が乱れ舞い群雲が湧く図案は、朱と金に彩られるがゆえに、雲というよりは湧き上がる炎かと錯覚できる。

 描かれる扇は、炎に飲まれ翻弄される女人の横顔を隠すがごとく、半ば閉じられている。

 隠れる女は、打掛に飲まれた十数人の魂に他ならない。



 ここには、見えない壁がある。

 蝉の鳴き声が、耳を塞がれたように遠かった。

 耳鳴り? 佐伯いずみは、かわりに、パチパチと火の粉がはぜる場違いな音を感じていた。

「……どう……して…………?」

 痛みもない……。

 手落とした剃刀は、滑らかな石畳の上で、カチリとも音を立てなかった。

 もう一度、呆然としたまなざしを、古びた飴色の社に向けた。高校一年生としては平均的ないずみの背と、屋根の高さはほぼ同じだった。ぴったりと閉ざされた扉の正面には、小さな飾り階段が作り付けられている。その手前には、滴らせたいずみ自身の血痕が残るはずなのに。

 いずみの目の前で、赤い血は石畳に吸い込まれた。

 社が吸い取ってしまった。彼女の願いの成就を約束したかのように、社は贄を受け取った。

「わらわを呼ぶのはお前か……?」

 耳鳴りが女の声で払われた。優しいが、じっとりと肌に張り付く艶を含んだ声に、いずみは頬を引き締めた。

「……白楼……后……さま?」

 息を飲んだいずみの顔に、期待と怯えが混じる。

 白楼后とは、講組織である白楼講が守る主神の名。稜明学園の敷地の一角に奉られた、小さな社の主であり、生前の名を御鷹姫という女神のこと。

「わたしです! 白楼后さま、力を貸して下さい!

 あの女に、先生を取られたくないの……!」

 精一杯声を張り上げた。目の前。手の届くところに、古風な打掛姿の女が突如現れても、彼女に恐れはなかった。

「お前の恋しい者は、お前のものにしてやろう」

 応える白楼后の体は、燐光を放ち眩しく輝いている。

「本当ですか……?」

 光に縁取られた顔に見惚れながら、尋ね返した。

 女がうなずくと、結い上げず背に長く下ろした髪がきらきらと光を放つ。いずみが思っていた通りに美しい女神だった。

「更に祈るがよい。

 お前の望みと、お前に立ちはだかるものへの呪詛を……」

「はい……。あんな女、大ケガでもすればいいのよ……!」

 白楼后はいずみの傷付いた右手を取り、傷口に唇を押し当てた。冷えた体温が、いずみの腕を一時痺れさせた。

「約したぞ?」

「……はい」

 いずみは勝ち誇った笑みで、薄らぐ白楼后を見送った。

 これで何もかもうまくゆく。二日前の逆上した女の怒鳴り散らされた悔しさは、優越感に変わっていた。

 剃刀を拾い踵を返したところで、いずみはギクリとした。

「……おいっ。誰か居るのか?」

 男子生徒が石畳の端からこちらをのぞいていた。この辺りは、噂のせいで誰も近寄らないはずだった。

 見られた、かな? 他人に目撃されると、効力がなくなったりして……。剃刀とキズのある右手を制服のポケットに隠しながら、いずみは軽い足取りで彼に歩み寄った。

「何ですか?」

「今、見なかったか? 白い、人間の形をした影みたいのが、ここからすうっと出てったぜ……」

「さあ。私、何も見ませんでしたけど」

 薄気味悪そうに、彼は三方を生け垣に囲われた社を見回した。二年生だと、いずみは思い当たる。学園では有名人の一人、三橋翔。財閥の御曹司だが、大人の恋愛を経験していると自認するいずみにとっては興味の対象外だ。

「この時期。コスモスが学園に咲き始める頃になると、出るんじゃありませんでした? 御鷹姫の幽霊が。

 今年は、もしかしたら三橋先輩が第一目撃者かも」

「げーっ。気色ワル。お前、一年生だろ? よくこんな気味の悪いところにいられるな」

 いずみのからかいに、三橋は素直に嫌な顔をした。

「白楼后様って、女の子の味方なんですよ。若い女の子たちの恋の悩みをかなえて、解消してくれるんです。

 自分の悲劇的な恋が忘れられなくて、この世に強烈な想いを残して神様になった人だもの。怨霊になっちゃうくらいの気持ちって、私わかるから、ちっとも怖くないわ」

「……。頼み事でもしてたってわけか?」

「いけませんか?」

 挑戦的に聞き返すいずみに、三橋は真顔を向けた。

「良くないと思うぜ。

 知り合いのばあさんが言ってた。死んだ人間を騒がせるようなことはマズイってさ。

 ここは、成仏できない魂を鎮めるために建てたんだぜ?

 願い事なんかして、呼び付けるような真似するのは、かわいそうだと思わないか? 静かに眠らせてやる方が……」

「あの人は喜んでるわよ! きっと、頼りにされて嬉しいと思ってるはずよ。一人ぼっちで、こんな寂しいとこに眠らせておく方が、ずっと心細くてかわいそうよ!」

 叫ぶように言って、いずみは校舎へと駆け出した。

 残された三橋は、突然向けられた激しさに面を食らった。

 かりかりと額を掻いて、漏らす。

「それもそうだけどさ。毎年、鎮魂祭で供養してるだろ?」

『ばあさん』呼ばわりしてしまった家政婦の敏井は、物知りで古風な人柄だった。彼女ならこの場合どうしろと言うか。三橋は社に手を合わせ、「成仏しろよ」と呟いた。

「そこに居るの三橋なの? 騎道は見付かった?」

 三橋は、駆けてきた彩子に首を降った。

「うんにゃ。……。たく。騎道の奴。どこで眠くたれてるんだ? 5限まであと10分。こりゃ、時間切れかよ」

 企みは、二人揃って騎道の数学のプリントを写してしまおう、という画策だった。

「今の。一年生の佐伯いずみ、じゃなかった?」

「うん……。あいつさ、恐ろしく座った目付きしてたから、気になって後をつけたらここに入ったんよ。

 願い事があったみたいだな。出てきたらすっきりした顔になってたから、神頼みってのも悪くないな」

 訳もなく、三橋はいい方へ解釈しようとした。

「ま、元気がよすぎて、不気味だったけど」

「三橋でも、神様にすがりたい時があるの?」

「んなことねーよ。何しろ、ムテキの翔君ですからねっ」

 強気なポーズの三橋とは逆に、彩子は眉をひそめた。

「あの子ね、地学の遠田先生と噂があるの。事実なら、不倫、なんだけどね」

 遠田って新婚二年目だろーっ? とは、呆れきった三橋の呟き。若くてちょっと頼り無い知性派の教師だった。

 彩子は石畳を踏んで、殺風景な社に近付いた。

「……迷信、だよな。願い事が叶うなんてさ。

 おいっ。あんまり近寄るなよっ」

「怖いの?」

 チロッと振り返る彩子に、三橋は力を込めて否定した。

「違うっ。気色悪いんだよ。この辺り」

「実はあたしも。寒くでぞくぞくするわね、ここだけ」

 そっと、彩子は半袖の腕をさすった。

「願いと引き替えに、自分の血をここで流すんですって。

 何もないみたいだから、ただのお参りみたいね」

 彩子は小首を傾げた。耳鳴り? 蝉の声とは違う、風の唸りが微かにする……。パチパチと炎がはぜる嫌なリズムも。……ここだけ、違う世界みたい……。

 壁……。目に見えない壁があるみたい。

 そっと、壁のむこうに居る三橋を探した。

「……おい! ぼんやりすんなよ……。何か見たのか?」

「え? 何かって……? 三橋は、見たの……?」

 まじまじと見返すと、いつの間にか、三橋に手を引かれた形で彩子は社の外に出ていた。

「……見たって……、何か白い霧みたいなのがさ……。

 佐伯がここに居た時……。はははっ。錯覚だろ?」

 笑い飛ばす三橋に、こくんと彩子はうなずいた。

 夏の終わりから冬にかけて、御鷹姫の幽霊が街を彷徨うという現象は、まぎれもなく現実のものだった。年によって頻度は上下するが、目撃証言は文献として江戸時代中期から存在し、いまもなお確実に増加している。

 が、それを素直に認めたくないのは普通の心理だった。

 特に、彼女が女たちの欲望をかなえると言い伝えられる場所では。禍々しい存在だと、考えたくはない。

「彩子ちゃん。非常手段だ。あいつのカバンを漁ろう!」

「……。背に腹はかえられないものね。乗ったわ」

 くくっ。

 女がほくそ笑んだ気がして、彩子はゾッとした。

 気付いた素振りのない三橋。広い夏服の背中を、彩子は追いかけた。背筋が寒くて、振り返る気にはなれなかった。



 白昼の参道を駆け抜ける一人の壮年僧。白い着物の裾を蹴るようにして、目指す墓の前で彼は足を止めた。

 息がはずんでいる。中背の、過去に十分鍛えた体だが、寄る年波にはいかな高僧も勝てるものではなかった。

「…………」

 広い石畳の両脇には、同じ形の墓石が幾十も立ち並んでいる。最奥の、見事な御影石の墓に眠る者に従い、死しても逃れられず、血脈に縛られた女たちの墓碑だった。

 汗を拭った住職は、鋭い眼光で中央の墓碑を見据えた。

 死者の霊を配した参道を潜り、御鷹姫は冥府から舞い戻る。鬼門とされる東南から現れ、まっすぐ西北へ。

「……また、時が巡ったか……」

 無念の想いで住職は合掌する。

 全身にひしひしと、目覚めた御鷹姫の霊気を感じながら、ただひたすら、彼女の救済を祈念し続けた。


『姫心願 完』



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