01
――歌手が歌っている。
綻びは育ちゆく
子供時代をすごしつつ 少しずつ
大人になったら針仕事
音も漏らさず おとなしく
裂け目はすでに わたしの腕では修復しきれない
見えないふり 気づかないふり
重ねて虚空を織り込むの
ほつれた糸 ほどけた指
どこにもあなたがいない ここにはわたししかいない
抱えきれない想い出 捧げきれない思い入れ
ばらばらとこぼれ落ちる様は針の舞うようで
出で立つ穴の先には なにも見えない
行き場をなくした私の鋭い銀は何処へ
銀色が光って赤色したたれば
出来上がるのは望まれない赤い糸
歌手の歌に合わせるように張りつめていた森の空気が、歌の終わりとともにやわらいだ。木立ちの枝葉が風に揺れる音や、鳥のさえずりが戻ってくる。
僕は庭の入り口で拍手をした。
歌手は今日も縁側に座っている。
「いらっしゃいまし。ナツルさん」
「今の歌、なんていうか……寂しい歌だね」
僕は歌を聴いていたときに感じたままの感想を告げた。
「愛を歌ったのですけれど」
歌手は不思議そうに僕を見た。
「歌をつくるのは難しいですわ。これは歌詞がいけないのでしょうね。寂しく聴こえてしまうのなら、直しを加えましょうかしら」
「いいんじゃない。このままで。……好きな人のことを考えると、僕は寂しくなるよ。近くにいるのに遠い」
「……そうですわね。私もきっと、寂しいのでしょうね」
独り言のような静かなつぶやき。
僕は歌手の手を掴みそうになった。
……僕では駄目なのだ。わかっている。
僕は歌手の『愛するかた』ではない。
近くにいるのに遠い、僕の恋は片想いだ。
……落ち込むな、僕。今なら、なかなか自然な流れにできそうじゃないか。
僕は昨日思いついた『ミズリノをここに呼ぶ』という名案から生まれ出た、新たな名案を歌手に持ちかけることにした。
「街へ出てみない?」
軽やかな動きで歌手の隣に座る。
今日も縁側では木漏れ陽が踊っている。
「僕が案内するよ。僕が泊まる旅館にミズリノっていうおもしろい子がいてね、」
「――せっかくのお誘いですけれど」
歌手はためらいがちに言葉をはさんだ。風にたなびき顔にかかろうとする銀の髪を手で押さえ、空を仰ぐ。
「以前、言ってくださいましたわね。『きみが外に出たいのなら、出してあげたい、と思うよ』と。……私はこの場所から出られないわけではありませんのよ。土地勘がないからではなく、『主の家に居着く』という人形特有の土地感があるからでもなく……私は自らの意志で出ないのです」
よどみなく言い、歌手は僕を見つめる。
歌手が唐突に自分のことを話したことに、僕は少し驚いていた。
当然のようにわく疑問。
「なら、ここから出ない理由は?」
「王子様を待っていますの」
歌手はさらりと言い放った。
「お、……?」
王子様、という呼称に、僕はつい言葉につまった。『天使』という単語を聞いたときのミズリノのようなリアクションにはならなかったけれど。……こうして考えると、あの子はやっぱりちょっと、いや、かなり失礼だな。…………ともかく……
「王子様……?」
なんとなく探るような物言いになってしまった。
「あのかたの名前を聞いておりませんから」
……ああ、例の『愛するかた』のことか。これは僕にとっておもしろくない話題だな。そんな内心はおくびにも出さないけれど……
「乙女はみな、愛する人を白馬の王子様に見立てるものなのでしょう」
「どうかな。一般的な技法ではないんじゃないの、それ」
「そうなのですか。やはり私はまだまだ勉強不足ですわね」
「いや、それは個人の自由だよ。呼びたいように呼べばいいんじゃない。でも、うーん。……王子様……うーん……」
僕は腕を組んだ。歌手はもっと知的な感性の持ち主だと思っていた。意外性が逆にかわいい、とかいうのを計算された仕様なのか……?
……いや、歌手が好きな人のことをなんと呼ぼうが、もちろん当然完全に、歌手個人の自由、なんだけれど。
「そういえば、お聞きになりたいですか? 『王子様』について」
「あまり」
僕は気持ちを偽ることなく即答した。
僕が訊きたいのは、歌手についてだ。王子様については、むしろ聞きたくない。少なくとも、今はまだ心の準備ができていない。僕は打たれ弱いのだ。こうして開き直って自分で言うことも、情けなさに拍車をかける。
けれど歌手は話す気満々のようだ。過去に想いをはせるように、遠くを見るような眼差しをする。
「昔々あるところに、とても美しい天使が住んでいました」
自分で、とても美しい天使、とは。事実そうでも、なんだかシュールな表現だった。
「それって」
僕はつい口をはさんだ。
「ええ。私のことですわ」
言って、歌手は不思議そうに眉を寄せた。
「ナツルさんはなぜ笑っているのでしょう」
「なんでもないって。続けて。あまり聞きたくない話だけど、始まってしまったんだから最後まで聞くよ」
歌手はいぶかしがるのをやめ、こくり、と頷いた。
天使にあるのはその美しい身ひとつ。他にはなにもありません。
命も、主も、意味も持たない。
天使は日々を無為にすごします。なにもなくても、ただ在ることはできるのです。
天使は知っていました。自分が人の魂を移すための器のなりそこないであることを。
人形師は人の魂を託すために人形をつくっていました。
過剰に死を恐れてしまったのでしょうか。過剰に生に喜びを見出だしてしまったのでしょうか。考えてみても天使にはわかりません。命ない天使には、人形師の志などわかりようがないのです。
人形師は永遠を夢見て魂の器をつくります。
天使には疑問を持ったことがあります。
天使は記念すべきはじまりのなりそこない。後発の試作品達と違い、球体関節の旧式です。それでも、後につくられゆく試作品はみな消えてしまうのに、自分はここに在り続ける。なぜなのだろう。そんな些細な疑問です。
ですがその疑問は疑問のまま、答えを得ることはありませんでした。
死をなくすことができなかった人形師は不本意にも人間のまま生き続け、しまいには人形に魂を移すこと叶わず亡くなりました。
当然の帰結です。
この世のものであるかぎりは、永遠の存在たりえるものなどつくりだせるはずがないのです。
天でさえ巡り、幾重にも姿を変えるのだから。
失われたものにのみ永遠は許されます。
例えば、なくなってしまった命が永遠に失われ続けるように。
例えば、「なぜ私はここに在り続けるのだろう」という疑問に答えをだせる者が亡くなり、天使の存在理由が永遠に失われてしまったように。
自分は意味のないもの、空虚であり続ける存在なのだ、と。やがて天使はそう結論づけました。
そしてまた、天使は日々を無為にすごします。なにもなくても、ただ在ることはできるのですから。たとえ一人ぼっちでも。
そんなからっぽの日々を天使がやりすごしているところに、ある人物が家にやってきました。
天使にとっての運命的な出会いです。
その人物が王子様でした。
「こんにちは。歌うまいね!」
王子様は屈託のない笑顔で天使に話しかけました。
天使はよく歌を歌いました。たまに人形師が口ずさんでいた曲です。そのときも歌っていました。
「ありがとうございます」
と、天使は褒められたことにお礼を言いました。
「きみは天使のお人形さんなの?」
「そうなのでしょうね。貴方にそう見えるのでしたら」
天使が応えると、王子様はきょとんとしました。
「? 僕に見えないと天使じゃないの? ……まあいいや。じゃあきみの名前は?」
天使には返す言葉がありません。
「名前もわかんないの? 自分のことじゃん」
「私には、自分のことがわからないのです。ただここに在ることしかできませんの。名前もございません。私を呼ぶかたがいないので、必要ありませんから」
「でもこれから僕が呼ぶからさぁ、名前つけてあげるよ。えーと……よく歌ってるから『歌手』!」
つくられて幾年、天使はようやく名前を手に入れました。
「他にはなにがない? ほしい? 僕が考えてあげる」
「……では、私がここにある理由をくださいまし」
天使は期待せずに言いました。そんなものは誰にもつくれるはずがありません。
ですが王子様はさらりと言ってのけました。
「僕に歌を聴かせるためにここにある、でいいじゃん」
天使には王子様のために歌う、という存在理由ができました。
こうして天使は王子様に、名前と存在理由――『自分』をもらったのでした。
それからの王子様との時間はとても楽しく、天使はたくさんの感情が自分に施されていることに気がつきました。
そして愛することを知ったのです。
けれど幸せな時間は長くは続きませんでした。お別れの時が迫っていたのです。
「私は貴方を忘れませんわ」
悲しむ天使に、王子様は「絶対にきみを迎えにくる」と言いました。
「約束の指切りしよう」
天使と王子様は小指を結び、指切りをしました。
「歌手、待っててね」
「ええ。お待ちしております。いつまでも」
「僕は歌手が大好きだよ」
「私もですわ」
王子様は次の日いなくなってしまいました。
天使は待ち続けます。からっぽでなくなった天使にとって王子様を待つ時間は長く、それこそ永遠のようです。
それでも天使は王子様を想い、今日も歌い続けるのでした。
「おしまいですわ」
歌手が感想を求めるように僕の顔をのぞき込んだ。
「興味深い話だったよ」
歌手から見た生前の天才人形師の目的。
永遠を夢見て、か……。
歌手の百年に少しだけ近づけた気がした。
それにしても……話を聞いたところによると、王子様は自己中心的で能天気……じゃない、物事を円滑に進めることに長け、屈託のない好青年のようだ。
僕は持ってきた水筒の水をふたにそそぎ一口飲んだ。飲めないと言うので歌手には勧めない。
「それで、えーと、なんていうか……後半の王子様との云々らへんも実話なんだよね?」
「多少の簡略化はなされています」
「だよね」
僕はホッとした。歌手がこの話どおりに簡単に単純に王子様を好きになったのなら、この僕の苦労はなんだ、ということになる。
「後半、手抜きじゃない?」
「そうですかしら。会話を思い出しながらお話調にまとめましたので、そのぶん隙が多くなってしまったのかもしれませんわね」
「え。会話、そのまんまなの?」
僕はつい腰を浮かせた。
「省略はいたしましたが、脚色はございませんわ」
「王子様ってずいぶん能天気な人だったんだね、子供っぽいっていうか」
話を聞き終えた段階では王子様に関しては意地でも触れないつもりだったのに、僕はついつい疑問や本音をもらしてしまう。
歌手は懐かしむように目を細めた。
「純粋で、素直で、まっすぐで。ええ、本当に子供でらしたのです。……ナツルさんとどこか、似ていましたわ」
どこが?
話を聞いたかぎりでは全然似ていない。……いや、歌手から見て似ているのなら僕にも勝機があるということか……?
「にしても『王子様』って呼び方は……」
「いいのです。私だって『天使』なのですから」
歌手はむっとしたように言い、ふい、と顔をそらした。けれどなにかを思い出したように目をしばたたかせ、すぐに僕に向き直る。
「前にお話しいたしましたわね。私は歌い手としてつくられたわけではない、と。ですが、私は王子様に『歌手』という名前と存在理由ををいただいて以来、王子様のために歌う歌い手ではあります。今は、王子様の道標べになればと歌っているのですし」
「へえ」
僕は歌手の前ではおしゃべりになることに決めた。歌手になるべく王子様への愛を歌わせないようにするために。
「そうですわ」
歌手はひらめいたように目を大きく開き、胸元で両手を合わせた。
「私のお喋りの仕方、現代的な女の子として自然ですかしら。言葉使いとは、時代とともに移り変わるものなのでしょう」
「うん? なんでそんな話になるの?」
「もしも私の話し方が古めかしかったら、王子様と私が再会し晴れて人の世へ出ることになったときに、王子様がいらぬ恥をかいてしまうではありませんか」
歌手は、説明しなくてもわかるだろう、と言いたげに淡々と僕に説明をした。
僕はあごをなでながら考えをめぐらせる。
「王子様って不老不死なの?」
「私はぞんじません。きっと普通の方と同じですわ。普通の方は不老不死なのですか」
「まさか」
時間の流れに抗える人間はいない。
永遠はない、と、歌手もさっきの思い出話の中で言っていた。
どうやら別れてから相当な時を経ているようだ。
彼女の王子様は、死んでいるに違いない。とっくの昔に。(これは希望的観測ではなく、客観的事実だ。口にこそしないけれど……)
王子様の亡きがらは今、どこにあるのだろう。
灰になり海へ、あるいは骨になり土へ、あるいはまさか……
――形なくなり空へ?
僕は我知らず頭上を仰いだ。太陽の眩しさに目が暗む。
天上の王子様と、地上の天使。
まるでおとぎ話のよう。
ああ、そうだ。そんなのはじめからわかっている。
僕が歌手にはじめて会ったときにはすでに『天使と王子様』の絆は深く、僕にはその間に付け入る術はないのだ。王子様は名前も存在理由を歌手にあげ、歌手もそれを大切に抱いている。
「どうですかしら。このお話の仕方でよろしいでしょうか?」
「どうだろう。一般的ではないけど、おかしくもないんじゃない」
歌手は神妙な顔をして相槌を打った。
「そうなのですか」
僕個人としても、歌手によく似合っていて好ましいし。主観まじりの解答は求められていないだろうから言わないけれど。
「それに王子様のためっていうのなら、今のきみのしゃべり方、囚われの粛々としたお姫様っぽくていいと思うよ」
「囚われのお姫様?」
「うん」
「駄目です」
歌手は困ったように首を傾けた。
「彼が私を迎えに来たら、私は自由な女の子になるのですよ」
ああ、そうか。言われて思い出したけれど、王子様も、そう呼ばれているだけで別に王子様ではなかった。
「そっか」と、僕は気のないように聞こえるようにそっけなく返事をした。
嫌な予感がある。
「よろしければ、ご教授してくださらないかしら? 女の子の言葉」
歌手は真剣な声音で言った。
この嫌な予感の的中率の高さよ。
どうしよう。とりあえず嫌だ。……保留にすることにしよう。僕は残念なことに、曖昧な決断を好む奴だ。
「また来るよ。そのときに教えてあげる。これからちょっと用事があってさ。今日は帰るよ」
「お待ちしてますわ。ご機嫌よう、ナツルさん」
ワンピースのスカートを両手の指でつまみ、歌手はお辞儀をした。とても美しい……丸ごとを物語の挿絵にしたいくらい絵になっている所作だ。
――そう。僕は、この自分には所有権のない人形をいっそ手元に置ける物の中に閉じ込んでしまいたい。
次に僕がここへ来るまではせめて、僕は王子様よりも歌手を待ちこがれさせることができるだろうか。
……馬鹿馬鹿しい。
僕は緩慢に首を振るい、目の前にぶらさがる虚無に笑った。
歌手がどれだけ僕を待ちこがれたとしても、その想いは、やはり彼女の王子様にたぐり寄せられるべき、彼への彼女の恋いこがれる想いの派生物でしかないのだ。