01
手に持つ棒の先で、弾け煌めく火花は赤から黄へ色を変えた。
ぐるぐると花火を回して遊ぶ僕を歌手が笑う。
「まるで小さな子供みたいなことをなさるのね」
「僕は子供なんだよ」
心から楽しそうにしている歌手に気をよくした僕は、助走をつけて縁側に飛び乗った。
土足はとがめられない。荒れた敷地内には、靴を履いたままでなければならない場所は多々あっても、脱がなければならない場所は一カ所もない。
「好きな人と二人っきりでする花火なんて、浮かれないはずがない」
「まあ」
歌手は花火を持っていない方の手を口元に当てた。
「お上手ですこと」
本気で言ったんだけれど、冗談だと受けとられたようだ。
僕としてもそれでよかった。
歌手も僕が持つものと同じ種類の花火を手にしている。ほぼ同時に火をつけたために、色の変わるタイミングも近い。二つの火花は、黄色から緑色へ変化していた。
「僕に奪えるきみの初めては、なにかないかな。きみの初体験の相手になりたいな…………あ」
まずい表現をしてしまった。そう思ったときには、すでに遅かった。
間。
火花は色を一巡し終え、緑は再びはじまりの赤へ色を変えた。
「……それは男女の営みに関するお話ですかしら?」
鮮やかな光を見ながら考えをめぐらせていたらしい歌手が、視線を火花にそえたまま僕にそっと尋ねた。
「きみ、下ネタもいけるの?」
「下ネタ?」
「えーと……」
僕は言葉を探す。
「猥談、とか?」
「ああ」
納得したように歌手が目をまたたかせ、タイミングよく僕と歌手の花火は消えた。
「私は聞き上手なので、合いの手を入れるくらいなら。けれど、できれば控えていただきたいですわ。私の品位に配慮してくださるのなら」
歌手は嫌そうな顔はしていない。けれど明らかに煩わしそうな、そっけない口調だった。
僕は苦笑してばんざいのように両手を挙げた。持っている花火は役目を終えきり、ただの棒きれになっている。
「了解」
水を張ったバケツに、熱を帯びる棒きれを放り入れた。
「そんなつもりじゃないよ、うん。確認しただけで。……あのね、歌手。前に他の人と花火したことあるんだろ」
「ええ」
「他にも、トランプも、オセロも、ジェンガも……僕が持ってくる遊び道具は、すでに僕以外の人としてる。プリンも食べられないって言われたし」
「食べ物を持ってきていただいて『食べられません』と、お断りする流れ自体が定型ですわ。過去に数回、経験いたしましたもの」
「あ。だよねー」
テンション同様、声のトーンも下げてしまった。僕の感情はわかりやすく漏れただろう。
「だからね」
僕は仕切り直す。
「きみが誰ともしたことがないことを一緒にしたいんだ」
ふいに歌手が頭上を見上げる。
思わず僕もつられた。
木々の影間に開けた夜空には、いくつもの星がまたたいていた。
この庭にあるランプの明かりとろうそくの炎は、そっと森の暗闇に捕り殺されてしまう。けれどそうでなくてもささやかな光達は空へと届くはずもなく、星の輝きを脅かしようがない。
「すっかり夜ですわね」
……話をそらされた、のだろうか。歌手は歌手で好きな人がいるみたいだし、僕も好意を押しつけるつもりはないから構わないけれど。
「花火をするなら、やっぱり暗くないとね」
僕は応えた。
「お帰りは、いかがなさるの?」
歌手が花火の棒先で指を遊ばせながら僕に訊いた。
僕には質問の意図がくみとれなかった。
「いかがって? 帰りにまつわるなにについてのいかが?」
「泊まっていかれるのかしら」
「えーと。さっき猥談禁止の圧力をうけた気がするんだけど」
「心配しているのです」
「信用ないな、なにもしないよ。ちゃんと今夜中に帰るってば。紳士的に」
「そういった意味ではありません」
歌手は持っていた棒きれをバケツに入れた。星を映す水面が揺れる。
「そもそも、私にはそういった仕組みはございません」
「そういった……」
歌手は無表情で僕を睨みつけた。
「怒りますわよ。今は……今後も、関係のない話題です」
「じゃあ、なんなのさ。今はなにを心配してるの」
歌手はあきれたように首を振った。
「私は、ナツルさんの身を案じているのです。夜の暗い森は危険です」
僕はこれみよがしにため息をついた。
「野生の森は夜行性だから、捕まってバリバリむしゃむしゃ喰われてしまう?」
言葉に刺が滲む。
好きな女の子に夜道を帰ることを心配されるくらいなら、その身の危険を感じられる方がずっといい。僕にはこれでも男としての矜持はあるのだ。
「やだな。子供あつかいしないでよ」
僕は苛立ちを隠さずに歌手を睨み返した。
「先程はご自分で、『僕は子供なんだよ』とおっしゃいました」
「比喩じゃないか」
「どちらにせよ、私からすれば子供のようなものです。私は百年近くあるのですよ」
「だからなんだっていうんだ。僕はもう何往復もしてるんだ。平気さ。外に出たことがないきみが昼の明るい森を歩くよりも、ずっと安全だよ。きみが気にかけるまでもない」
歌手は黙りこくってしまった。
僕は自分の発言の不用意さに気がつき、地面をかかとで蹴った。
歌手は、侮辱された、と感じたようだった。
「ごめん。きみのすごしてきた時間や経験、知識を軽んじてるわけじゃないんだ」
「……私こそ弁えない発言でしたわ。私をつくったかたから、森は危険だと聞いていたもので……。森のことは……いいえ、もしかしたらすべての事柄……ナツルさんのほうがよくご存じなのでしょうに。ごめんなさい」
歌手は言葉を選びながら、冷笑のような、悔いているような不思議な笑みを口元に浮かべた。
歌手がたまに見せるこの謎めいた表情は、今では『愛する人について話すときの幸せそうな笑顔』と同じくらい、僕を居心地悪くさせる。
「花火、またにしよっか」
バケツを軽快な動きで持ち上げる。僕は努めて明るくふるまった。物心ついたときから人の心に気を使うことのない生活をしてきた人間なので、不慣れさ、不自然さがあるのは仕方がない。
歌手は首を振り、
「最後の締めには線香花火をするものなのでしょう。いたしませんか?」
ふわり、と微笑んだ。