02
歌手は僕の話に黙って耳を傾けていた。途中一度も感情を乱すことなく。
王子様や会ったことのある人間以外の死はイメージできない、実感がわかないのだろう。歌手にとって世界はこの、森に取り囲まれた廃屋がすべて。ここ以外を目にしたことがないのだから。ましてや、一番大切な王子様が死んでいることは、僕が口をすべらせすでに知るところだ。興味を引かれる箇所はないのだろう。
きっとこの先の僕の宣言にも、さして心は動かさない。
それで構わない。僕は王子様にはなりえない、僕という人間だから。
「……そして今日、人間はいなくなる。僕はここで自らの命を絶つよ。僕の死で、きみの王子様の思い出を塗り潰す。きみにずっと、僕を覚えていてほしい」
僕と目を合わせ続ける歌手の瞳に、今日会って初めてわずかに滲む感情――戸惑い。
「それは無理よ」
落ち着いた声音で言った。
「王子様には勝てなくても最悪、忘れられない嫌な記憶としては残るだろう」
「無理だと言っているでしょう。不可能なのよ」
「やってみるまでもない、か。きみの王子様への愛は、筋金入りだ」
歌手はまぶたをふせ、目を閉じた。長いまつ毛が目元に影を落とす。迷いを振りほどくように静かに首を振る。
「ナツルが秘密を明かしてくれたから、私もお礼に秘密を明かすわ」
目をゆっくり開くと、艶やかに微笑む。
「私、もうすぐ寿命なのよ」\
「…………、え……?」
僕の口から間の抜けた声が出た。
……寿命?
「経年劣化。このお家を見て。同じことよ。球体関節や、皮膚より内側の仕掛け……あちらこちらが綻んできているの。言ったでしょう。私は神の使いを模してつくられただけの人形……永遠ではないのよ。ずっと続くもの、変わらないものは、この世にはない」
僕は歌手の背後にそびえる廃墟を見上げた。荒廃した庭を見回した。
視線を戻すと、歌手は変わらず笑みを浮かべている。
「私のすべてが静止すれば、やがて跡形もなく消えてしまう……そのようなつくりなの。魔法のようね。どうやって仕込んだのかしら。……けれどこの」
静寂をまとったままの歌手は淡々と言葉を紡ぐ。自分の胸にそっと手を当てた。
「心のような仕組みも不思議なものなのだし、魔法への疑問はかたわらに置いておきましょう」
僕は言葉を挟もうと息を吸った。
けれど歌手は話すのをやめない。やめてくれない。
「そんなわけでナツル、わかっていただけたかしら。私はきっと貴方よりも早くなくなるわ。だから、貴方のことを覚え続けることはできない。貴方がここで死にたいというのなら引き止めないわ。人の命は自由であるべきだもの。けれど私の記憶に残るために死ぬと言うのなら、徒労に終わるだけだからやめて。どうか、私の分まで生きてちょうだい」
木々の頂きで枝葉が風に揺らされて鳴いている。
歌手が視線を空に移す。
鳥の群れが羽ばたき発ち、影が庭を横切る。
僕は呆然と立ち尽くしている。
歌手の秘密の話はおしまい。
歌手の口から僕が聞きたくなかった言葉は放たれつくした。僕の絶望は放たれつくした。
「……ねえ。そんなつもりなかったんだ」
僕は声を震わせた。
「というか半分本当、半分嘘。僕は確かにきみの前で死のうと決めていた。でもこの数日でその決意は僕の選択肢のうちのひとつになり、しまいには選択肢からも消えていたんだ。きみが僕の頭を冷やしてくれたから。たちの悪い気の引き方をしてごめん。懺悔みたいなものだったんだ。明かしてしまいたかった、僕を知ってほしかったんだ。そうしたらきみからそんな爆弾発言が飛び出してきて、見事に返り討ちを食らったけど……やられたよ。嘘なんだろう。……寿命なんて」
みっともなくうろたえてまくし立てた僕に、歌手は慈しむような表情をする。
「ごめんなさい。真実よ。人形は嘘をつかない」
歌手を失う恐れに震えがやまない。
僕をこんなにも動揺させる歌手自身が、すでにこの悲しい恐怖を二度も受け入れている。
自分の消滅と、愛する人の死滅。
僕は人形病の流行を、花火を観賞するように眺めていた。自分もこうやって死ぬのだと。きっと歌手も自身の消滅にはそんな諦観を抱えている。
王子様の死をどうやって受け止めたのかは……僕には想像もつかない。
僕にとっての愛する人――歌手はまだ目の前に美しく存在しているのだから。
「言いたかったことがある。今日、一番言いたかったことが。……僕と外へ行こう。本当はこれが言いたくて、こうして早く来たんだ」
僕はすがりつくように訴えた。
前に一度断られているけれど、今とそのときとでは事情が違う。つけ入るようで心苦しいが、王子様が迎えにくる日は来ないことを、今の歌手は知っているのだ。
早朝にしてすでに今日は、僕が生まれてから一番言葉を発した日だ。酸欠でくらくらする、喉が痛む。けれどそんなことは瑣末だ。どうだっていい。歌手を僕にくれるのなら、僕の声なんかいくらでも天にくれてやる。
「私は、ここにある愛する人との思い出と一緒に果てるつもりだから。ナツル、貴方は貴方で生を全うして」
歌手が口元をゆがめて冷笑をつくった。
今の僕はこの笑みが歌手が泣く代わりに浮かべる表情だと知っている。
「歌手」
「お別れね。それとも私が無になるところを見たい?
私の『初めて』がほしいと言っていたわね。初めての消滅よ」
「そんなの……」
「……冗談よ。嘘はつけなくても、冗談なら言えるの。……これはナツルも知っていたわね。たくさんお話したもの。そして私達はたくさん秘密を明かしあったわ……」
僕がこんなときでも見ほれてしまう、透明な微笑みを歌手が浮かべる。
「親愛なるナツルへ、さしあげる」
僕の頬に手をそえる。
冷たい、と感じた瞬間、顔に影が落ちる。
僕と歌手の唇が触れ合った。
そっと口づけられた、その冷たさに胸の奥が痛む。
歌手の冷たさはいつでも優しくて、強くて、綺麗で――僕の初恋の人。最初で最後の片恋の相手。
「……私の初めてよ。はなむけになってしまうけれど」
僕の頬から手を離した歌手は微笑んだまま悲しげに僕を見つめる。
歌手が触れて冷えた頬を、ぼろぼろと流れる涙の熱が台なしにした。
「子供みたい。かわいい子。……ああ、こんなことを言ってはいけないのだったわね、殿方には」
違う。歌手は正しい。僕は子供だ。「そんなの自分にもできる」と高をくくって背伸びをするだけして、なにも上手くできやしない愚かな子供。
今だって、せめてしゃくり上げてしまわないように堪えて泣くことしかできない。
「……あんな話、しなければよかった。秘密を秘密のままにしていれば……僕は馬鹿だ。欲が出たんだ……あんなに楽しかったのに。……なにかすればするほど、どんどんおかしくなっていった。おとなしく楽しんでいればよかったんだ、高望みなんてせずに」
僕は外套の袖で涙をぬぐった。
花火の火薬の匂いがする。庭でした花火はとても楽しかった。すでに楽しかった思い出になってしまっている。もうあんな楽しい時はこない。僕がすべて、自分でぶち壊した。
――ああ、そうだ。僕の希望が潰えただけならまだ、救いがあったのに。
「……歌手、ごめん。きみの中の王子様を殺したのは僕だ。きみの王子様への夢を絶ってしまった」
「ナツルが気に病むことなどないわ。謝らないで。……貴方のおかげで目を覚ますことができたの。私は本来リアリストなのよ。人形は眠らない。夢を見ることができないのだから」
僕の顔を見る歌手の眼差しが一瞬だけ揺れる。
「私のこと、早く忘れてしまってね」
歌手はやんわりと拒むように言うと、静謐な態度を硬化させた。
「行ってちょうだい。お別れよ」
「……ああ。行くよ」
僕はきびすを返し、歌手から離れた。
「さようなら。お元気でね」
背中に声がかけられた。
「――また来る」
「ナツル……!」
歌手がなにかを言いかける。
僕は早足で逃げるように庭を出た。