01
青みがかる早朝の森は、しん、と冷え込み、生命が内にあるのを拒むかのように僕の体温を奪う。……違う。僕の心がそう感じさせているだけ。実際には、この森ではたくさんの命が緑の息吹に包まれ、また今日を生きるための眠りについている。やがて、鳥のさえずりが聴こえはじめる。動物達が活動しはじめる。
「あら。いらっしゃい、ナツル。今日はお早いのね」
庭先にある木の幹にある傷を眺めていたらしき歌手が、僕に気づく。歌手はまだ、静かな眠りの森では歌っていなかった。「こんな時間から庭にいるの?」
「今日はいつもより早く出たの。ナツルが来るように思えて」
「すごい……ミズリノが言う『女のカン』って、本当に当たるのかもしれない」
「私の予想はただの予測よ。人形なのだもの」
歌手は片方だけの翼をなでた。朝はいつもこうして整えるのだろう。
「歌手。きみに聞いてほしい、話があるんだ」
僕は歌手のそばまで歩く。
「かしこまって、どうかしたの?」
「……長くなってしまうかもしれない。誰にも話したことがないんだ。話せる人がいなくて。歌手に話すのは……打ち明けるのは、ずるいのかもしれない。きみの王子様への……希望をなくして、さらに僕は……」
「つらつらと前置きをしてしまいたくなるようなお話なのね」
歌手は僕の言葉をさえぎった。真摯な瞳で、
「私なら大丈夫よ。きちんと受け止めるから」
「きっと、まとまらないんだ」
「貴方の思考のままでいいわ。過不足があればこちらで補うから」
「うん……ああ、でもやっぱり……」
「お話ししてみて。前置きはそれから聞くわ」
自分から言い出しておいて往生際の悪い僕に、歌手はあきれるように言い切った。
「……ごめん。……じゃあ、はじめるよ。長い話を聞いてくれ」
今となっては僕はおそらくこの世界で唯一の人間。この世界の人間の、終いの一人だ。
およそ二年前。爆発的に広がった未知の病で、世界中の人間が死んだ。もの凄いスピードで世界人口が目減りしていったんだ。
その病は、僕の家系の者の多くが代々患ってきた未知の――不治の病と酷似していた。
発症すれば、まずは四肢が腐るように間接から崩れ落ちていく。そして脳の働きが鈍り、やがては心までなくなってしまう。表情を変えず、言葉を発することもない。手足のパーツがないお人形のような……かろうじて生命を宿すだけの肉体。そうなってしまえば、先にあるのは死だけ。余命は数日。死ねば一握りの灰のような粉になってしまう。……あるいはその病は伝染性のもので、粉が空気に染み込み、媒介になって広まっていったのだろうか。僕にはわからない。
人形病――誰が呼びはじめたのかそんな名称がついたころには、世界の人口はすでに十分の一以下になっていた。
当時、僕にはもう身寄りはなかった。僕の家系の者は、その人形病のような受け継がれてきた病や体が弱いことからの衰弱で、多くが短命だったから。僕もこの死の渦に巻き込まれて死ぬんだろう。僕はそう当たり前のように思い、受け入れた。死の予感は物心ついたときから常にあったし、だからその流行り病についても人より理解が早かったら。
けれど死は僕を素通りし、容赦なく僕の周りで蔓延した。僕以外の命が目まぐるしい速度で失われていった。まるで子供のころに眺めていた流れ作業の花火のように、命の灯火が消える。たださらさらと。やがてニュースの放送も止まり、情報は手に入らなくなった。
僕の周りには、誰一人いなくなってしまった。
――それから二年が経つ。僕は各地を自転車で旅してきた。誰か生き残りが見つからないかと。けれど、やはり誰一人見つからなかった。
当然、交通機関も死んでいる。バイクや車を使った方が効率よく回れただろうに僕がそうしなかったのは、僕の意思の根底に「どうせ生き残りなどいない」という諦めがあったからだと思う。
なぜ僕は生き残ったのだろう。
僕の遺伝子なのか血液なのかそれ以外なのか……とにかく僕の体の中のどこかにある、人形病と瓜二つの不治の病の元が、抗体となったのだろうか?
それくらいの可能性しか、浅学な僕には思い当たらない。
ともかく、こうして人類は滅びの一途をたどる。
ここは人間にとっては終わりかけの世界。
夏流草。これが、終わる世界でおそらくたった一人残っている人間の名前。
僕の死とともに、人の世は幕を閉じる。