葉月の頃、影と羽と人形と
俺は人形師としてキミカゲという名を持つ。
『ミハネ キミカゲ』といえば、世間ではそこそこ名の知れた人形師だ。
『生きる人形』をつくりだしたおかげで『神技の担い手』などというたいそうな通り名で呼ばれ、人間国宝にも指定された。手にある雑誌には「世俗の喧噪から離れ切磋琢磨を続ける孤高の天才人形師」という見出しの記事が掲載されている。
馬鹿馬鹿しい。本来の力量以上に価値を高める、上げ底のような呼び名になんの意味がある。俺は通り名などいらない。名前さえどうだっていい。
……とくに今となっては。俺の名を呼ぶのはどうせ他人のみなのだ。だがあえてつけるなら「生の輝きに焼かれないように隠れ長らえる影」……こんなところか。
俺は失笑した。我ながらなかなか適切じゃないか。
まばゆい太陽の光に当たると消滅してしまう、森の奥深く湿り気の中でかろうじて生をつないでいる存在。それが俺だ。
作業場にある銀髪の人形を眺める。あとは目覚めさせるだけだ。
こいつもどうせ失敗作なんだろう。
――人形に命を巡らせること、魂を移動させることはなしえない。最近、そんな諦観が俺を苛む。
『生きる人形』に生はない。そう呼ばれているだけだ。
俺も所詮影の分際で分不相応な愚かしい望みを抱いたものだ。魂など人の手ではどうこうできるはずもなかったのだ。
俺は口元を歪め、『ミハネ キミカゲ』を讃えるくだらない雑誌をゴミ箱に放り込んだ。
そろそろ山菜を採りに出たあいつが帰ってくるころだ。
……あいつも物好きな奴だな。いちいち俺の世話を焼きたがる。師弟の情、ってやつだろうか。俺なんぞを義理立てすることもなかろうに。あれだけの腕があるのだから、さっさと独立して首都にでも工房をかまえればいいものを。名声に関心がないところまで師に似たか。それにしたって、年頃の女が森にこもっていつまでも人形にうつつを抜かしてるってのは……せめて着飾り紅をひき、縁ヶ丘の街なかへ繰り出せばいいのだ。元はいいのだから男は放っておかないだろう。帰ったら進言してやるか。正面からきり出してしまう
と「わたくしの行いに口をお出しにならないでください」などと突っぱねられてしまいそうだ。
その光景がありありと目に浮かび、俺はつい苦笑をもらす。
「気難しい奴だからな。さりげなくいこう」
雨音が外から聴こえてくる。
カーテンを開け外を確認する。どしゃ降りだった。庭ではひまわりが雨粒にしたたか打たれ、森も煙っている。
俺は窓越しに暗い空を見上げた。
「あいつ、傘は持って行ったのかな……」
◇ ◇ ◇
『あなた見て。今年も見事に咲きましたよ。まだ言ってませんでしたよね? わたし、この花が大好きなんです。夏の太陽の花。わたしにぴったり。ねぇ、あなたもそう思いませんか?』
ひまわりを背に、ひまわりよりも華やかに笑う妻は本当に美しかった。
だが、あの日から時が経ちすぎた。
俺を照らしていた笑顔は、俺の中で次第に輪郭をぼやけさせていく。
俺は雑草のしげる花壇を眺めた。妻が愛でていた太陽の花はもう庭にない。育てる者が誰もいないのだから当然だ。
手入れを怠った庭では花壇にも芝生にも薄い青色をした花が点在し、そよそよと風に揺れている。夏も終わりに近づいているようだ。晩夏の風が冷たく身に染みる。
手前の縁側で銀髪の天使人形が歌っている。
俺が歌っていた歌を覚えてしまったようだ。
……元々はあいつが人形をつくりながら歌っていた歌だ。この人形の、人にはおよそありえない銀の髪も、あいつの趣味で独断された発色だ。あいつは人形製作においてはいっそう強情だった。俺としても、命がどうの魂がどうのという馬鹿に付き合わせてしまっていたのだ、せめて人形の色彩に関しては、とその辺りはあいつに一貫して任せていた。
銀髪の天使人形の歌声は澄みきっている。
ただ美しく佇み、美しく微笑む――本来はそんな風に一番単純に心を仕組んだはずだったのに、生活習慣を自動で学ぶ仕様を持たせたせいか時折いらないことまで勝手に学習してしまう。
言葉だって仕込まなかったのに、森で迷った女を俺らしくもなく情けで泊めたら、その女からとっとと学んであっという間にしゃべるようになってしまった。
「冷えてきたから閉めるぞ。入れ」
翼のある背中に言うと、人形は歌うのをぷつりとやめ、
「――私を忘れないで」
「は?」
人形が立ち上がり振り返る。
手には庭に咲く青い花を持っていた。
いぶかしむ俺に「どうぞ」と花を差し出す。
「花の図鑑にありました。この忘れな草の花言葉は『私を忘れないで』というそうですわ。
忘れる、ってどんな感覚なのでしょう。……なんだか寂しいお花」
“寂しい”を、概念として知ってはいても実感したことはないだろうに、知ったような口をきく。
人形は表情も変えずにそっとつぶやいた。
「お好きな花はございますか?」
「花? 興味ないな」
俺は差し出された花を受け取らずに、縁側に面した大窓のくぼんだ取っ手に手をかけた。
「ゼンマイとかはいいんじゃないか。食えるからな」
「ゼンマイ?」
「森のそこらじゅうに生えてる」
「見てみたいですわ。連れていっていただけませんか。森の息吹も感じてみたいのです」
一瞬、凍りついた空気が喉に入ってきたような感覚に息が止まった。ひゅう、と喉で音がでる。冷たい風が入りこんでくる大窓をやや乱雑に閉め、
「……人形風情がなに言ってんだ。森はそんな情緒のきいたものじゃない。自然にある驚異を馬鹿は甘くみる」
俺は一蹴した。
馬鹿で物好きなあいつは森で死んだ。
この人形の外見はあいつとは似ても似つかない。だがその振る舞いは、どことなくあいつを彷彿とさせた。つくり主に似てしまったのだろうか。
人形の持つ忘れな草の青。
『綺麗な色。……暖色は少し苦手なので落ち着きます。小さな花はかわいらしいですね。わたくし、がらにもなく守ってあげたいと思ってしまうのです』
芝生にかがみこみ指先で花びらをなでながらあいつが口にした言葉が、丁寧に育てられた太陽花のまぶしさと共に脳裏をよぎる。
まさか魂の移動が成功して、この人形にはあいつの魂が――馬鹿な。
……この人形といると、ときたま似合いもしない複雑な感情にとらわれ、過去をしのんでしまう。俺はなるべく人形を黙らせた。郷愁の念ってやつか、俺も歳をくったもんだ、と自嘲する。
ふと気がつけば、天使人形は俺のいびつな笑い方も覚えてしまっていた。