ずっこけ話 :約3500文字 :電車
休日、夜の電車内。車内はどこか気だるい静けさに包まれていた。
乗客の数はまばらで、皆、座席に深く腰を沈め、背もたれに体を預けている。ネクタイを緩めた会社員、スマートフォンをぼんやり眺める学生、首を垂らして揺れに身を任せている女性、肩を寄せ合う親子連れ。どの顔にも一日の終わり特有の疲労が滲んでいた。
窓の外を流れていく街並みも、ほとんど眠りについている。等間隔に並ぶ外灯の光や、ぽつぽつと灯るマンションの明かりが、暗い車窓の向こうでゆっくりと後ろへ滑っていった。
やがて電車は速度を落とし、低く唸るような音を立てながら駅に滑り込んだ。軽い振動とともに停止し、ドアが開いた。
「ああ……」と小さく声を漏らして席を立つ会社員。まだ半ば夢の中にいるような顔でふらりと立ち上がる女性。乗客たちは静かに電車を降りていく。この心地よい空間から離れることをどこか惜しむような足取りだった。
そんな、いつもの夜の光景。車内は穏やかな空気を保ったまま、また一人、新たな乗客を迎え入れる――と、そのときだった。
「あっ、うぽっ!」
入口で男が派手に転んだ。車内に足を踏み入れた瞬間、顔から床に突っ込んだのだ。まるでベッドに飛び込むかのように全身を勢いよく投げ出していた。
鈍い音が車内に響き、乗客たちの視線が一斉に男に集まった。
――ふっ。
――ふふっ。
小さな笑い声があちこちから漏れた。
男はゆっくりと体を起こし、ずれた丸眼鏡を指先で押し上げると、ズボンの膝を手でぱんぱんと払った。それから足を引きずるようなぎこちない足取りで空席に向かい、どかりと腰を下ろした。
ドアが閉まり、電車が再び動き出した。車内の空気は何事もなかったかのように元の静けさへと溶け込んでいく――。
「あの!」
そのときだった。突然、男が声を張り上げた。乗客たちは「ん?」という顔で振り向き、わずかに目を細めた。
「……普段、コケたりしないので」
誰も反応しなかった。言葉の意味が飲み込めず、ただ男を見つめるばかりだった。電車の走行音だけが低く響く中、男は構わず続ける。
「ホームと電車の隙間がね、思いのほか広かったんですよ。それで、少々バランスを崩したわけです。ええ。ただそれだけの話です。いや、直前で気づいて対応はしたんですがね。まあ、もともと右足に怪我をしていまして、その影響もあったのでしょう。とはいえ、あれは設備側の問題と言わざるを得ませんね。まあ、わざわざクレームを入れるつもりはありませんが、改善の余地はあるでしょう。他の方も実際そう感じているんじゃないですかね。うん。これは個人の問題ではなく、社会全体の問題とも言えるでしょう。そう考えると、やはりここはね、心を鬼にして一言駅員に申し入れるくらいはしてもいいのかもしれませんね」
男は顎に手を当て片目をつぶり、ほくそ笑みながら語り続けた。言葉に淀みはなく、どこかラジオのパーソナリティのような雰囲気を醸し出していた。
最初は呆気に取られていた乗客たちだったが、やがて一人、また一人と視線を外していった。俯いて再び眠りに戻ろうとする者、小さくため息をつく者、スマートフォンに目を落とす者、露骨に舌打ちをする者――。
「ですからね、そもそも『転んだ』という認識自体が誤りで――」
「……うるせえな」
男が喋り続けてしばらくした頃、乗客の一人がぽつりと呟いた。
その瞬間、男の声がぴたりと止まった。しかし、それもまたほんの数秒のことだった。
「うるさい? うるさいとはなんだ」
男は眼鏡の奥で目を見開き、ぎろりと相手を睨んだ。
「なんなんだよ……」
呟いた乗客は目を閉じて、うんざりしたように背もたれに頭を預けた。
「私はね、危険なものを危険だと言っているだけなんですよ。あんな隙間、転んで当然でしょう」
「別に誰も気にしてねえよ……」
「嘘だ」
「え……?」
「あなた方! 全員、私を『転んだ人』として認識したでしょうがあああ!」
男が顔をぶるぶると震わせて絶叫した。その怒声に車内の全員がびくりと肩を跳ね上げ、反射的に男に視線を向けた。一番離れた席に座っていた乗客まで、驚いて腰を浮かせるほどだった。
「たとえばですよ! ここで車両トラブルが起きて、電車が急停止したとしましょう! 皆さん、『何が起きたんだろう』って、きょろきょろと周囲を見回しますよね? そのとき、私が視界に入ったらどう思います? こうですよ。『あ、さっき転んだ人もきょろきょろしてる』と! そうでしょう? 『また転ぶのかな』とか! 『座ってたほうがいいんじゃないの』とか! 思うでしょ! さらに、さらにですよ? 『あの転んだ人の近くのドア、開くかなあ』『非常ボタンはどこだろう。あの転んだ人の近くかな』とか! 私を基点にして考え始めるでしょうが!」
「……思わねえだろ」
乗客たちは呆気に取られたまま固まっていた。やがて一人がようやくぽつりと呟いたものの、男の興奮はまるで収まる気配がなかった。
「そしてですよ。全員閉じ込められて、自己紹介の流れになったとしましょう」
「ならねえだろ」
「なったとしましょう! しましょう!」
「うるさ……」
「静かにしなさいよ……」
「ママー、あのおじさんうるさい」
「しっ」
「今、あなた方の話をしているんだ! ……いいですか、あなた方はね、私が自己紹介を始めた瞬間、こう思うんですよ。『ああ、あの転んだ人ね』って。ふっと鼻で笑ってね。それで私の名前がちゃんと頭に入ってこないんですよ。『立山』を『転山』なんて間違えるでしょう!」
「もう、『うるさい人』だよ」
「『立山』だよ!」
「立つなよ……」
「また転ぶぞ」
「それで! 時間が経って、状況に慣れてくるとどうなるか! 『あのー、さっき転びましたよね?』なんていじってくるでしょう! 『あのうー』って、半笑いで唇を尖らせて!」
「しねえよ」
「それからあ! もし、私が女性の方といい雰囲気になったとしても、『でもさっき転んだ人よね……』って、ふと脳裏をよぎり、うまくいかなくなるでしょう!」
「そもそもいい雰囲気にならないでしょ」
「なるんだよ!」
「どんだけ自己評価高いんだよ……」
「私はね、マラソンをやっているんですが、よく女性ランナーに微笑みかけられるんですよ。私が見ると、向こうがニコッてね」
「あんたがじっと見たからだろ」
「そもそもマラソンに向いていないだろ。何もないところで転ぶくらいなんだから……」
「なに……? どういう意味か説明しなさい。失礼すぎる」
「そのままの意味だよ」
その一言で、男は目をさらにかっと見開いた。
「マラソンを四十年やり、今週、記念大会を控え、優勝経験者に『君はマラソンをやるために生まれてきた』と言われ、全身マラソン人間として日本全国のマラソン大会に参加し、入賞を果たし、二十年かけてこの前ついに初心者講習会を開催し、健二から『おれの理想のフォームだ』と言われたこの私がマラソンに向いていないって? ずっこけ話か!」
「健二って誰だよ……」
「大会常連のランナーだよ! 知らないのか! あんた、日本人じゃないんじゃないの?」
「もう黙ってくれ……」
「ねえママー。あの人、変ー」
「そうね」
「まったく、マラソン界での私の功績がまるで伝わっていない! 日々、食生活にも気を配り、『マラソンに効く食事三十選』という理論を提唱し、常に怪我一つないベストコンディションを維持する苦労がわかりますか? わかりますか!」
「あんた、さっき怪我してるって言わなかったか?」
「何を偉そうに……」
「偉そう? この世界に三十五年身を置き、雑誌に寄稿したこともあるマラソン評論家だから、実際に偉いのです」
「もうやめて……」
「いいですか、私はね――」
弁舌がさらに勢いを増し、男は再び立ち上がった。
勢いのまま車両の中央へ歩み出る。乗客たちは露骨に身を引いた――そのときだった。
突然、車両が激しく揺れた。
凄まじい衝撃が車体全体を貫き、あちこちから悲鳴が一斉に上がった。吊革が狂ったように揺れ、金属同士がぶつかる甲高い音が鼓膜を突き刺した。
親子は反射的に抱き合い、会社員の男は座席から跳ね飛ばされ、そのまま向かいの座席へ顔面から突っ込んだ。俯いていた女は下から突き上げられたように跳び上がり、長い髪が一瞬ぶわりと逆立った。
ある者は咄嗟に支柱を掴んだが、勢いに耐えきれず体が宙へ浮き、ぐるんと一回転した。荷物が跳ね回り、人間があちこちにぶつかり、怒号と悲鳴が車内に渦を巻いた。
いったい何が起きたのか。
そして、どうなってしまうのか――。
……と、いったところで、勝手ながらこのお話はここでおしまいとさせていただきます。中止。お流れです。
どうしてかって? だって、これは“コケる”お話ですからね。
えー、おあとがよろしいようで……。




