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【舐められる】

 翌日、Mが出社すると、オフィスの隅のパソコンの前に数人の社員が集まっていた。ヒソヒソとした話し声で何かを囁き合っている。

 人間学って何だよ。営業ってそんなに大げさか?

 そんなもん極めてどーする。

 お世話になっております、くらいフツー言えるだろ。

 実感がないって何だよ。当事者意識とか共感性とかいらねぇし。口先だけでいいんだよそんなセリフ。

 あいつ絶対バカだよ。

 リアルって何?太っ腹って何だよ。太っ腹ってそーゆー事?


「今日は、初めての飛び込みなので、緊張…はしてないですけど…、凄く楽しみなので、場数を踏んで、一件でも契約に結び付くように、張り切って、ええと、たくさん回ってきたいと思います」朝礼で、緊張気味のMが本日の行動予定を告げる。

「Mさん、飛び込みは資料を渡すだけでもいいですから。話ができればした方がいいですけど、まずは資料を渡して見てもらう、そして後日確認の電話をしてアポを取る、その後商談で契約まで結び付けられればいいので。名刺交換だけ忘れずにお願いしますね」主任が説明をする。まだ二十四歳、Mより若い。

「あ、そうなんですね…。分かりました。頑張ります」

 そうなんですねって、あいつ何しに飛び込むつもりだったんだ?あいつ絶対何も分かってないよ。

「営業車使ってもいいですけど、車の運転は大丈夫ですよね?」

「あ、たぶん…、体が覚えてると思います」

 たぶんて何だよ。体が覚えてるって何?絶対事故るよこいつ。


 空は快晴。会社の裏道に路駐されている営業車にMは張り切って飛び乗った。初めての営業、初めての飛び込み、何もかもが新鮮に感じられる。ここから始まる新たなスタートに、ドキドキが止まらない。ワクワク感が半端ない。不安がないわけではない。未知の世界に飛び込むのだ。それでも自然と気合が入り、久しぶりに運転する車のハンドル操作もどこか軽やかだ。

 車を走らせて三分、コンビニを発見。おもむろにコンビニの駐車場へ入り、車を停車させるM。携帯電話を取り出し、番号を検索、W教育通信社のボタンを押して、かける。

「はい、W教育通信社です」オフィスにいる社員が応答する。

「あ、お、お疲れ様です、Mです」

「ああ、どうしたの?」

「あの…、モデルルームって、どこにあるんですか?」

「はい?」

「出発したのはいいんですけど、飛び込む先の場所が分からないんですけど…」

「は?場所調べないで出ていったんですか?」

「あ、調べるんですか?」電話の向こうで白けたムードが漂う。

「じゃあ、モデルルームは看板出してる所が多いんで、看板見付けて片っ端から飛び込んでください」

「あ、そうなんですね。分かりました。ありがとうございます」ガチャン。荒々しく電話を切られ、携帯を見つめるM。しかしめげた様子もなく再び車を走らせる。

「そっか。調べてから出てくればよかったのか。相変わらず頭悪いな俺ってば」そんな事を呟き、キョロキョロと辺りを見渡しながら、ヘタクソな口笛を吹いている。

「看板発見!三百メートル先の信号を左折、と」今度こそ、いよいよ新たな仕事がスタートするのだ、そう思うと自然と目が輝く、ワクワク感が胸に湧き上がる。


 会社を出てから四時間が経過していた。Mはお昼も取らずに車を走らせていた。もう何件回っただろう、考えるまでもない、やべぇ、まだ三件しか回ってねぇ。資料は渡せたものの、手応えはまったくない。これは成果に繋がるのだろうか。

「そんな事よりここはどこだ」Mは迷子になっていた。知らない土地を、モデルルームの看板を頼りに走らせていた為、自分の現在地が分からない。看板からモデルルームに辿り着くまでも何度も道に迷った。道路の看板を見ても、知らない土地の名前ばかりだ。

 胸ポケットの携帯電話が鳴る。応答するM。

「お疲れ様です、Mです」

「あ、お疲れ様。今どこ?急遽出かけなくちゃならなくなったんだけど、車が足りないの。すぐに戻ってこれる?」

 編集長だ。

「あ、大丈夫です」

「三十分で戻ってこれる?」

「たぶん」

「じゃあよろしく」

「分かりました」電話を切り、アクセルを踏み込んでスピードを上げるM。


 一時間半後、慌てた様子でオフィスに駆け戻るM。編集長の姿が見当たらない。

「あれ?編集長、どこですか?」

 オフィスを見渡し、誰にともなく訊ねるM。

「おっせぇよ!戻ってくるのに何時間かかってんだよ」

「いや、すみません。道が混んでて…、あと…、ちょっと…、迷子になってました」

 呆れ顔の社員たち。白けたムードで仕事を再開する。


 夕方になり、まだ弱冠二十歳の営業社員を伴ってオフィスへと帰ってくる編集長。Mを見付けて声を張り上げる。

「ちょっとどこに行ってたのよ!いつまでも帰ってこないから間に合わなかったわよ。この子に頼んで送ってもらったけど」隣にいる二十歳の社員が、Mを見つめている。ニヤニヤと口元に笑みを浮かべながら。

「すみません、道がよく分からなくて…」

「は?」

 呆れた顔をして踵を返し、自分のデスクへと向かう編集長。まったく使えない、そんな呟きが聞こえてくる。それを見送り、二十歳の社員が馴れ馴れしくMの肩をポンポンと叩く。

「Mさん、しっかりしてくださいよ。俺なんか高速使って二十分で戻ってきましたよ」その目が嘲笑している。Mを見下している。完全に舐め腐っている態度だ。何となく目を逸らし、床へと視線を落とすM。もう一度Mの肩を叩き、

「しっかりしてくださいよ、Mさん。年上なんですから」と言って年下の社員が去ってゆく。その後ろ姿を虚ろな目で追うM。自分が傷付いたのか、頭に来たのかすら分からない。感情が乏しい。そんな事、考える事すらめんどくさい。


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