【心配】
その日、インターフォンの音でMは目覚めた。まだ暗いじゃないか、そう思った。何時だ?Mは時計に目を向ける。もうお昼を回っていた。新聞紙で覆われたMの部屋は、昼間になっても薄暗かった。Mの部屋に訊ねてくるのは新聞の勧誘くらいなものだ。めんどくせぇな、Mは呟きながら玄関へと向かう。気怠い身体を引き摺りながらMがドアを開けると、そこには母親が立っていた。Mは驚きの余りドアノブを握ったまま固まった。母親はMの顔をジッと見つめる。
「寝てたの?」母親が口を開く。突然の来訪に、Mは言葉が出てこない。
「疲れてるんじゃない?大丈夫?」母親が心配そうにそう訊ねる。
「何?何しに来たの?」Mはようやく声を振り絞る。
「様子を見に来たの」
「何で」
「母親が子供の様子を見に来ちゃいけないの?」母親が部屋の中を覗き込む。それを隠すようにしてその視線の先に身体を動かすM。母親が怪訝そうな顔をする。
「どうしたの?何か隠してるの?中に入れてよ」
Mは返答に詰まる。嫌な予感だけが頭をよぎる。この部屋を母親に見られてはマズイ。それだけは確かだった。
「やけに暗いわね」母親がMを押しのけて部屋の中へ入ろうとする。
「何だよ。何しに来たんだよ」Mはどかずにそう口にする。
「中に入れてよ。何か見られちゃマズイものでもあるの?」
Mが答えられずにいると、母親は強引に部屋の中へと入ろうとする。Mは目眩を感じた。母親の目が見開かれるのを感じる。
「何?これ。どうしたの?」母親は靴を脱ぎ、部屋の中へと押し入っていく。万事休す。Mは諦めて部屋へと入っていく母親の後ろ姿を見つめた。部屋を眺め、辺り一面を見渡し、何か不気味なものでも見るような目付きで母親がMを振り返る。確かに不気味だった。この部屋の光景は確かに異常だ。部屋一面にダラしなく新聞紙が貼り巡らされ、暗く異様な雰囲気を醸し出している。なぜ、こんな事をしているのか、なぜ、こんな部屋で暮らしているのか、誰だって疑問に思うだろう。そして異常に思うはずだ。こんな部屋で暮らしている人間は、どう好意的に見てもまともな生活をしているようには思えない、いや、まともな精神状態にあるとはとても思えないだろう。母親の心配そうな目がMを見つめる。この目付きが嫌だった。この目付きが苦手だった。
「どうしたの?この部屋」母親の声は震えていた。「どうしてこんなになってるの?どうして部屋中に新聞紙が貼ってあるの?」この心配そうな声が嫌だった。この心配そうな声が苦手だった。Mが答えられずにいると、母親の目に涙が溜る。最悪、Mが呟く。
「何?」母親が訊ねる。
「何でもないよ。心配するような事は何もないよ」Mは母親から目を逸らしながらそう口にする。
「何でもない事ないでしょ?何でこんな部屋で暮らしてるの?何かあったんでしょ?」
「何もないよ」
「何もないのに部屋をこんなにしてるの?」Mは必死に言い訳を考える。しかし、どんなに頭を巡らせてもこの異様な光景を説明できるような嘘は思い付けなかった。
「あなた、疲れておかしくなっちゃったんじゃないの?」母親がMの顔を覗き込む。
「はぁ?」Mは白けた顔を母親に向ける。
「病院へ行こう」母親のその言葉にMは苛立ちを覚える。
「何で」
「一度病院で見てもらいましょう」
「だから何で」Mが苛立ちの声を上げる。
「あなた疲れてるのよ。何、この部屋。おかしくなったとしか思えない」母親が部屋全体を見渡す。
「なってないよ」
「じゃあ理由を言って。何で部屋をこんなにしてるの?」
Mは言い訳を考える。しかし、こんな部屋の言い訳なんて、あるはずもない。
「今から病院へ行きましょ」母親がMの腕を掴む。Mはその手を振り払う。
「行かないよ。何で病院なんかいかなくちゃならないんだよ」
母親の心配そうな目がMを見つめている。Mは気まずそうに視線を下に向ける。本当の理由なんて言えるわけがない。それこそ病院へ連れて行かれるだけだ。だから一人がいいんだ。だから俺は家を出たんだ。その心配が邪魔なんだ。その心配が、いつも俺の邪魔をする。母親に心配されるたびに、いつも俺は何もできなくなってしまう。母親に心配されるたびに、いつも俺の心は重くなる。母親に心配されるたびに、いつも俺は我慢を強いられる。やりたい事なんて何もできなかった。やりたい事なんて何も主張できなかった。それが嫌で溜らなかった。邪魔なんだ。その心配が。
「帰ってくれないかな」俯きながらMが口を開く。「心配なんていらないから。俺は大丈夫だから、帰ってくれないかな」今度は母親の目を見つめてそう言い放つ。母親の目には涙が溜っている。
「帰ってくれ」母親の腕を取り、外へと促すM。母親は心配そうにMの顔を見つめている。
「心配いらないって」Mはそう口にしながら、母親を外へと誘導する。
「本当に大丈夫なの?何かあるなら言って。困った事があるならお母さんに言って」
「何もないよ」
「本当に?」
「本当に何もないって」
母親はしぶしぶ靴を履きながら、部屋の外へと押し出される。母親の心配そうな顔から目を逸らし、Mはドアを閉める。そしてそっと鍵をかけた。邪魔なんだ、その心配が、そう思いながら。しかし、後味の悪さが胸に広がる。




