表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/62

【闇医】

 入社初日、Mが任された初仕事は、ポスティング事業とやらのエリア分けだった。新規事業としてポスティング事業課を立ち上げるらしい事が、朝礼で社長の口から発表された。会社で発行しているフリーペーパーのタウン誌の配布エリアを、いくつかの小さなエリアに分け、自社で雇うポスティングスタッフのパートさんに、エリアごとに担当を決めて配ってもらう事が目的らしい。部長から指示を受け、地図を広げてエリアごとに線を引いて区切っていく。広過ぎず、狭過ぎず、各エリアに配布する部数に気を配り、ポスティングスタッフ一人一人の負担が大きくなり過ぎないように気を遣いながら範囲を決定していく。全体の配布エリアは広い。大きな地図を、小さな会議室の机の上に広げながら、ただ一人、黙々と作業を進めていた。会議室の入り口から中を覗き込み、Mの様子を窺う者はいても、Mに話しかけようとする者は一人もいない。Mは朝礼で入社の挨拶をした時の事を思い出していた。

 小さなオフィスの雰囲気は、とても明るいといえるものではなかった。もちろんそう感じたのは、オフィスの日当たりだとか、照明だとか、物理的な問題ではない。社員の雰囲気がそう感じさせたのだとMは思っている。今日入社したのは二人、Mともう一人、もうすぐ三十歳になるという男性の社員で、企画担当になるのだと自己紹介をしていた。自己紹介を受けての社員たちの反応は冷たいものだった。まるで邪魔者か異分子でも入り込んだかのような目付きで新入社員を眺めた。歓迎ムードとは懸け離れていた。誰もが冷めた目つきで新入社員を眺め、それは敵意すら感じさせるものだった。そしてもう一つMが感じたのは、得体の知れない気味の悪さだ。まるでみんな自分が入社する前から自分の事を知っているような、知った上でこんな奴は歓迎できないとでも思っているような、そんな雰囲気だ。

 Mは面接の時に、自分の作るホームページの事を社長に話した。ホームページを使い、色々な事を発信したいのだと、社長に話した。そこには、恐らく誰にも理解されないだろう世界平和への簡単な道筋と、自身の症状の事が書かれていた。人間不信、精神異常、社会不適合、孤独、社長はそれを社員にも見せたのかも知れない。望むところだ。それを読んだ上でのこの反応ならば仕方がない、そんな事を漠然と考えながら地図に線を走らせる。

 時折ボーっとする意識の中、この仕事には終わりがないように感じられた。自分の仕事が遅いのか、この仕事が、自分の思っている以上に大変なのか、Mには分からなかった。多分前者だろう。両方かも知れない。同じ作業を丸一日こなしていると、色んな感覚が分からなくなってくる。もう夜の八時を過ぎていた。まだ家に帰った社員は一人もいないようだ。そんな事を思った。

 オフィスは三部屋に分かれていた。一番大きな部屋と、通路を隔ててその向かい側に会議室、制作部屋が並んでいる。制作部屋はその名の通り、出版物の紙面を作成する制作課の人間が仕事をする部屋だ。それ以外の人間が、一番大きな部屋で仕事をこなし、会議室はどうやら会議をする時や、今Mが行っているような、何らかの作業をする時に使われるらしい。

 制作部屋の話し声は、会議室にも筒抜けだ。Mについての、遠慮のない話し声もMの耳に届いていた。気味が悪いとか、何であんなの雇ったんだ、という悪口や、あいつヤバイんじゃないの?とか、やる気あるのかな、という疑問の声や、いきなり大変な仕事を任されて可哀想とか、帰ってもいいよって言ってやらないといつ帰っていいのか分からないんじゃないの?という心配の声、じゃあお前が言ってやれよとか、話しかけてみれば?という言葉に対する、やだよ、お前が行けよ、という拒絶の言葉。Mは別に何とも思わなかった。そんな言葉に動きを示すような感情は、とっくの昔に失せていた。それよりも煙草が吸いたいな、そんな事を漠然と考えていた。昼間は一時間おきくらいに外にある喫煙所で煙草を吸った。その様子を見る社員たちの目が冷たかった。休憩の取り過ぎだと言われているような気もしたが、この単純作業をずっとこなすにあたって集中力を維持する為には、そのくらいの頻度で休憩を挟んだ方が効率が良いとMは思った。それでも集中力は途切れがちだった。そもそも自分は営業として雇われたにもかかわらず、なぜこんな事をやっているのか、状況がいまいち掴めなかったが、深く考える事もしなかった。腕時計を見た。ボーっと意識がトンで時間を読み取るまでに十秒ほど費やした。八時四十分か。と、視線を感じて入り口に目をやると、一人の男性がこちらを見ている。社員なら朝、顔を合わせているはずだが、思い出せない。

「どうですか、進んでます?」そう問いかけながら会議室へと入ってくる男性。まだ若い。自分と大して変わらないのではないかとMは思った。

「いや、まあ」と曖昧な返事をするM。その男性が地図に目を落とす。

「大変そうですね」と男性に言われ、

「まあ、そうですね」何を話せばいいのか分からないので、取り敢えず自分も地図に目を落とす。気まずい空気が流れる。そう感じたのはMだけだったかも知れない。

「精神異常って、本当ですか?」と、唐突に訊ねる男性。

「ああ、はい、本当です」やはりホームページを見られている、Mはそう思いながら返事をする。

「精神異常って、どんな症状なんですか?」

 少し考え、Mが答える。

「えーと、何をするにしても集中が途切れたり、時折意識がトンだり、常に体が怠いというか、重かったり、生活に現実味がなかったり、自分が分からなかったり、考えがまとまらなかったり、後は…」そこで言い淀むM。

「後は?」

「…精神が、分裂してます」目を伏せ、口を一文字に結びながら真面目腐った顔つきでMはキッパリそう言い切った。

「精神が分裂してる?」

「……」

 一拍間を置いて、首だけで頷くM。

「どういう事ですか?」男性が興味を持ったらしく深く訊ねてくる。

「えっと…、うまく説明できませんが、精神が時に子供だったり、やけに大人びていたり、残忍で卑猥だったり、親切で優しかったり、卑屈で横柄だったり、傲慢だったり、かと思えば素直で可愛らしい自分もいる。何かする時、いくつもの自分が顔を出します。自分の心を覗き込む時、色んな自分が同居しているんです」

「なるほど」と言ってMの顔を見つめる男性。Mは地図を見つめながらその視線を感じている。

「でもそれはみんな一緒だと思いますよ。色んな自分が同居している、誰だってそうです。それは病気ではありませんし、かつて言われていた精神分裂病という病気も、そもそもそういう事ではありませんからね。本当に精神が分裂している人なんて、いませんよ」優しい口調でそう語る男性。

 黙って男性の言葉に耳を傾けるM。しかしMはその言葉に納得してはいなかった。Mは自分を見失っていた。大人になる過程において、人格形成に失敗したのだとMは分析する。自分が分からない、だから他人と接する時、どういう態度で臨めばいいのかが分からないし、色んな自分が顔を出す。それは自然体ではあり得ない。それが本当に自分なのかも分からない。いつも不安と落ち着きのなさが同居し、苛立ちと不自然さが介在する。何気ない出来事で悲しみのどん底に突き落とされる事もあれば、残忍な気持ちに突き動かされ、暴力的な行為に及びそうになる事もある。それを、自分が演じているのではないかと感じる事もある。いつも違和感だけが心に残る。喜びや幸福に包まれた感覚など、既に忘却の彼方だった。

「よくそんな状態で働こうと思いましたね」という男性の言葉に、Mは一瞬、嫌味を言われるのかな?と思いつつ男性の顔に目を向ける。すると、

「病院には行きました?」と再び訊ねてくる。

「いや、行ってません」と答えるM。

「て事は自己診断?」と驚くでもなく、咎めるでもなく、三度訊ねてくる男性。

「はい」

「へぇ、凄いですね。自分で精神に異常をきたしていると思ったにもかかわらず、病院にも行かずに営業職に就こうなんて」と嫌味なのか何なのか、よく分からない誉め言葉を口にする男性。

「はあ」どう反応していいのか分からず、気のない返事をしてしまうM。

「営業がやりたいんですか?」と訊ねてくる男性。

「営業というか…営業は初めてなのでよく分からないですけど…でも…」またも言い淀むM。

「でも、やりたい事があるからこの会社に入ってきたんでしょ?」ガンガン質問を重ねてくる男性に戸惑いながらも、「はい、そうです」と、ハッキリと返事をするM。

「じゃあ、病院には行かなくて正解ですよ」と、男性がまたもやよく分からない事を口にする。

「そうなんですか?」とMが訊ね返す。

「はい。やりたい事があるなら、そんな状態の時に病院に行っちゃダメですよ」

「何でです?」

「医者に止められるからです。やりたい事があっても止められるから」

「マジですか?」驚きの声を上げるM。

「そうだね。それだけの自覚症状があったら、働きたいって言っても、まず働かせてもらえないでしょうね。もう少し症状が改善してからの方がいいって言われると思いますよ」

「マジですか?あぶねぇ。働きたいのに働かせてもらえないって…、でも何でです?」心底不思議そうな顔をしてMが疑問を口にする。

「それは、無理をして働いて失敗したらもっと症状が酷くなる、悪化すると考えられているからです。そしたら治すのにもっと長い時間が必要になる。だったら今はもっと慎重になって、より状態が良くなってから働くべきだ、その方がうまくいく確率は高い。そういう理屈です」

 少し考えを巡らし、納得いかないといった表情を浮かべるM。

「でもいずれは働くワケだから、本人がやる気になった時にやらせるのが一番だと思いますけどね。思い立ったが吉日。失敗なんか恐れてたら何もできない」

「そうなんですよ。せっかく本人がやる気になっているのに、理屈と心配が先に立ってやる気を削ぐのが精神科医です」と笑う男性。

「そうなんですね。じゃあ良かったです、病院なんか行かなくて。改善なんかしませんよ。俺、周りが思っている以上に重症ですから」真顔でそんな事を口にするMに、笑顔で忠告を口にする男性。

「自分でそういう事言わない方がいいですよ。怪しまれちゃうし、疑われちゃうから」

 Mの顔にも笑みがこぼれる。何だかいい人そうだ。

「でも事実ですから」

「私は凄いと思いますよ。Mの決断、行動」

 思ってもみなかった褒め言葉に、戸惑いを見せるM。

「そ、そうですか?」

「私は応援します。Mの事」

「あ、ありがとうございます」

「やりたい事があるなら、思い切ってやってみるべきです」

「そ、そうですよね」

「僕が精神科の先生ならこう言いますよ。やりたい事があるならやってみなさい。思う存分挑戦してみなさい。もし、ダメならいつだってここにきなさい。治療しましょう。また挑戦したくなるまで、何度だって治療して、何度だって挑戦しましょう」

 Mは男性を見つめた。

「じゃあ、頑張ってください」男性はそう言って出口へと向かう。その姿を目で追うM。男性は振り返る事もなく会議室を出ていった。

 その日、Mは結局終電間際まで仕事をした。最後まで残っていた何人かの社員と共に。帰るタイミングが分からなかったのだ。誰かに聞けば良かったのかも知れないが、Mはそれをしなかった。途中で帰っていった社員も何人かいたが、Mに帰るよう促してくれた社員は一人もいなかった。最後まで放ったらかしにされていた。でもMは、自分に話しかけてくれた男性と一緒にいる時、何だか心が安らいだような気がした。心の奥で、何かがキラリと蠢いたような気がした。温かい、何かが。それは不思議な感覚だった。自分の望んでいる言葉をかけてもらえたような、自分の感情をそっと撫でて、後押ししてくれたような、そんな感覚だった。そんな感覚を、僕は今まで味わった事があっただろうか、Mはそんな事を思った。実際の精神科医をMは知らない。でも実際の精神科医よりも、あの男性の方がよっぽど精神科医らしいのではないかとMは思った。なぜなら、こんな重症の自分の心に、安らぎをもたらしたのだから。それは経験上、とても難しい事であるような気がした。あの人は闇の名医、略して「闇医」だな、とMは勝手に名付けた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ