【監視されている】
どういう事?俺たちにケツを拭けって事?
仕方がないって何?何なの?あいつ今何歳?
いつからこうなったって、初めからだろ?
あいつに可能性なんかあんのかよ。
勘弁してくれよ。面倒見切れねぇよ。
会議室。地図を広げ、何やら悪戦苦闘しているMにヤッさんが声を掛ける。
「もう十時過ぎてるぜ。まだ仕事していくのかい?」
「うん、夜の内にやっておかないと、昼は営業回らなきゃならないからさ」地図に目を落としたまま、Mが答える。
「何やってんだ?」
「ポスティング事業の、エリア分けの修正」
「ポスティング事業?何で営業のお前がそんな事やってるんだよ」
「他にやる奴がいないからだよ」
Mの広げる地図に目を落とすヤッさん。
「終わりそうかい?」
「いや、終わる気がしない」
その言葉を聞き、鞄を下ろすヤッさん。コートを脱ぐ。
「手伝うよ」
「いや、いいよ。ヤッさんは帰りなよ。明日の仕事に響くよ。営業なんだからさ、疲れが顔に出たらヤバイよ。目の下に隈でもできたらどーすんだ」
「それはお前も同じ事だろ」
「俺はいいんだよ。誰からも期待されてないし」
「それは俺も一緒だがな」
地図上にペンで線を走らせていくM。制作部屋を覗き込みながらヤッさんが口を開く。
「制作の連中もまだ残ってる奴がいるな」
「うん、毎日深夜までいる人もいるよ」
「マジか?残業代も出ないのによくやるぜ。しかしどうなってるんだ?この会社は。八時には帰っちまう奴もいれば、終電がなくなるまで残っている奴もいれば、メチャクチャだな」
その言葉に顔を上げるM。
「この会社はね、気の弱い奴と人のいい奴はバカを見るんだ。仕事が回ってきたらハッキリと断らないと、どこまでも仕事を任されちまう」
「なるほど、弱みを見せたら付け込まれる、いいように利用されるってワケか。舐められたら終わりなのはヤクザの世界と変わらねぇな」
「どんな世界も一緒だよ、たぶん。悲しい事に」再び地図に目を落とすM。
「そんでポスティング事業とやらをお前が任されてるわけか」
「そんなところだね」
「お前も断った方がいいんじゃないのか?その仕事。お前の仕事量も相当なもんだ。一度怒った方がいいぜ。無理だっつって」
「俺に仕事を断るという選択肢はない」
「何で」
「仕事ってのは誰かがやらなければいけないものだ。誰もやらなかったら回らなくなっちまう。進まなくなっちまう。俺から言わせてもらえば、仕事を断る奴の気が知れないよ。無責任なんてもんじゃねぇ」
「まあ、それはそうかも知れないが。でもできもしねぇ量の仕事を任せるってのも、それはそれで無責任なんじゃないかと俺は思うが」
「その通り。この会社は無責任なんだ。みんな頑張ってるし、誰一人手を抜いてる人はいない。できる限りの範囲においてみんな真剣に仕事をこなしているよ。それでも仕事を回せない。全員カツカツだ。だから仕事の擦り付け合いが起きるし、他人の事なんてどうでもいいと思ってしまう。みんな自分を守るのに必死なんだ」
「誰かが倒れたらそれこそ仕事なんか回せないぞ。どうするつもりだ?」
「代わりなんていくらでもいると思ってるんじゃないか?」
溜息をつくヤッさん。
「嫌な考え方だな」
「だからぶっ倒れるまで俺は仕事をするつもりだ」
「ぶっ倒れるまで?バカなこと言うなよ」
「人が潰れるってのが会社にとってどういう事なのか、思い知らせてやるいいチャンスだ」
ヤッさんがさっきよりも大きな溜息をつく。
「そんな考えだからどんどん仕事を押し付けられるんだ。ハッキリ言って舐められてるぜ、お前」
「人を舐め腐る奴なんて、人としてたかが知れている。いちいち相手にするほどのもんじゃないさ」何でもない事のようにそう話すM。
「そうかい。ところでお前、時折仕事中にボーっとしてる事があるが、あれは一体どういうワケだい?社長や誰かが話をしている時に、まるで聞いてねぇ時がある。うわの空というか、まるで自分には関係ない、そんな態度に見えるぜ。心ここにあらずだ。そういう時は一体何を考えてるんだい?そういうところから信用というか何というか、人間性を疑われちまうんだ」
「ああ…、それはね…」中空に目をやり、考えを巡らせるM。「わざとじゃないし、何も考えてないよ」
「何も考えてない?」
「うん、あれはね、意識がトンでるんだ。思考がトンじまう」
「何だい?そりゃ」
「俺は精神やられてるからな。知らないのか?本当に精神病んでる奴なんてそんなもんだぜ。ボーっとなったり、集中が途切れたり。今だって、この仕事やりながら何度意識がトンだ事か」
「精神病んでるとか、精神異常とか、自分でそういう事言ってるから見下されたり、バカにされたりするんじゃねぇのか?」
「事実を言ってるだけだ。今の俺は追い込まれてるからな」
「追い込まれている?何にだよ」
「人だ、世間だ、世の中だ」
「世の中?」
「ああ。人を追い込むのはいつだって人だし、人を救うのも人だ。奴らの態度、言葉、扱い、視線、興味、敵意、悪意、偏見、エゴ、甘え、依存、無関心、そういうもの全てに俺は追い込まれている。見てくれ、この俺の無残な姿を。意識はトブ、集中力の欠片もねえ、動作は緩慢、笑顔はぎこちねぇし、言葉もうまく出てこねぇ、自分を失い、内心は見た目以上にズタズタだ。精神が破壊されてる。崩壊している。この世は地獄なんじゃないかと思うくらい、今の俺はどん底にいる。疲れ切っている。ダメージは相当なものだ。だから時々何も考えられなくなっちまう、思考がどこかへトンじまう。少しでも気を抜こうもんなら、無意識の内にだ」
「何がどうなってるのかは知らないが…、病院には行ったのか?」
「行ってない。行く必要はないからね」再び地図に目を落とすM。
「行く必要はないって、何でそう言い切れるんだ?一度専門家に診てもらった方がいいんじゃないのか?」
「行っても無駄ですよ」別の声が答える。声のした方向へと顔を向けるヤッさん。声の主は闇医だ。会議室へと入ってくる。
「病院に行ったところで、病名を下され、薬を処方されて終わりです。そしてMは一生病気と付き合って生きていく事になるでしょうね。重度の精神疾患は一生治らないとする専門家もいますから」と闇医が続ける。
「本当に精神異常なのか?と俺は聞いてるんだ」
そのヤッさんの問いに、Mが地図から顔を上げて答える。
「症状だけ見れば間違いないよ。意識がトブだけじゃない。精神をやられているだけじゃない。誰かに監視されているような気がする、プライバシーが覗かれているような気がする、外に漏れているような気がする、それを精神科医に話したら、間違いなく妄想性の精神異常だと診断される」
「誰かに監視されているような気がする?」眉を寄せ、怪訝そうな表情を浮かべるヤッさん。
「うん、初めは自分がおかしいのかと思った。でも、最近になって、周りがおかしい事に気付き始めた」とMが語る。
「周りがおかしい?」
「うん、この会社に入って、それは俺の妄想なんかじゃなく、実際に俺の身に起こっている事なんじゃないかと思うようになったんだ」真剣な表情でそう話すM。
「どういう事だ?」
「この会社に入る前から、俺は誰かに付け狙われてるような気がしていた。俺の行く先々で、誰かが俺を観ている、知らない人間が俺を知っている、有名人でもないのに、そういう感覚に陥っていたんだ。そんなはずはないと、自分に言い聞かせていたけどな。でもこの会社に入って分かった。俺のプライバシーは盗聴されている。俺は誰かに監視されている」
腕を組むヤッさん。Mの顔を見つめながら口を開く。
「それは気のせいなんじゃないのか?分かったって、何を根拠にそう思うんだ?」
「社長や、俺が入社してからのみんなの態度だ」
「社長やみんなの態度?」
「そう、俺がこの会社に採用された理由は何だと思う?」
「さあ、それは知らないが」
「ハングリーだからだ。社長がそう言っていたと、主任に言われたよ。初めて社長に会った時、つまり面接の時、社長は俺の事をそう評価し、判断を下した。俺も手応えはあった。社長の話に、真剣に耳を傾けていた時だ。社長が俺に喰い付く瞬間が分かった。面接が終わった時、俺は、ああ採用されたな、と確信した。社長は俺に対して、真剣に話をしてくれたし、俺も真剣に話を聞いた、お互い本気だった。社長にはそれが分かった。だから社長は俺を採用する事に決めたんだ」
「ほう」ヤッさんが感嘆の息を漏らす。
「でも二回目に会った時、つまりこの会社に入社した時、社長の態度に違和感を覚えた」
「違和感?」
「そう、社長の俺を見る目、空気というか、雰囲気というか、何とも言えないそういったものがおかしく感じられた。まるで子供でも相手にするかのような、どこか俺を下に見ているような、そんな態度が垣間見えた。対等であったはずなのに、まるでそんな気がしなかった。入社した時のみんなの態度だってそうだ。まるで余計な先入観とでも言おうか、いらない俺の情報が、事前にもたらされたかのように、最初からおかしな偏見の眼差しで見られていた」そこで一旦話を切るM。しばらく考えを巡らせるようにして声を漏らすヤッさん。
「それは、お前が自分のホームページで、自分の事を精神異常とか、世界平和がどうとか紹介したからなんじゃないのか?みんなに対して自ら偏見や先入観を植え付けてるようなもんだぜ」
「それはあるかも知れないと思って、俺もそれは考えたんだ。でも、それだけじゃない気がする。それ以外の何かを感じる…。うまく説明できないけど、俺が自分をそう紹介したのにはちゃんとワケがあるんだ。そこにはちゃんと、狙いがあるんだ」
「ほう。どんな狙いがあるんだ?」
「それは説明できない、というか、今の俺にはそれを説明する能力がない。今の俺の現状というか、力というか、とにかく今の俺では、それをうまく人に伝える事は難しい。語彙力なのか、表現力なのか、何かしらの経験が足りないのか、何が足りないのかすらよく分からないけど、とにかく、まずは知ってもらわなきゃ始まらないと思ったんだ。俺の事、というか、俺の内面、というよりも、人の内面だったり、それにまつわる色々な事…というか」
「ほう」
「だから、ある程度の予測はできるんだ。だって、自分でわざとそう仕向けてるわけだから。どの程度の偏見を喰らって、どの程度の扱いを受けるかなんて事はちゃんと予測した上でやっている。もちろんその予測が全て当たるなんて思ってないし、そんな事は不可能だなんて事もちゃんと分かってる。でも、それでもある程度の想定はできる。けど、俺のホームページを見ただけじゃ起こり得ないような違和感というか、ズレというか、そういうものを感じるんだ」
「…ふぅ~ん、…なるほど…。ふむ。という事は、どういう事だ?」
「事実、俺は誰かに付け狙われている。何かを使って俺を監視している奴らがいる。そしてそいつらが社長やみんなに、俺に対する別の先入観や偏見を植え付けたって事だ」きっぱりと断言するMの真剣な表情に、再び考えを巡らせるヤッさん。
「しかし、誰が何の為にそんな事をするんだ?」
「俺が聞きたいよ、そんな事。でも事実。この会社に入ってから、いや入る前から、おかしな事が多過ぎる」Mの口調は断定的だ。
「仮にそうだとしても、やっぱり一度医者に診てもらえ。精神をやられてるんだろ?だったら専門家に相談するのが一番なんじゃないのか?」
「無駄ですよ。さっきも言った通り、病名を下されて、薬を処方されるだけです」冷静な口調で割って入る闇医。
「闇医、お前は一体何者なんだ」ヤッさんが闇医の方へ身体を向ける。
「僕も昔精神を病んだ事があります。僕は鬱病でしたけどね」
「お前もかよ」
「今は社会全体が病んでいます。病んでいる人間はどこにでもいる。珍しい事じゃない」
「それはそうかも知れないが…。で、鬱病だったあんたが何でMの病院行きを止めるんだ?」
「僕の鬱病の原因は明らかでした。中学校時代のイジメです。同級生のイジメにより、僕は精神に異常をきたしました。明らかに様子のおかしい僕を病院に連れて行ってくれたのは両親です。精神科医は僕を鬱病と診断し、薬を処方しました」
「ほう。それで?」
「僕は自分がこうなった事の原因を話しました。精神科医は同情する素振りは見せたものの、僕の為にしてくれた事と言えば、話を聞き、薬を処方する事だけでした。病状が改善しないとみると、薬を増やしたり、新薬を試したりしました。でもそれだけです」
「それだけ、というのは?」
「言葉のまんまです。今の精神医療なんて、大抵そんなものです。原因が明らかに分かっていたとしても、根本的な解決など目指しません。話を聞いて、病名を下して、薬を処方する。それだけです。まるで薬を飲んで、その原因に対抗できるだけの精神力でも身に付けろ、薬の力を借りて、その原因に耐え得るだけの強さでも身に付けろ、と言わんばかりに。治るわけがない。カウンセリングなんていうのもありますが、多少は気持ちが和らぐかも知れない、楽になるかもしれない、でも、あれだって根本解決には程遠い。自分の心の整理、心の分析、根本原因を探るという目的でなら、役立つかも知れませんけどね」
「…今も、鬱病なのか?」
「今はもう治っていますよ。もちろんこの病気に完治なんてありませんし、一般的には寛解といいますが、僕はもう治っています。もし、僕がまた鬱を発症したとする、でもそれは同じ事が原因では有り得ません。それについてはもう、僕は乗り越えたのですから。だから、それは全く別の病気と言えるでしょう。僕はもう治っている。ただし、僕が治ったのは薬のお陰なんかでは断じてない。精神科医のお陰なんかでは断じてありません」
「何のお陰なんだ?」
「イジメがなくなった、それだけの話です。父親が、会社に転勤を申し出て、転校する事ができたのです。新しい学校の人たちは本当に親切でした。転校生の僕を心から歓迎してくれて、仲良く接してくれました。僕は徐々に明るさを取り戻し、いつしか学校が楽しくなりました。僕が元気になった事を、両親は心から喜んでくれました。もちろん、心の傷がすべて癒えたワケではありませんでしたが、それも含めて喜んでくれたと思いますし、僕を理解してくれたのだと思っています。そのお陰です。心を病む原因なんて、大抵の場合、周囲の人間たちの理解のなさです。少なくとも僕はそう思います。誰だって自分の気持ちを理解して欲しいと思いますし、大事にして欲しいと思うものです。理解のなさとは、無知や偏見からくるものがほとんどだと思います。そして無知や偏見のほとんどが、経験や想像力のなさからくるものだと僕は思っています。僕は周囲の人たちに理解されました。心の苦しみや、その原因を。その学校の友達も、僕が前の学校でイジメにあっていた事を知っていて優しくしてくれたんです。みんな僕の気持ちを考えて、理解してくれたんだと思います。その上で接してくれた。だから僕は治った。少なくとも、薬なんか飲まなくても日常生活に何ら支障のないくらい、穏やかな精神状態を手に入れる事ができたのです」
「つまり、精神病院なんかに行っても、何の解決にもならないって事か」
「その通りです。今の精神医療なんてものは、研究と蓄積された知識の産物です。心の病気なのに、心の中を診ようとはしません。薬で脳を操作しようとさえしている。脳の物質がどうだとか、成分の分泌がおかしいとか。まるでお前の脳ミソがおかしいのだと、周りの態度や扱いではなく、お前の頭がおかしいのだと言われているような気分でしたよ」悔し気な表情を見せる闇医。
「生まれつき脳に異変がある人間もいると聞いた事があるがな。それ故病んでると」とヤッさんが口にする。
「それは脳の病気であって心の病気ではない。先天的な脳の障害と後天的な精神の障害とは一線を画すべきだと僕は思っています」
「そうか」
「理屈で病気を理解して、患者を理解しているつもりになっている精神科医も多い。理屈で人の気持ちは測れません。お勉強ばかりして、知識を詰め込んだだけの人間に、人の内面を診るなんて事は不可能です。もし僕の頭がおかしいというのなら、そんな真似を繰り返し受け続けた事によって起きた体の現象でしょうね。そんな扱いを受けて、おかしくならない人間の方がおかしい。原因と結果がバラバラだ。やってる事がメチャクチャ過ぎて、そんな仕事なら、ハッキリ言って知識さえあれば誰にだってできますよ。心の治療というには程遠い、僕はそう思っています」
「手厳しいな」
「まったく闇医の言う通りだぜ。このままいくと、世の中精神病患者は増える一方、減るなんて事はまず考えられねぇ。人が病もうが苦しもうが誰も何も解決なんかしちゃくれないからな。理解すらしようとしねぇ。人の気持ちも考えない、自覚のねぇイカれた連中のクソ行為と、それのお陰で精神がイカれちまう哀れな人間たちとでこの世は溢れかえる。まるで合わせ鏡だ。危機感しか覚えねぇよ、俺はな」Mが目をギラつかせながらそう言い放つ。
「じゃあ、つまり、その誰だか分からない連中がお前への監視行為をやめない限り、お前の病気は治らないって事か?」Mの方へ向き直るヤッさん。
「その通り。まあ俺が病んでいる原因はそれだけじゃないけどね。でも、この行為が更に俺を追い込んでいるって事だけは確かだ」
「そうか…」俄には信じられないといった表情のヤッさん。悔しさ、怒り、歯痒さ、やるせなさ、様々な感情の入り混じった表情で地図を見下ろしながら、仕事を再開するM。




