【鏡】
朝、Mはカサカサという音で目を覚ました。目を開けた瞬間、目の前の壁をゴキブリが這っていく。ぎょっとして飛び起き、炬燵の上の殺虫スプレー缶を手に取った時、足下で何かが蠢くのが見えた。ムカデだ!とっさに飛び退き、ムカデにスプレーを吹き掛けるM。次の瞬間、ムカデがもんどり打ってのたうち回り、荒波のように身体をうねらせながら飛び跳ねるようにして苦しみ始める。その苦しみ方に驚愕し、目を見開いてその様を見やるM。自分が何かやってはいけない事をしてしまったような、取り返しの付かない事をしてしまったような、そんな感覚を覚える。ムカデの苦しみ方に、自分の苦しみを投影させたのかも知れない。そんな苦しみを与えてしまった自分を嫌悪したのかも知れない。罪悪感が芽生えたのかも知れない。一気に目が覚めてしまった。ムカデはまだもんどり打って苦しんでいる。その様子から目を背けるようにして洗面所に向かい、鏡の中の自分を眺めるM。老けたな、とても二十六歳の若者には見えない。三十代と言われても四十代と言われてもおかしくないほど老け込んだ自分の顔がそこに映っていた。疲れた顔だ。完全に疲れている人間の顔だ。それも仕事やプライベートでちょっと疲れた人間の顔じゃない。人生そのものに疲れている人間の顔だ。暗さが滲み出ている。最近笑ったのはいつだろう、そんな事を考えながら笑顔を作ってみる。不自然な笑顔だった。自分の笑顔のぎこちなさに、人生が投影されているようで、鏡の中の自分を睨み付ける。こっちの顔の方が自然な気がした。違和感がない。怒ったり、ふて腐れたり、そういう顔の方がシックリくる。そんな顔なら何度もしてきた。そんな事を考えながら、しばらく笑顔の練習をした。口角を上げて、目尻を下げる。シワが気になる、不自然な笑顔だった。どのくらいそんな事を繰り返したろう。洗面所を出ると、ムカデは既に息絶えていた。苦しみは去ったようだ。それにホッとしたMは、炬燵に入るとスイッチの入っていないテレビに目を向ける。暗いブラウン管に老けた男の顔が映っている。笑ってみたが、笑顔には程遠い顔が映るだけだった。会社に行くにはまだ早い時間だったが、他にやる事がないのでMはスーツに着替え始めた。
昼休みになるとMは会議室を覗いた。会議室には誰もいなかった。それを確認してから足を踏み入れると、朝コンビニで買ったパスタをテーブルに置く。みんなは昼休みだというのにまだ仕事に追われているようだ。Mだっていつも時間通り昼休みが取れるとは限らない。今日はたまたまだ。この会社はとにかくやる事が多い。仕事量が半端ない。今日は運が良かった。というよりタイミングが良かっただけの話だ。そんな事を思いながらパスタを口に運ぶ。すると、外出から帰ってきた編集長と、Mと同期の企画課の新人の社員が弁当をぶら下げて会議室に入ってくる。
「お、Mッチー、一人でご飯かよ」と声をかけ、同期社員が向かいの席に座る。
「コンビニで買ってきたの?」とMの隣に腰掛けながら編集長がパスタに目を向ける。
「まあ…」Mはどちらにともなく答えながら、パスタをすする。
「Mッチーいつもコンビニだもんな」と同期社員。
「そうなの?お弁当作ってくれる彼女とかいないの?」と編集長。
「いないでしょ、Mッチーには」と、同期社員がすかさず声を張り上げる。
「今度作ってきてあげようか?」と本気なのかどうなのか分からない事を編集長が口にする。
「いや、大丈夫です」Mはキッパリと遠慮した。何だかめんどくさいからだ。
「家でもろくな物食べてないんじゃないの?」と編集長が心配を口にする。Mは無言でパスタをすする。
「そのパスタ、冷たいだろ」と同期社員がMのパスタを覗き込む。
「あら、ホントだ。温めてこなかったの?この会社レンジないからね」と編集長もMのすするパサパサのパスタを眺める。
「朝買ってきたので」と答えながら、Mは居心地の悪さを感じていた。誰かと一緒にご飯を食べるなんて、いつ以来だろう。「レンジとかめんどくさいですし」とMがボソボソと答えながら顔を上げると、制作課の女の子が弁当箱を片手に会議室を覗いていた。Mと目が合う。すると、「あ、私も一緒に食べようかな」と言って会議室へと入ってくる。
「きなよ」すかさずMの同期社員が手招きする。Mは早くこの場を立ち去りたかった。だから必死にパスタをすすった。Mの同期社員の隣に座ると、制作課の女の子が弁当を広げながらMに笑顔を向ける。
「Mさんと話すの、初めてですね」
自然な笑顔だ。その笑顔が眩しかった。Mはパスタを胸に詰まらせながら、「そ、そうですね」とだけ答えた。
「あら、そうなんだ」と編集長がMと制作課の女の子の顔を交互に眺めながら弁当箱の中の唐揚げを口に頬張る。Mは既にパスタを平らげていた、が、立ち去る雰囲気ではなくなってしまった。
「Mさんて、普段家で何してるんですか?」と制作課の女の子が訊ねる。同期社員と編集長もMの顔に目を向ける。
「いや…、特に何もしてません」とM。
「何もしてないって何だよ。何かはするだろ」と同期社員がツッコミを入れる。
「洗濯したり、買い物したり」とMが思い出しながらボソボソと言葉にすると、
「Mさん、家で鏡とか眺めてそう」と制作課の女の子が無邪気な顔で口にする。
「は?」とM。
「鏡眺めてそう、て何?」と編集長が笑う。
「ナルシストって事?」と同期社員が茶々を入れる。
「いや、そういうワケじゃないけど、何か鏡とか眺めてそうなイメージ」と悪意のなさそうな笑顔を浮かべながら制作課の女の子が話を続ける。
「確かに、眺めてそうだな」と同期社員が同意する。
「眺めてるの?」と編集長がMに訊ねる。
「鏡ないです、うち」とMは嘘をつく。
「うそぉ、絶対あるよ」と制作課の女の子は断言する。Mは薄気味の悪さを感じていた。この子は、俺が家で鏡を眺めている事を知っているのか?そんな疑問が頭に浮かぶ。なぜなら、話に脈絡がなさ過ぎる。脈絡があるとすれば、自分が毎日鏡を眺めているのを知っていて、ワザとその話を持ち出したようにしか考えられない。
「鏡くらいあるだろ」と同期社員がMに話を向ける。
「うちにはないです」と言いながらMは席を立つ。「仕事に戻ります」
「あら、もう少しゆっくりすればいいじゃない」と編集長が声を掛ける。Mは誰にともなく頭を下げて出口へと向かう。
「もう行っちゃうの?」と制作課の女の子が残念そうに口にするが、「すみません」と言ってMは歩き去った。鏡はある。そして最近、毎日のように鏡を眺めていた。別に自分がナルシストだとは思わない。自分の顔に興味があるわけでもない。ただ自分の表情が気になるだけだ。だから鏡を見る。笑顔も作る。でも、その事実を認めるのがなぜだか躊躇われて、Mは嘘をついた。薄気味の悪さを感じながら。




