チャンスは生かしてこそ役に立つ
「婚約が破棄されたので家宝の壺を割ってみました」とは別の国、別のお話になります。
また、「婚約破棄された令嬢が「私は、お飾り妻ですよね?」と言ったら、恐ろしい笑顔の新しい婚約者に100キロの純金ドレスをプレゼントされてしまいました」のヒロインであるコリーヌと同じ名前ですが、別のお話です。
ややこしくて申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。
前世は犬でした。
名前は、イヌリーヌ。
雑なのか可憐なのか不明な名前でしたけど、かわいがって貰っていたことは確かです。
だって仔犬の頃は自分の名前を『可愛い』もしくは『大好き』と思っていたからです。
飼い主が、私を『イヌリーヌ』と呼ぶよりも多く『可愛い』と『大好き』を連呼していたからです。さぞや愛らしい容貌の仔犬だった、というのは大間違いでブサイクを極めた仔犬でした。
しかし前世では、ブサカワという大ジャンルが大手をふっていたので問題はありませんでした。
前世の私には友達もおりました。ほっぺの丸が可愛い雀が遊びに毎日きてくれていました。たぶん、私のオヤツのプレーン高級食パンを狙って。お裾分けはやぶさかではありませんでしたから仲良く食べました。犬の私を恐れない図太い雀でしたので親友になったのです。
昼寝する私の頭の上で雀がちょこりと座っていますと、飼い主が「可愛さ無限大!」と超絶美形なのに豪華な美の崩壊という感じで蕩けた表情になって狂喜乱舞しておりました。飼い主は女性よりも美形でしたので、それで色々なトラブルが絶えずに完全無欠の女性嫌いとなって独身でした。なので犬は私だけですけど、私を含めて猫と兎とフェレットとオオトカゲと蛇とオウムとフクロウと亀の仲間たちに飼い主は重い愛情を注いでくれていたのです。
飼い主は超絶美形で。
私は超絶ブサイクで。
太陽と冥王星くらいの容姿の隔たりがありましたが、人間と犬でしたので問題はありませんでした。
前世の思い出はつきませんが。
今世でコリーヌと名付けられた時に、ちょっと前世の祟りと思ったことは許してほしいです。
今世はブサイクジャンルは存在しませんから心配をしましたが(前世の飼い主は主観一択の美的センスでしたので)、それに比べると今世は千倍は可愛くなっており大満足をしています。
可もなく不可もなしの標準的な可愛さレベルですが、鏡と和解できる容貌なので満足と言ったら満足なのです。だって通行人がわざわざ振り返って二度見しない顔なのですから。三度見、四度見、五度見くらいは普通でしたから。犬だったのでブサカワとチヤホヤされていましたが、人間でしたら人類の最低基準レベルに達していませんでした。
人間は人間にシビアである、と転生して経験する事が多々あったのです。涙の人生ダイジェストにできるくらいに。おかげでダイヤモンドのようにメンタルが磨かれて強くなりました。犬から人間への転生は人体バグみたいにハードでキツイのです。
人間になって世の中の辛さが身にしみますが、後悔はしていません。
前世の最期は痛くて苦しくて、でも痛くても苦しくても飼い主の笑顔を忘れたくありませんでした。
だって私は飼い主が留守の間に旅立ちましたから。
飼い主の泣き顔を見たくなくて、笑顔の飼い主を最後の記憶にしたくて隠れて眠ることを選んだ自分勝手な犬でした。絶対に飼い主が「ひとりにしてごめんよ」と泣くことを知っていたのに。
許してください、飼い主。
でもね、でもね、私が最後に胸に刻むのは飼い主の笑顔がよかったのです。
だから天国へ行くよりも飼い主の記憶を失いたくなくて。本当は全てを忘却しなければならないのだよ、と優しい声が天から聴こえたけれども頑固に耳を貸しませんでした。痛みも苦しみも消えるよ、と天の声は慈悲深く言ってくれましたが、私は首を振って拒否しました。人間ならば許可できないけれども犬は忠誠を誓うから……次はこちらが記憶を強制的に消去できるように……、と最後は溜め息まじりに天の声は消えました。
痛くても飼い主の撫で撫でを。
苦しくても飼い主の温もりを。
辛くても飼い主の思い出を消したくなくて、身体がバラバラになりそうな苦痛を耐えて飼い主の記憶を抱きしめたまま今世に生まれてきたのです。
前世では飼い主が大好きでした。
今世もまだ飼い主が大好きです。
さようならをしたのに、とても恋しいのです。ぴすぴす泣いてしまいそうです。
飼い主。
飼い主。
イヌリーヌが何処にいても探してくれたではないですか。私を見つけてください。また撫で撫でしてくださいです。寂しいです……。
でも、まさか人間に転生するとは思ってもいなかったのですけれども。
しかも貴族の令嬢だなんて、びっくりです。
貴族としては最下層の男爵家ですが人間はつくづく大変です。
日常においてもお昼寝がしたいのに、勉強とか社交とか婚約者とか色々色々色々色々色々あるのです。
世界が優しい顔になって『そっとしておこう』(注意・サワルナキケン)でもいいので、お昼寝三昧をしたいのですが、人生には高い山と深い谷とだだっ広い原っぱの3点セットの地獄鍋があって難しいのです……。
むむむ、と閉じられた円周で思考するようにグルグルと悩んだ私はピンと閃きました。
家宝の壺を割ってしまえば、部屋に閉じ込められてお昼寝三昧できるのでは? と。
普通の貴族の家ならば永眠となる可能性もありますが、我が家は普通ではないですし。前世でも飼い主のン百万のお皿とン千万の壺を割っても超絶美形にご褒美のごとくメッされて部屋に入れられるだけでしたし。無造作に飾っていた僕が悪かったと言う飼い主は、とろんとろんの甘々の見本のようでした。
しかも今世の屋敷には家宝の壺がたくさんあるのです。
そも家宝とは、家に伝わる宝のこと。
我が家の家宝は、実は曽祖父が趣味で作った壺なのです。その数、百個。『有効に使え』との曽祖父の遺言に従って〈形見〉というピカピカの金箔のついた家宝の壺となり、祖父や父がここぞという場面で利用しています。
先日は美人のお姉様が。
高位貴族のご令息様を屋敷にお招きして、躓いてよろけたフリをしてご令息様に受けとめてもらって。で、ご令息様の後方には台にのった家宝の壺がありまして。
ガチャン!
「あぁ! 家宝の壺が!」
と、お姉様の悲痛な声が響きました。
腕が家宝の壺にあたったご令息様は狼狽して、真っ青です。なにしろ家宝の壺は貴族にとって上位ランキングのパワーワードです。血の気が引きます。
「あたくしがよろめいたせいで……。申し訳ありません。あたくしが悪いのです。父にはあたくしが謝罪いたします……」
ほろほろと砂糖が水にとけるように儚く甘く泣くお姉様。美人なので淡い絵のように美しいです。
ポイントはご令息様を責めないことです。あくまで自分の非とすることが重要なのです。
すると、
「いや、責任は僕にある」
と、ご令息様がお姉様を庇ってくれます。ココ大事です。お姉様がやんわりとお断りをしているのに、恥ずかしがって奥ゆかしいと求婚してくるご令息様ですが貴族の常識はあるらしいので。
「いいえ。あたくしのせいです。大丈夫ですわ、曽祖父の形見の大事な壺ですが、形見はまだあります(決して百個あると言ってはいけません。後々のために複数あることを匂わす程度の絶妙な匙加減で)。かけがえのない形見の家宝(さり気なくココは強く主張です)ですが、父も許してくれるはずです…………」
さらに涙をか弱く流すお姉様。演技派です。脆い風情が素晴らしく、悲痛感たっぷりです。やっぱり美人は名画になります。
結果として。
顔合わせを数回しただけで、ご令息様とお姉様との上位貴族の圧力による縁談は消滅しました。
「「この縁談はなかったことに〜」」
と痙攣するような乾いた笑みを浮かべた両家は、家宝の壺が割れた件についての理非を問わないことを前提にして婚約の不成立を決めたのでした。
そしてお姉様は家宝の壺を壊した咎により、お父様の命令で平民の商人(お姉様の恋人)と結婚をしました。
ご令息様の自惚れが強く他者を軽んじる性格を嫌っていたので、お姉様の作戦勝ちなのです。
というのを、大きな装飾壺に入って見ていました。ちなみに壺に少女の生首が生けられているみたいに見えるそうで、心臓が止まると家族からは酷く酷評されています。私は16歳ですけれども標準よりも小さく細いので、訓練で上達した素早さと気配隠しを上手く利用しているのです。幼い頃は前世がぼんやりとしていたので、朧げに印象にあったニンジャを目指したのです。
周囲は変わった子どもと思っていたらしいのですが、末っ子だったので家族からの許容範囲が広くノビノビと自由でした。
ちなみに聴覚と嗅覚も鋭いのでバッチリ隠密活動向きなのです。ニンジャもいいけどスパイもね、とお正月になるとテレビで言っていましたし(うむむ? ちょっと違うような?)。
このように、下位貴族には下位貴族なりの知恵と処世術があるのです。
次は私が! といそいそと新しく飾られた家宝の壺に近づきましたが、父のラヴァント男爵に襟首を摑まれて阻止されてしまいました。前世は犬なのにニャーンと鳴いてしまいそうです。
「バカ者! 昼寝のために家宝の壺を割ろうとするな! 今夜のパーティーに出席したくないから部屋での謹慎を狙ったのだろうがダメだ! 婚約者と出席しろ!」
「だってお父様。婚約者のレイモンド様は浮気相手の令嬢をエスコートしますもの。私いつも壁の花になって、つまらないのです。かわいそうに、と言う面白半分に囁く外野の囁きも面倒ですし」
「わかっている。だが、それも今夜までだ。どうやらレイモンドはパーティーで婚約破棄を宣言する、との情報がある。公の場で婚約破棄をして、コリーヌに対して優越感を誇って俺様カッコイイと酔いたいらしい。短慮で虚栄心の強いレイモンドらしい愚かな行動だよ。婚約は契約だ。契約の違約金をたっぷりと毟り取ってやろうな」
父が悪い顔をしてクックッと喉で嗤います。
「レイモンド様が婚約破棄を!? 今夜? ではパーティーに出ます! ぜひとも出席しなければ!」
ウキウキと顔を輝かせます。婚約破棄です、大興奮です。チャンスなのです。前世のアニメで流行っていた婚約破棄を自分も体験できるのだとテンションが爆上がりとなりました。
頬を紅潮させて喜ぶ私を見て、父が眉を下げました。どうやら父は喜ぶ私の姿に、婚約が私に苦痛を与えていたのだと解釈したようでした。確かに婚約は嫌でしたので正解なのです。が、私は婚約破棄体験が楽しみなのです。不謹慎なので口にはしませんでしたけど。
「悪かったね、コリーヌ。家柄や年齢など総合的に釣り合う相手だったからレイモンドと婚約を結んだが。まさか婚約して半年で堂々と浮気をする男だったとは。通り一遍ではなく、もっと詳しくレイモンドの性格や周辺を婚約前に調べるべきだった。浅はかな面はあるが、若さ故の未熟さと大目に見るべきではなかった」
慈しみをこめて髪の毛を撫で撫でしてくれる父の手にグリグリと頭を押しつけます。くぅんと甘えます。
父は前世の親友の雀ちゃんなのです。
なので父は無意識に私に甘いのです。
父は前世を覚えていませんけれども、私は覚えています。父は雀ちゃんと同じ匂いがするのです。ふんわり羽毛の名残りのふわふわの茶色い髪の毛は父から私に遺伝して、とっても私の自慢なのです。
「ふふ、コリーヌは可愛いね。本当にすまなかった。大丈夫だよ、家宝の壺を割らなくても婚約は破棄するからね」
そして、王宮勤めのお父様の上司である筆頭侯爵家での夜会にて。
レイモンド様は恋人をエスコートしていますので、父にエスコートをしてもらって出席しました。
「コリーヌ。わたしは挨拶回りに行ってくるよ」
と言う父の口角はほんのわずかに上がっています。なるほど。人波に隠れてレイモンド様の行動を窺うつもりなのですね。
父が離れると、すぐにレイモンド様が恋人とともにやって来ました。レイモンド様も父と私が別行動をする機会を待っていたみたいです。
「コリーヌ! 俺はおまえとの婚約を破棄する! 真実の愛を見つけたのだ!」
と、私に指を突きつけて胸をそらすレイモンド様。
私は感動で両手を胸の前に組んで震える声で言いました。
「レイモンド様……。今おっしゃったのは……」
「煩わしいな! 俺に縋りつくつもりか! おまえとは婚約を破棄すると言ったのだ! 俺は愛しいユリリアとの真実の愛を貫くのだ!!」
レイモンド様が恋人のユリリア嬢の肩を抱いて引き寄せました。ユリリア嬢が勝ち誇った顔をしています。
レイモンド様は自身の美貌が自慢なので、平々凡々な容貌の私が婚約者であることが不満でした。常々自分に相応しいのは美しい恋人である、とおっしゃっていました。でもユリリア嬢は没落寸前の借金まみれな男爵家の令嬢。負債物件確実な令嬢との結婚をレイモンド様の父親は許しませんでした。
なので素晴らしい蛮勇です。
家の許可のない婚約破棄。しかも真実の愛付きです。これぞ婚約破棄の愚かなパターンの鉄板的状況なのです。
これは人生最大のチャンスなのです。婚約破棄なんて幾度も経験できないのですから。
「レイモンド様、残念です。せっかくの美しいお顔が役に立っておりません。もっとレイモンド様の美貌が映えるようにカッコよく婚約破棄をしてくださいませ」
褒めているのか貶しているのか不明な私の注文にレイモンド様がまごつきます。
「は? 何を言って……」
突発的な不測に弱いレイモンド様なので、私は強引に押せ押せをします。ニンジャは相手の心理を突き、おだてて隙を狙う謀術が得意とテレビで習いました。私もニンジャの練習をしたのでレイモンド様の弱い部分につけ込んでガンガン行くのです。
「レイモンド様は美しいのです。神様から賜った美貌を無駄にすることは罪です。なのでもっとカッコよく婚約破棄宣言をなさってください!」
「え? カッコよく?」
「そうです! カッコよくです!」
両手を握りしめて迫る私にレイモンド様が戸惑いつつポーズをとってくれました。自己顕示欲が強いレイモンド様は、私のお世辞と押せ押せにうっかりと流される方向へと進んでます。私の内心は猿ではないですけどウッキッキなのです。
「こ、こうか?」
「素敵です、レイモンド様。ではそのポーズで婚約破棄宣言をなさってくださいませ!」
「ヨーイ! スタート!」
パチンと私は手を叩きます。気分はニンジャ兼映画監督です。前世は犬にしては賢いテレビっ子だったのです。
「コリーヌ! 俺は真実の愛を見つけた! おまえとは婚約破棄をする!」
キメポーズで宣言するレイモンド様。指先まで整っています。
「さすがです、レイモンド様! 直視できないほど(バカすぎて)カッコいいです」
絶賛する私にレイモンド様は得意満面のドヤ顔です。盛大に褒め称えながらすかさず私はヨイショしました。
「もっともっと美しいレイモンド様のカッコイイところを見たいです! 次は別のポーズで!」
「しかたないな。俺は美しいからな!」
ファサ〜、とレイモンド様は指で前髪をなびかせました。
私におだてられて、次々とポーズを決めて婚約破棄宣言をするレイモンド様。もともと俺様カッコイイを前面に出す性格のレイモンド様なので、軽率な面があるのです。
当然、周囲から注目の的です。
「……なんですの? 劇ですか?」
「……どうやら婚約破棄らしいのですが」
「……えええ? 俳優のようにポーズをつけていますけど、本気の婚約破棄なのでしょうか?」
ヒソヒソとひそめる周囲の声も、ポーズに熱中するレイモンド様には届いていないようです。
なので私はおべっかの拍手喝采をして、
「レイモンド様の美しい歌が聞きたいです」
と矢継ぎ早にリクエストしました。レイモンド様が正気に戻れば、この楽しい時間はおしまいです。
「よし。俺の美声を披露してやろう」
すでに自己陶酔の域に達しているレイモンド様はイケイケで歌ってくれます。ユリリア嬢は逃げたそうに身をひねっているのですが、レイモンド様がガッチリと抱き寄せているので逃亡できません。周囲の目を気にして、ユリリア嬢は抗議の声を小さくしているのでレイモンド様の耳には届いていません。ノリノリで高揚中のレイモンド様は外界をシャットアウトしている状態です。
「ラララ〜。コリーヌ〜、婚約破棄だ〜。俺は〜、真実の愛を〜、ユリリアと歌うのさ〜。ラ〜ラ〜ラ〜」
「素晴らしいです、レイモンド様! 次は華麗に踊ってくださいませ! 歌って踊るのは難しいですか?」
熱烈に拍手する私に、レイモンド様は胸を張って言いました。
「難しいだと!? 俺にできないことはない! さぁ、ユリリア踊るぞ!」
くるくるくる〜と回転して、レイモンド様がユリリア嬢を引きずるようにして踊ります。ユリリア嬢は絶望的な顔をしています。恍惚感マックスのレイモンド様はユリリア嬢の表情を見ていません。
「ラ〜ラ〜ラ〜」
くるくるくる〜。ユリリア嬢は死んだ魚のような目をしています。
「俺は〜、婚約破棄を〜、する〜。ラララ〜」
くるくるくる〜。貴族たちの好奇心の溢れる眼差しには薄っすらと侮蔑の色が宿っていました。
「ユリリアと〜、真実の愛を〜」
ドッカーン!!
レイモンド様の父親のカファス男爵が飛び蹴りをレイモンド様に浴びせました。
くるくるくる〜とパトランプのように宙を舞ってレイモンド様が吹っ飛びます。衝撃でユリリア嬢はペタンコお座りをしていました。
「家の恥め! わたしが成敗してくれるっ!!」
カファス男爵が激昂しています。カンカンカンとゴングの幻聴が聴こえるようです。カファス男爵はフーッフーッと息が荒く、髪の毛が逆立つみたいに怒りすぎて湯気の幻覚も見えるみたいです。
ですよね。
わかります、怒ってしまいますよね。
レイモンド様は【歌って踊れる婚約破棄男】として明日から社交界でとびきりの有名人になると思います。カファス家の体面は泥塗れです。カファス男爵家も、明日からプークスクスと後ろ指で密やかに嘲笑されることは間違いなしです。
だって。
レイモンド様が【歌って踊れる婚約破棄男】と愚弄されると、【婚約破棄バツイチ令嬢】のラヴァント男爵家と見下されるよりもカファス男爵家がレイモンド様の愚行で目立つのです。
噂話には、より刺激的な醜聞を被せてしまえば人々の目はそちらに向いてしまいます。
貴族社会は、男性の浮気による婚約破棄でも女性側が貶められてしまうのです。ましてや公開処刑のごとく人前で婚約破棄された令嬢なんてお先まっ暗なのです。
私とラヴァント男爵家の身代わりとなり、潔く社交界でのスケープゴートとなってくださいね。レイモンド様も、カファス男爵家も。
ドガドガドガッと。
カファス男爵だけではなく、レイモンド様の兄弟、カファス男爵家の親族たちが集団で取り囲んでレイモンド様を乱暴に連行してゆきます。カファス男爵家の皆様はお花畑脳の群生地ではなかったみたいです。皆様、目尻も眉尻も鬼のように吊り上がっています。
ユリリア嬢は忽然と消えていました。素早く家族に回収されたみたいです。
私もサササッと壁側に撤収しました。巻き添えは嫌なのです。
レイモンド様、成仏してくださいませ。
くれぐれも私をもう巻き込まないでください。公の場所で婚約を破棄しようとすることが悪いのです。恨むとしたら、肥大した自尊心と薔薇色の雲がぷかぷか浮いているかのような自分の思考回路を恨んでください。
チャンスは生かしてこそ役に立つのです。
もしも婚約破棄をする場合は、お互いのために場所も時も内容も根回しも大事にしなければいけないのですよ。
南無南無。
私が手をあわせてレイモンド様たちを見送っていると、
「コリーヌ、大変な目にあったね」
と父が心配そうに近づいて来ました。心配そうな表情で顔を取り繕っていますけど、父の口元は大笑いを堪えて苦しげにピクピクしています。
父の後ろには超絶美形の貴公子様が。
まるで前世の飼い主のような眩しい貴公子様です。
「コリーヌ、こちらは侯爵家のルドルフォ様だ。ご挨拶をしなさい」
と、父が紹介してくれました。
パーティーの最初にジョージリア侯爵ご夫妻にご挨拶しました。たまたま近くにいたご子息にも挨拶を、と父は紹介してくれたのでしょう。
私は目を見開きました。
泡沫のように、胸の奥底で眠っていた永遠の夢が蘇ります。
くん、と小さく鼻を鳴らしました。
…………?
ルドルフォ様から香りが……?
透明感のある爽やかなハーブの香りがします。
春を告げるように草木が芽吹くような。
前世に飼い主と散歩した、幾億の星に向かって幾億のハーブが伸びる夜の清涼な空気のような。
感覚と記憶に訴える懐かしい香りが、ルドルフォ様からするのです。
この香りは。
飼い主と、同じ、です。
まさか本当の本当に飼い主?
どうしよう……。
どうしよう……。
どうしたら……。
会いたかったけど。
会いたかったけど。
ルドルフォ様は筆頭侯爵家、私は男爵家の末っ子、身分差は断崖絶壁です。たとえるならばルドルフォ様は空高く飛ぶ大鳥で、私は地面のどんぐりを拾う栗鼠です。階級差は天と地です。
レイモンド様との婚約破棄ではアゲアゲだったテンションが急速に萎みます。
筆頭侯爵様のご子息様に対して無作法な振る舞いはできません。
私はゆっくりと礼をとりました。乱れた心を隠すように深く頭を下げます。天井の煌めくシャンデリアの光が、垂れた頭の影を床に落として揺れました。
自分の影を見て、私は少し冷静になれました。
これが現実。
これが今世。
私はルドルフォ様の前で頭を垂れる存在でしかないのです。
「ルドルフォ・ジョージリアだ。ラヴァント男爵家の令嬢に会えたことを嬉しく思う。今宵は当家のパーティーを楽しんでいってくれ」
定型文のような言葉をルドルフォ様が言います。社交的な仮面のような笑顔は綺麗ですが感情が宿っていません。声には温度もなく、ただの形式的な言葉なのだと身に沁み込みました。
それだけで理解してしまいました。
飼い主は父同様に前世を覚えていないことを。
「……ありがとうございます。コリーヌ・ラヴァントでございます。お目にかかれて光栄に存じます」
きちんと返事をしなければいけないのですけど、そう答えるだけで精一杯でした。
それでも一目会うことができました。
もう一度、頭を撫で撫でしてほしいなんて贅沢な望みだったのです。
しおれた花茎のように項垂れかけた頭を自らを鼓舞して上げました。
私は、肩を落とさないために背筋をまっすぐに伸ばして微笑みます。泣かないように目元にグッと力を入れました。言葉として伝えられない想いを、心の中で唱えます。
飼い主、イヌリーヌは人間になりました。
ルドルフォ様、お会いできて幸せでした。
今でも大好きです。
いつまでも大好きです。
だから神様、お願いします。
前世で飼い主に愛されてイヌリーヌが幸福であったように、どうか今世のルドルフォ様が幸せになれますように。
草が萌え、花が咲き、鳥が鳴く春も。
緑の葉色に風が染まり、明るく青い空の夏も。
紅葉黄葉に彩られて、澄んだ夜空に流れる星が美しい秋も。
雪山、雪野、雪の川、雪が満ちて雪が風に散り舞う冬も。
どうか、どうか、ルドルフォ様に祝福を。
一呼吸、吐息を噛みしめるみたいな間を置いてから私はルドルフォ様から離れました。歩調を乱さぬように。俯いてしまわぬように。自分の影を踏み、その影を追うガラスの靴を履いた姫君のように顎を少し上に向けて姿勢を正して動きます。
けれども。
離れようとした私の手を、思わずという感じでルドルフォ様が握りました。びっくりと、ルドルフォ様自身が自分の行動に当惑して頬を強張らせています。
「す、すまない」
パッ、とルドルフォ様が手を放してくれました。
驚きましたが、私以上にルドルフォ様は自分に驚愕しておられます。狼狽して、綺麗な仮面の表情に罅が入っています。
その様子を遠くから見ていたジョージリア侯爵夫妻がシュバッと一瞬で父の隣に立ちました。
「ラヴァント男爵、婚約を申し込みたいのだが受けてくれるね?」
侯爵の威圧感満載な眼差しが父の顔面を刺し貫きます。重力みたいな圧力です。
「ホホホ、ラヴァント男爵。先ほどの騒動を見ておりましたわ。当家に任せてくださいな。今夜中に正式な婚約破棄をして、明日にはルドルフォとコリーヌ嬢との婚約を結びましょうね」
侯爵夫人の眼力は侯爵よりも強烈で、父は蛇に睨まれた蛙のごとく額に汗を滲ませて身体を竦ませています。
「し、しかし当家は男爵家でして、み、身分差が……」
と父が必死で声を絞り出します。
「問題ない」
と侯爵の短い返答が父をバッサリと退けました。
「婚約!?」
と、ルドルフォ様が動揺しておられます。
「大チャンスよ! 社交は手際よく的確でもルドルフォは自分から女性に触れることはしなかったでしょう? お見合いはしない、ダンスは踊らない、ましてや媚を売る令嬢は論外。女性との接触を嫌悪していたわ。それなのに! コリーヌちゃんの手を、自分から! まさに暗闇に光、このままでは歴史あるジョージリア侯爵家の直系の血が途切れる可能性もあったのに……。母は感動しました、これぞ神様のお導きだと!」
と侯爵夫人が片手で目元にハンカチをあてながら、もう片手で私の左手を逃さないとばかりにガシッと取りました。
「コリーヌちゃん、お義母様と呼んでね。大丈夫よ、お義母様は社交界の頂点の一人ですからね。完璧に守ってあげます」
無理です! と心の中で全力でシャウトしました。
私はペット枠での大好きであって、ルドルフォ様の恋人枠としての大好きではないのです。単に撫で撫でをして欲しかっただけなのです。それに貴族社会における階級差の悲惨な現実を知っています。が、悲しいかな。男爵家の私には筆頭侯爵家への拒否権などないことも事実です。
父は侯爵にアッサリ一蹴されて、もはや置き物のモアイ像になっています。わかります。私も物理的にも精神的にも距離を置きたいのですけれども、我が身のことなので逃亡できません。
全力で頭をフル回転させます。
家宝の壺を割って修道院に逃げ込んでクッキーを作って暮らそう、そうすればルドルフォ様の幸福も毎日お祈りできますし一石二鳥、と瞬時に計画を立てていると再びルドルフォ様が私の右手を握りました。
「確かに触れても嫌悪感がない……」
無表情なルドルフォ様の双眸に感情が宿ります。それは徐々に熱を帯びて、キラキラではなくギラギラと執着の色を纏いました。
無理です!! 心の中はムンクの叫び状態です。
飼い主は、だめっ子動物製造機だったのです。前世では重く粘っこい愛情を仲間たちと9等分して、堕落させる魔王の最終防衛ラインギリギリの闇深い溺愛レベルだったのに、一人で全愛情を受けるなんて私には不可能です。水もないのに溺れてしまいます。
左手を侯爵夫人に、右手をルドルフォ様に枷のように握られて、標準身長よりも小さな私はテレビで見た捕らえられた宇宙人みたいな絶体絶命の気分です。
ルドルフォ様の目が爛々としています。
こっちを見ないでください。
神様、ごめんなさい。
飼い主に見つけて欲しいなんて願って。
もうこうなってしまったら、ラヴァント男爵家の万能奥義である家宝の壺に頼るのです。
その夜。
屋敷に帰った私は家宝の壺を割りました。
結論として。
家宝の壺は役に立ちませんでした(酷い裏切りです。万能奥義だと信じていたのに)。
ルドルフォ様は、テレビに出演していた人間の皮をかぶった無敵超人だったのです。権力とか財力とか愛情とか、あらゆるものが限界突破していたのです。
なので、私は来月ジョージリア侯爵家にお嫁入りすることになりました。ぴすぴす泣いてしまいます。せめて仲間たちも転生していれば良かったのに、と思いました……。
読んでいただき、ありがとうございました。
【ちょこっと】コリーヌよりも賢い仲間たち
猫「あ、コリーヌが飼い主に捕まった」
兎「やった〜! これで少し安全になった」
フェレット「いやいや、油断は大敵だよ。飼い主って理不尽なレベチだし。コリーヌは前世から少し抜けていたから仕方ない、イヌリーヌはカピバラを豚バラと言うくらいだったしな」
オオトカゲ「うんうん、飼い主は人外みたいに鋭いから。触らぬ神に祟りなし、だよ」
蛇「せっかく人間になったのに飼い主の溺愛の檻には入りたくない」
オウム「わかる〜。飼い主はだめっ子動物製造機だもん」
フクロウ「たぶん今はダメ人間製造機だな。敬愛はしているが、アレは甘美な蜜の毒だからなぁ……」
亀「俺、今は男だし『あ~ん』なんて絶対に嫌だ。下手をしたらずっと抱っこで歩かせてもらえないぞ。くわばらくわばら」
「「「「「「「「コリーヌ。遠くの遠くから幸福を祈っている、超頑張れ!」」」」」」」」




