プロローグ
街道の脇に広がった木々の隙間から、よたよたと歩く狼の姿を目にしたのは、偶然のことだった。馬車の振動が心地良く、読んでいた小説も区切りがついた。もうそろそろ昼食のために馬車を停めるだろうけれど、疲れた目からは眠気が漂う。夜更かしをして読み進め、睡眠時間も短かった。そろそろ仮眠を取るにはいいタイミングだと、体を伸ばした際にチラリと窓の外を覗いたのが切欠だったのだろう。
私は透かさず「タン! 止めて!」と叫び、御者席で馬を操っていた旅の仲間、戦闘において前衛を任せている、鈍色の鎧を纏った体格の良い男に声をかけ、踏みしめられた土の道の隅に車体を寄せて停めてもらう。
「どうしたんですか?」
「フラフラした、覚束ない足取りの狼が見えたの。もしかしたら――」
「瀕死だったのかもしれないわね。手当てできるかもしれないし、急いだ方が良いわ」
良いかけた言葉を瞬時に理解してくれたのは、正面に座っていたもう一人の仲間、魔法で創った矢を武器にする弓使いであり、シャープな輪郭を持つキリリとした格好良い女性であった。
すかさず「ありがとうミユさん」と声をかけ、差し出された手を取って車両から降りる。狼を見た方向を指で示せば、周囲の安全を確かめる意味もあったのだろう。先行して飛び出していく後ろ姿を見つめ、御者台から降りてきたタンと共に後を追う。
あの姿を見ていない彼女は、警戒する狼を宥めようと思っているのかもしれない。けれどその望みは最早ないだろう。それほどの深手を負っているように見えた。だからこそ、私が向かわねばならないのだ。それが私の、聖職者と呼ばれる存在の仕事、使命と呼ぶべきものだから。
聖職者と呼ばれる存在は、神に仕える集団である。教会と名付けられた組織に属し、神から授かった力を使って使命を果たす。授かった力は二つ。一つは人を、生物を癒やす力であり、簡単な怪我なら手を翳すだけで治すことができる。もう一つは、まさに今、私が行っていることだった。
倒れ伏すオオカミに両手を握り合わせて黙とうをする。それは一見すると、ただ祈りを捧げている様に見えるだろう。しかしこの行為こそが、この世界において最も重要なことなのだ。
生物は死した際、魔物となる。例外はあるが、動物に限らず、植物など命のあるもの全てが。魔物とは動物や植物と人とが混ざり合ったような姿をした異形であり、彼らは生前の怨みを晴らすために行動をする。いわゆる魔物化と呼ばれている現象なのだが、聖職者はその魔物化を防ぐ能力を神から授かったのである。
だからこそ、死したものには分け隔てなく祈り、怪我が命を脅かさないように処置をする。それが使命なのだ。
「――後は、埋めてあげよっか」
そう言って私は、柔らかそうな地面を探しミユと共に地面を掘り出す。スコップは聖職者にとって必需品であった。「もう少し早く見つけてあげられたら……」と気を落とす彼女に、「仕方がないよ」と声を掛ける。その傍らでは、タンが警戒心を顕にして立っていた。
「二人とも、こういう言い方は相応しくないと思いますが、なるべく早く済ませてください」
「分かってるわ。真新しい傷に体もまだ温かかった。襲われたのはこの森で間違いないわね。うっかり魔物の縄張りに入ってしまって、襲われて逃げてきたのかしら」
二人の会話に少し手が強張った。使命を果たすことに集中していたのか、当たり前のことが頭から抜け落ちていたらしい。他の聖職者はいざ知らず、私には戦闘に関する才能は一切ない。むしろ運動も苦手としているのだから、戦闘になれば二人に守ってもらう他ない。
せめて足手まといにはならないようにしようと、精一杯の警戒心を表してみる。ミナミコアリクイみたいに、体を大きく見せてみようか。とある島に生息する動物で、長く飛び出た口が可愛らしい四足歩行の動物だ。しかし威嚇の際には立ち上がって仁王立ちをする。体の模様が、どこか胸元が開いたタイツのようになっているため、その姿は何処か奇妙で、愛らしいのだ。――私がやるには、流石に恥ずかしいか。
などと考えるうちに、シリアスな雰囲気に当てられていた自分の内面が、徐々に解きほぐされてきた。非常時でも自分を見失わないように。私が聖職者となって一番初めに教わったことだ。
「イノリ、キョロキョロするよりも手を動かしたほうが早く終わると思うわ」
自分なりの警戒の仕方は、ちょっと外れていたらしい。しかしその行動で少しその場の空気が和らいだ気がしたので、この調子だと、ちょっとしたジョークを言っても受け入れられるのではないかとも感じてしまう。急なシリアスな展開が勃発して、抑えていたユーモア的な何かが溢れ出しそうなのである。
「そうだね。早く終わらせたほうが良いよね。……オオカミだけに」
「……関係なくない?」ミユが突っ込む。
「うん。ないよ。テキトーに言った」
「本当にもう。よく考えて喋ったほうが良いわよ。あなたの立場だと大事な会なんかもあるんだし、いっつもハラハラするのよ」
「そこは任せてよ。大事な場面では大人しく出来る。オオカミだけに」
「間違っても遠吠えはしちゃ駄目よ」
それはしないかな。威嚇はするかもしれないけれど。などと、ついつい適当なことを言ってしまうのが私の癖。案ずるより言うがが易し、とも言うからね。……なんか違う? でも、間違ってたって関係ないね。
そんな冗談で充分重い空気も紛れただろう。穴を掘る手もどんどん進んでいき――。
――た、助けてくれ!
しかしそれは、その声が聞こえる刹那の間だった。