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──一方そのころ。
「お嬢様? どうしてレナルド様のところに急ぎ向かいたいなどとおっしゃったのですか?」
馬車の中で、ニールが控えめに尋ねる。リアは気まずそうに口を開いた。
「今日。アビーがクラスメイトに言いかがりをつけてね。それをモーガンが信じて、揉め事を起こしそうになったの。それはなんとかなったのだけれど……レナルド様に、これ以上二人がみんなから孤立してしまわないように、説得してくれませんかってお願いをしてしまったの」
「……それはまた、タイミングが悪かったですね」
「そうなの……。だから一刻も早く、あれはもういいですって言わなくちゃと思って」
「──なるほど」
ニールは心底、アビーとモーガンに怒り、同時に呆れていた。こんなにまで想ってくれている人を傷付け、自ら手放してしまった愚かな二人に。
「不思議ね。あれからそれほど時間は経ってないのに、モーガンに対する情は、もうなにも残っていないように感じるわ」
しみじみと呟くリア。その表情は、とても穏やかだった。
「お嬢様……」
「あ、レナルド様のお屋敷が見えてきたわ」
空元気、には見えない。ニールはとりあえず、ほっと安堵の息を吐いた。
「リア嬢? どうされたのですか?」
使用人から呼ばれたレナルドが、屋敷の外で待つリアの元に慌てて駆けてきた。
「突然申し訳ありません、レナルド様」
「それはよいのですが──とりあえず。どうぞ、中へ」
「あ、いえ。すぐにすみますので、ここで」
レナルドが、不審に眉を寄せた。
「……もしや、またモーガンとアビーがなにか?」
間違ってはない。と、うしろに控えるニールは胸中で呟いた。
「えーっと、はい。その二人のことに関してです」
レナルドが「……聞きましょう」と重く返答する。二人になにか、ひどいことでもされたと思っているのだろうか──実際はされたのだが──お優しい方だ、とリアは頬を緩めた。
「そんな顔、なさらないでください。わたしはただ、昼間に言ったことはなかったことにしてくださいと言いにきただけなのですから」
レナルドは目を丸くした。
「……モーガンへの説得のことですか?」
「はい」
「……何故でしょう」
リアは一瞬迷ったものの、すぐに口を開いた。どうせすぐに、うわさは広がるだろう。ならば隠しても意味はない。そう思ったから。
「わたしはもう、モーガンの婚約者ではないからです」
「……婚約者では、ない?」
「はい。お父様もお母様も、モーガンとの婚約破棄を認めてくれました。だから、もうよいのです」
レナルドは驚愕していた。婚約破棄という事実ももちろんだが、なによりも、リアの落ち着きように。
「い、いいのですか? だって、あなたはあんなにモーガンのことを……っ」
「そうですね。愛していました。でも、もうモーガンに対する愛情はありません」
そっと目を伏せるリア。いったい、この数時間の間になにがあったというのか。レナルドは、こぶしを強く握った。
「……あの兄妹に、なにをされたのですか」
リアはまぶたをあげ、小さく笑った。
「わたしがなにかしたとは考えないのですね」
「あの二人の日頃の行いを知っていれば、当然です」
「ふふ、ありがとうございます。そうですね。簡単に説明しますと──」
それからリアは、ざっとそれまでのことを語った。レナルドが片手で顔を覆った。
「……あの馬鹿は、婚約破棄されて当然ですね」
「そう言ってもらえるとほっとします。ですが、モーガンもわたしと同じで、わたしへの愛情はもうないでしょう。あの人にとってわたしは、大事な妹を傷付けた憎むべき相手ですから」
いや。もしかしたら、わたしへの愛情なんてはじめから──。
「……リア嬢?」
心配そうに顔を覗き込まれ、リアは、はっとした。
「な、なんでもありません。お話は以上です。お時間をとらせてしまい、申し訳ありませんでした。それでは、わたしはこれで」
腰を折り、焦ったように背を向けるリア。レナルドは「あ、はい」と反射的に答え、去っていく馬車をしばらく見送っていた。
「──本当に馬鹿なやつだな、モーガン」
呟くレナルドの瞳は、確かな怒りを宿していた。
翌日の朝。
学園へ向かう馬車の中。目を真っ赤にしたアビーが、不機嫌に顔を歪ませている。目の前に座るモーガンは、ぼんやりと外を見ている。
もうアビーを甘やかすのは終いだ。
昨日。両親はそう告げ、アビーとモーガンを叱った。加えてアビーには、学園を休むこと、早退することは許さない。そう言った。はじめて両親に叱られたアビーは、それからずっと泣いていた。すがられたモーガンは、そんなアビーを突き放すことはしなかったが、なにも言葉をかけなかった。
まだモーガンの中では、整理がついていない。アビーが嘘をつくはずがない。ずっとそう信じて疑ってこなかった。庭師が目撃したのも、アビーが花瓶を頭上に振り上げたところだけで、投げたところは見ていない。いや、あの証言すら嘘ではないかと考えてしまう自分がいる。
──さすがに、リアと庭師の仲を疑うことはしていないが。
(……だって、もしアビーが嘘をついていたのだとしたら……リアが正しかったのだとしたら)
花瓶を投げつけられたリアを一方的に責めたあげく、頬を叩いたことになってしまう。モーガンはその可能性に、ぞっとしていた。だから認めたくなかった。なによりもその思いが強かったのかもしれない。
いつもなら教室までアビーを送っていくが、両親に甘やかすなと言われたこともあり、モーガンは校舎に入ったところでアビーと別れた。アビーが泣きそうに顔を歪ませているのがわかったが、モーガンは一刻も早くリアに会いたかったので、気付かないふりをして背を向けた。
廊下を足早に進む。リアの教室へと近付いていく。途中で見慣れた背中を見つけたモーガンは、一瞬ためらったのちに、声をかけた。
「──リア!」
名を呼ばれた人物が、足を止める。ゆっくりと身体を反転させる。二人の視線が交差した。モーガンは向けられたその双眸に、目を見張った。
「…………リア?」
驚愕に、声が震えた。今まで、こんな冷たい目を向けられたことはなかったから。