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「リアは貴様を愛していた。だから私たちにも、貴様の親にも、誰にもなにも言わなかった。ニールに固く口止めまでしてな。貴様はそんなリアの愛情にあぐらをかき、リアをずっと蔑ろにしてきた。──違うか?!」
蔑ろにしてきたつもりはない。けれど、リアが両家の親になにも報告していないことにほっとし、甘えていたのは確かだった。
「わ、私がリアの優しさに甘えていたのは事実です。けれど、私はリアを愛しています! それだけはどうか信じてください……っ」
「信じられるか──いや、もうどうでもいいことだな」
フォーゲル公爵はそう吐き捨てると、シュミット公爵に向き直った。
「シュミット公爵。以上のことから、リアと貴殿の息子との婚約は破棄する。よいですな?」
シュミット公爵は青い顔をしながら、なにも答えない。声を張り上げたのは、モーガンだった。
「お、お待ちください! そんな勝手な……っ」
「ほお。驚きだな。妹の戯言しか信じない貴様も、てっきりリアとの婚約破棄を望んでいるものと思っていたが」
フォーゲル公爵が鼻で笑う。
「た、確かに、アビーにしたことは許せません。ですが、私はリアを愛しています。だから、きちんと話し合いを」
「妹のことしか信じない貴様と話し合いなどできるか。馬鹿馬鹿しい。それに、貴様との婚約を破棄したいと頼んできたのはリアだ」
モーガンは顔から一気に血の気をなくした。
「そ、そんな……なにかの間違いですっ!!」
フォーゲル公爵は呆れ、大きくため息をついた。どこからその自信はくるのか。
「……話にならんな。まさか、こんな愚かな男だったとは」
フォーゲル公爵が踵を返し、玄関の扉を開けた。モーガンがひき止めるために手を伸ばす。そのとき。
「──旦那様!」
フォーゲル公爵の護衛の男が、玄関から少しはなれたところにある庭からフォーゲル公爵を呼んだ。
「どうした──その男は?」
五十代の男の腕を、護衛の男がつかんでいる。護衛の男はフォーゲル公爵に近付いていくと「この屋敷の庭師です」と言った。
「……それで? その男がどうした」
「はい──すみません。先ほどのお話、もう一度聞かせていただいてもよろしいですか?」
庭師の男が「はあ」と帽子を取り、手に持った。
「アビーお嬢様が、花瓶を振り上げていたときのお話ですか?」
?!
その場にいる、護衛と庭師を除いた全員が、驚愕に目を見開いた。
「はい。それです。もう少し詳しく教えてもらっても?」
護衛の男が言うと、庭師はぽりぽりと頬をかいた。
「詳しくと言われても。お嬢様が花瓶を頭上に振り上げたところが窓からちらっと見えただけです。そのあとなにかが割れる音がしましたから。まあ、花瓶を割ったんだろうなと。機嫌が悪かったんですかね」
フォーゲル公爵が、護衛の男と視線を交差させ、満足そうにうなずいた。よくやった。そう目で語った。
シュミット公爵、シュミット公爵夫人のショックも計り知れなかったが──モーガンのそれは、その比ではなかった。
「……そ、そんな……アビーが嘘をつくはず……わ、私は……」
モーガンが呆然と、全身の力が抜けたように床に膝を突いた。それを、フォーゲル公爵が氷のように冷えきった視線で見つめていると──。
「──お兄様? どうかされたのですか?」
「……アビー。あなた、リア嬢に花瓶を投げつけたの……?」
シュミット公爵夫人がおそるおそる訊ねると、階段をおりきったアビーは目を尖らせた。
「違います。お母様。リア様が私に、花瓶を投げつけたのです。私、とても怖かったんですよ?」
「──貴様の家の庭師は、貴様が花瓶を頭上に振り上げたところを目撃したそうだが?」
冷たい言葉を浴びせてきたフォーゲル公爵に、アビーはびくっと肩を震わせた。自分はなにかまずいことを言ってしまったのだろうか。庭師がおろおろとし出した。
アビーが視線をさ迷わせる。かと思えば、すぐにはっとしたように口を開いた。
「わかりました! きっと、リア様はその男と恋仲だったのです!」
開いた口が塞がらない、とはこのことだろうか。あまりの言い訳に、フォーゲル公爵は呆れ、絶句する。シュミット公爵とシュミット公爵夫人は、両手で顔を覆っている。
「だからリア様をかばって、そんな嘘をついたのです。ですよね、お兄様?」
アビーがモーガンに視線を移す。これまで、どんなことにだってうなずき、信じてくれた兄。アビーはなにも疑っていなかった。今度だって、きっと信じてくれると。なのに。
「……アビー」
泣きそうに、モーガンがアビーの名を呟く。リアが自分を深く愛してくれていること。それだけは、モーガンの中で揺るがない真実だった。だから、それに甘えた。妹を優先した。妹を信じた。その妹が、そんなことを言うなんて。
「お兄様……? どうしてそんな目で私を見るのですか……?」
アビーが瞳を潤ませる。モーガンは答えない。
「──なるほどな。リアが言っていたことに、間違いはなかったわけだ。こんな馬鹿で無茶苦茶な言い訳を、貴様はなんの疑いもせず、信じてきたわけだな。それで? 今度はリアと庭師の仲を疑い、また頬を打つのか?」
フォーゲル公爵が唾棄せんばかりに吐き捨てる。モーガンはただ、否定するようにゆっくりと頭を左右に振った。
「まあ、もはや婚約者でもなんでもない貴様が、そんなことをする権利などないがな。しかし、とんだ兄妹だったものだ。──シュミット公爵。私はこれで失礼する」
シュミット公爵が、勢いよく顔をあげた。
「お、お待ちを! せめてリア嬢に、謝罪だけでもっ」
フォーゲル公爵は「結構」と吐き捨て、屋敷をあとにした。