7
馬車のそばでリアを待っていたニールは、リアの様子がおかしいことに、すぐに気付いた。
「──お嬢様?」
呼び掛けに、リアは顔をあげた。そして。
「アビーに花瓶を投げつけられました」
「なっ……」
「けれどアビーは、わたしがアビーに花瓶を投げつけたとモーガンに泣きつきました」
淡々と語るリア。ニールが、奥歯をぎりっと噛み締めた。
「……モーガン様はそれを信じたと?」
「ええ。そして、わたしはモーガンに頬を打たれたわ」
ニールは血がにじむほど、こぶしを強く握りしめながら叫んだ。
「──もう我慢なりません。お嬢様がどれほど止めようと、私はすべてを旦那様に報告します」
「駄目よ。ニール」
「止めても無駄です。お嬢様。たとえあなたの護衛をはずされようとも、私は……っ」
ニールは、はっとした。リアのまとう空気が、双眸が、凍りのように冷たく、まるで刃のように鋭かったからだ。
「──お父様たちには、わたしからお話しします」
「ただいま戻りました」
屋敷に戻ると、両親と妹のセシリーは応接間でお茶を楽しんでいた。セシリーが席を立ち「おかえりなさい」と、リアに駆け寄ってきた。リアが愛おしそうにセシリーの頭を撫でる。
「あなたがとてもいい子に育ってくれて、姉様は嬉しいわ」
セシリーが「突然どうされたのですか?」と首をかしげる。両親も不思議そうにリアに目を向けている。
「セシリー。姉様は、お父様とお母様にとても大切なお話があるの。お部屋に戻っていてくれる?」
「わたしがいては駄目なのですか?」
「駄目じゃないわ。でもね。楽しいお話ではないから」
「セシリーお嬢様。私からもお願いします」
うしろにひかえていたニールも頭をさげる。セシリーはよほど大切なお話なのだと思い「わかりました」と、自室へと足を向けた。本当に素直な子だわと、リアが頬を緩める。
「改まってどうしたというのだ」
「大切なお話とは?」
父親が、母親が、リアに視線をそそぐ。リアは一度、ニールと視線を交差させてから、口火を切った。
「お父様、お母様。どうか、モーガンとの婚約を破棄させてください」
両親は、そろって目を見張った。
「ど、どうして?! あなた、婚約が決まったとき、あんなに嬉しそうにしていたじゃない!」
「そ、そうだ。それに、あいつは見目もよく、性格もよい。いずれ爵位を継承する長男に、これだけの条件がそろっている男などそうそう──」
「わかっています。けれど、わたしはもう、決めたのです。申し訳ありません。お父様。お母様」
リアは父親の言葉をさえぎり、頭をさげた。ニールが言葉をつなぐ。
「旦那様。奥様。どうか、お嬢様の話を聞いてください。お願いします」
父親は苦虫を噛み潰したかのような顔をし、右手で顔を覆った。
「……わかった。とにかく、理由を話してみなさい」
(……頬を打ったのは、やりすぎたかな。いや、それ以上のことをリアはしたのだし……)
モーガンが黙考していると、目の前で寝台に横になるアビーが不安そうに「お兄様?」と呼び掛けてきた。モーガンは、はっとし、意識して微笑んだ。
「なんでもないよ。具合はどうだい?」
「だいぶよくなってきました。それに、ほっとしたら、なんだか眠くなってきて」
「眠っていいよ。そばにいるから」
「はい。お兄様」
アビーはまぶたを閉じ、しばらくすると寝息を立てはじめた。それからモーガンは、玄関の扉が勢いよく開けられる音を聞いた。
(? なんだか下が騒がしいな)
両親が帰ってきたのだろうか。それにしては、なんだかおかしい。不審に思ったモーガンは、アビーの部屋を出て、階段をくだった。玄関ホールには、両親がいた。そして、もう一人。
「フォーゲル公爵……?」
顔を真っ赤にして怒っているのは、リアの父親であるフォーゲル公爵だった。階段の途中までおりてきていたモーガンに気がつくと、フォーゲル公爵は叫んだ。
「モーガン! おりてこい!」
あまりの剣幕に、シュミット公爵とシュミット公爵夫人が困惑する。こんなに激高するフォーゲル公爵を見たのははじめてだったからだ。
「う、うちの息子がなにかしたのでしょうか」
シュミット公爵がおそるおそる尋ねると、フォーゲル公爵は射すような視線を向けた。
「してましたとも。尤も、私もなにも気付かなかったという点では、同罪ですがな」
モーガンは、リアが父親に泣きついたのだと怒りを覚えていた。自分がアビーに花瓶を投げつけたくせに。そのうえ、訳のわからないことを叫んだ。だから打った。きっとリアは、自分に都合のいいことしか説明していないのだと、モーガンは考えた。
ぐっと唇を噛み締め、モーガンはフォーゲル公爵の前に立った。
「──リアの頬を打ったことに関してのお話でしょうか?」
「「なっ…?!」」
そろって驚きの声をあげた両親に、モーガンは視線をうつした。
「あれは、リアがアビーに花瓶を投げつけたから。さらに、そんなに妹が大切なら、妹と結婚しろと訳のわからないことを言われ、頭に血がのぼってしてしまったことです」
モーガンの両親が絶句する中、フォーゲル公爵は冷静に言葉を吐き捨てた。
「──貴様は、その現場を目撃したのか?」
「……え?」
「貴様の妹に、リアが花瓶を投げつけたその瞬間を目撃したのかと聞いている!!」
「そ、それは……でも、確かに花瓶はアビーのうしろで割れていて」
「それについて、リアはなにも言っていなかったか?」
「……言ってはいました。でも、それはあり得ないことで」
「そうだ。貴様は、妹の言い分だけを信じた。リアの言うことは一切信じずに。これまでも、ずっとそうだったらしいな」
「そ、そんなことはありません……っ」
「ほう。では、デートに一時間、二時間の遅刻はあたりまえ。数時間娘を待たせたあげく、デートをキャンセルしたことさえあるそうだが。それも嘘か?」
「そ、それは……」
口ごもるモーガン。それは、肯定したようなものだった。それに誰より驚いたのは、モーガンの両親だった。顔面蒼白のまま、母親が口を開く。
「嘘、でしょ……モーガン、あなた」
「し、仕方がないではありませんか! アビーの具合が急に悪くなってしまって……それでっ」
フォーゲル公爵が「毎回か?!」と、くわっと目を剥いた。
モーガンはうつむき「……はい」と、小さく答えることしかできなかった。モーガンとて、毎回の遅刻に罪悪感を覚えていないわけではなかったから。