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「あんなに素敵な方と婚約できるなんて、うらやましいですわぁ」
モーガンとの婚約が成立して以来、そのうわさは学園中に広まっていき、リアもモーガンも、しばらくはたくさんの人に囲まれた。幸せだった。本当に。でも、そのころだったろうか。モーガンがデートに遅刻をするようになってきたのは。
最初は、ほんとに少しの遅刻。それがどんどんと長くなっていき。そしてある日、とうとう、二時間待たされたあげく、キャンセルまでされてしまった。
いつもの広場でニールとモーガンを待っていたリアの元に、モーガンの屋敷の使用人の男が青い顔をしながら駆けつけてきた。
「も、申し訳ございません。リア様。モーガン様は、どうしても手が放せない用ができてしまい、今日の予定をキャンセルさせてもらいたいと、言付かってきました……っっ」
ニールが青筋を立てながら前に出ようとするのを手で制止ながら、リアは口を開いた。
「……アビーの具合が悪いからですか?」
使用人が、口ごもる。リアはそれ以上追及することはやめた。
「……それで。このこと、おじさまたちは?」
「ほ、本日、旦那様たちは家におられず……」
だからこそのキャンセルじゃないだろうな。ニールは舌打ちしそうになった。だが。
「──そう、良かった。なら、モーガンたちがとがめられることもないわね」
リアが、ほっと息を吐いた。ニールも、使用人までもが目を見張った。
「……怒っては、いらっしゃらないのですか……?」
「正直言うと、最初はね。でも、事故に遭ったとかでなくて良かったわ」
リアが頬を緩めるのを見て、ニールはくやしさから、こぶしを強く握りしめた。どうせこのことも、両親には言うなと止められるのだろう。けれど、これは本当にお嬢様のためになるのだろうか。ニールは自問自答したが、結局はリアにこわれるまま、このことを誰にも告げることはしなかった。
「もうすぐ、アビーが学園に入学する季節になるね」
学園から帰る途中の馬車の中。ふいに、心配そうにモーガンが呟いた。前に座るリアが「そうね」と答える。
「君も知っている通り、あの子は身体が弱かったせいで、ほとんど屋敷から出られなかった。だから友もいない。人見知りのあの子が、うまくやっていけるかとても心配でね」
「大丈夫よ。学園にはモーガンも、わたしもいるんだから」
リアは、おそらくはモーガンが望む答えを口にした。モーガンがありがとう、と満足そうにお礼を言う。リアは微笑みながら、モーガンとは違う意味で、アビーの学園生活を心配していた。
それが現実になるのは、アビーが学園に入学してからひと月ほど経ったころ。
入学当初は、みながリアのようにアビーのかわいさに見惚れ、病弱だというアビーの体調を気遣った。またモーガンに対しても、リアと同じように、病弱な妹を大切にする素晴らしい兄だという認識しかなかった。けれど。
短い休み時間でも、アビーは兄の教室に通い、またモーガンもアビーの様子を見に、アビーの教室に通った。お昼は当然のように、モーガンとアビー、そしてリアの三人で食べるようになった。そこで交わされるのは、いつものように、アビーがリアにひどいことを言われたという被害妄想を信じるモーガン、という図。まわりに人がいるというのに、お構いなしに声をあげるモーガンとアビーに、リアはひたすらため息をつくしかなかった。
さらに、もう一つ。
貴族の子どもは、学園に入学する前から家庭教師をつけ、読み書きはもちろん、複数の外国語、社交界に必要な音楽やダンスを学ぶ。けれど、アビーはそのどれも出来ていなかった。病弱だったから、学びたくても学べなかった。アビーは涙ぐみながらそう言ったのだという。
お気の毒に。最初はそう同情していた人たちも、事ある毎にアビーがそう言って泣くので、次第にまわりの人たちは引いていってしまった。
少しずつ、学園におけるモーガンとアビーの評価が変化してきたころ、アビーのクラスで一つの揉め事が起こった。
「お兄様!」
授業の合間。いつものようにアビーの教室に訪れたモーガンに、アビーが涙を浮かべながら抱き付いた。モーガンが「どうした?」と慌てる。
「あの子、ひどいんですよ!」
アビーは、クラスメイトの女の子を指差した。その子は「わ、わたしはただ、アビー様はどこがお悪いのかとお聞きしただけで」とおろおろしている。
「ほら! まるで私が仮病かのように言うのです!」
「そ、そんなことは決して……っ」
クラスメイトたちがざわつく。このクラスでアビーより位の高い爵位の家の者はいないので、誰もなにも言えない。そんな中、モーガンは目を尖らせながら一歩前に出た。怒っているのはまわりの目にも明らかだった。
「──君は」
モーガンの続く言葉を焦ったようにさえぎったのは、リアだった。
「ちょ、ちょっと待って」
さすがに毎回ではないが、リアはときどき、アビーの様子を見にきていた。なにかクラスメイトと問題を起こさないか、不安だったから。
──予感は見事に的中してしまったわけだ。
「……リア。すまないが、止めないでくれないか」
険しい顔で振り返るモーガンに一瞬ひるむリアだったが「そんなつもりはないわ」と、なんとか持ち直した。
「わたしはただ、アビーの顔色が気になっただけ。ねえ、アビー。もしかしたら、気分がすぐれないのではないかしら」
アビーが目をまたたかせ「……ええ、実は少し」と顔を伏せた。アビーは体調を心配されるのが好きなのだ。これは、リアが過去の経験から学んだことだった。
「やっぱり。モーガン。アビーを連れて、今日はもう帰った方がいいわ」
ここぞとばかりに心配そうな声音でリアがモーガンに訴えかける。
「ああ、そうだね。ほら、アビー。行こう」
二人が連れ立って、教室を出ていく。リアはほっと息をついた。
「わ、わたしはなにも……っ」
アビーに責められていた女の子が、泣きながら小さく訴える。リアは振り返り、女の子と向かい合った。
「ええ、わかっているわ。でも、ああでも言わないと、あの二人は納得しないから」
女の子が目を丸くする。リアはそのまま、頭をさげた。
「あの二人に代わって、わたしが謝罪します。本当にごめんなさいね」
「そ、そんな! 頭をあげてください!」
それからリアはクラスのみなに騒がせてしまったことを謝罪し、教室をあとにした。