12
次の日の夕刻。
リアは一人、図書室にいた。もともと本は好きだったが、最近はずいぶんとご無沙汰だったため、本を借りに来ていた。恋をすると、女は心の余裕を失ってしまうものなのだろうか。そんなことをリアは頭の隅で考えた。
図書室には、数えるほどの人数しかいない。場所が場所だけに、ひっそりと静まり返っている。リアが本棚と本棚の間で本を物色していると、こちらに向かってくる足音が聞こえた。自然とそこに目を向ける。本棚の陰から姿を現したのは、アビーだった。
とっさに名を呼びそうになったが、リアは口を閉じ、視線を逸らした。昨日はずいぶんと挑発的なことを言ってしまったという自覚はあった。アビーの性格からして、自分とはもう、目も合わせたくないだろう。そう思ったから。
すぐに何処かに行くだろう。そう考えていたリアの元に、アビーがゆっくりと近付いてくる気配がした。ここの本棚に用があるのかと、リアがアビーに背を向け、この場所を譲ろうとしたとき。
アビーがカバンからなにかを取り出すのを目の端で捉えた。それがなにかを理解したとき、リアはぞっとし、顔面蒼白になった。
それは、剥き出しの短刀だった。アビーが父親の部屋から無断で持ち出したものだ。アビーがその切っ先をリアに向けたまま、小さく口を開いた。
「……私のお兄様を返して」
リアは血の気の引いた顔で、後退りしていく。
「……返すもなにも、わたしとモーガン様はもう婚約者でもなんでも……っ」
「──返して!!」
アビーが短刀を振り下ろす。張り上げられた声に反応した図書室にいる生徒たちが一斉にリアたちがいる方向に目を向ける。本棚の間からリアが飛び出す。追いかけるように、短刀を振り上げたアビーが出てきた。
悲鳴があがる。腰を抜かす者や、図書室から慌てて飛び出す者がいたが、アビーの狙いは一人だ。他の者には目を向けず、リアだけを追いかける。不幸なことに、図書室にいたのは女子生徒のみで、アビーの鬼のような形相に震えあがるばかりで、リアを助ける余裕のある者はいない。
リアが図書室から飛び出す。誰か。誰か助けて。恐怖に震えながら必死に足を動かす。廊下の開け放たれた窓から、外を見る。学園の出入口に向かう複数の人の中。見覚えのある一人の背中を見つけたとき、リアはその人物の名を力の限り叫んでいた。
「──レナルド様っ!!」
名を呼ばれたレナルドは、振り返ったとたん、息を呑んだ。背筋が一瞬にして凍る。校舎内にいるリアが、窓からこちらに向かって必死に手を伸ばしている。その背後で、見たことのないほどに歪んだ顔をしているアビーが短剣を振り上げ、今にもリアの背中にそれを突き立てようとしていたからだ。
「──リア嬢っ!!」
レナルドの位置から校舎まで、距離がある。とてもじゃないが間に合わない。焦ったレナルドは近くに落ちていた小石を拾い、アビーに向かってそれを投げた。それはアビーの額に命中し、アビーがよろける。その間にレナルドは駆け、窓から校舎内へと入り、アビーから短剣を奪い取った。アビーは抵抗するが、力でレナルドに勝てるわけもなく。
「……なんでぇ……なんでその女ばっかりぃ……っ」
床に手をつき、アビーが泣きじゃくる。リアが震えながらアビーを見つめ、無意識にレナルドの服を掴む。気付いたレナルドが、そっとその手を握る。間もなく生徒たちに呼ばれてやって来た二人の教師に、アビーは項垂れたまま連れて行かれた。
教師に促され、他の生徒たちが帰路につく中。レナルドとリアはまだ、校舎内の廊下にいた。
「──リア嬢。大丈夫ですか?」
リアの右手を優しく両手で包み込みながら、レナルドがそっと訊ねる。
「……すみません。ふ、震えがなかなか止まってくれなくて……」
強張った顔で、リアが小刻みに震える。左手は、レナルドの服を掴んだままだ。
「謝罪なんてよいのですよ。あんなに怖い目に遭ったのですから、無理もありません」
「で、でも……これ以上、レナルド様にご迷惑をおかけするわけには」
早く手をはなさなければ。そう思うのに、手がはなれてくれない。はなすのが怖い。リアはますます強くレナルドの服を握った。
「迷惑だなんて、思ったことはありませんよ」
「……でも、レナルド様は女性の方が苦手だと聞いたことがあります……ですから」
小さくもらされる声に、レナルドは照れくさそうに笑った。
「ああ、まあ。得意ではないかもしれませんね。わたしには上に二人、姉がいまして。小さいころはよくおもちゃにされていましたから。そのせいでしょうね」
「……はじめて知りました」
「あまり人に話したことはないですから。ですが、いい加減そんなことばかり言ってはいられませんがね。親には早く恋人をつくれと毎日のようにせっつかれていますよ」
「……そう、でしょうね」
そうだ。公爵家嫡男であるレナルドなら、こんなに優しくて頼もしい人なら、望めばきっとすぐにでも恋人ができるだろう。そう思うと、なんだか哀しくなった。
「リア嬢……?」
「あ、あの。もう大丈夫です。ありがとうございました」
リアは、ぱっと手をはなし、レナルドからはなれた。その手を、レナルドに掴まれた。
「……まだ震えているではありませんか」
「も、もう平気です。これ以上、レナルド様の優しさに甘えるわけにはいきません」
つかの間の沈黙のあと。レナルドがそっとリアの手をはなした。それをリアが残念に思っていると。
「……誰にでも優しくするわけではありません。リア嬢も言っていた通り、わたしはあまり女性が得意ではないのですから」
「レナルド様……?」
リアが顔をあげる。レナルドの真っ直ぐな視線とぶつかった。
「──放っておけない。守ってあげたい。そう思った女性は、あなたがはじめてです」
リアが目を丸くする。それはつまり──。
「……わたしは、少なくともレナルド様に嫌われてはいないということでしょうか」
「もちろんですよ」
リアは、おずおずとレナルドに手を伸ばした。
「……なら、もう少しだけ手を繋いでいてもらってもいいでしょうか」
レナルドは「喜んで」と、優しく微笑んだ。
──数ヶ月後。
モーガンが一人、校舎内の廊下を歩く。話しかける者はいない。たまに、遠巻きにこそこそと何かを言われるだけだ。
アビーの姿は、何処にもない。学園を退学になったのだから当然のことだ。あの事件のことを知らない者は、ほとんどいない。シュミット公爵家は、貴族の間でも完全に孤立するかたちとなってしまった。
モーガンは、毎日考える。どうしてこんなことになってしまったのか。何処で道を間違えてしまったのか。もしかしたら、はじめから間違えていたのかもしれない。でも。
『……ねえ、どうしてあなたはあの子の言葉しか信じようとしないの……? どうしてわたしの言葉を信じようとはしてくれないの……?』
脳裏をよぎるのは、そう言って涙を流していたリアの顔だ。もしあのとき、リアを信じられていたら。きちんと話を聞けていれば。
『あれだけお前と、お前の妹を想ってくれる人なんて、リア嬢以外にいなかっただろうに。みずから手放してしまうなんてな』
続いて脳内に響いたのは、レナルドの声だった。ああ、本当にそうだ。その通りだと、モーガンは胸中で呟いた。
校舎の二階の窓から見える中庭で、リアとレナルドが昼食を摂っているのが見えた。うわさによると、二人はひと月ほど前から付き合いはじめたらしい。
モーガンの視線が、リアに注がれる。幸せそうに、綺麗にリアが笑っている。かつて、自分のとなりにあったはずの笑顔が、今はなんて遠い。どれほど後悔しようとも、あの笑顔はもう、二度と手に入らない。
「……そうだった。君は、そんな風に笑う子だったよね」
モーガンは一人呟き、一筋の涙をこぼした。
─おわり─