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「なにかご用ですか?」
リアに問いかけられ、モーガンは我に返ったが、どう声をかけていいのか混乱した。
「……き、君の頬を打ってしまったことを、謝罪したくて……」
「──ああ。そのことなら、もういいです。わたしはあなたにとって、大事な妹を傷付けた憎むべき相手でしょうから」
淡々と、表情を変えずにリアが話す。モーガンの心が少しずつ、震えていく。
「……庭師が、アビーが花瓶を頭上に振り上げたところを目撃したと、言っていて……」
「お父様から聞きました。けれど、どうせあなたは信じていないのでしょう?」
リアが冷たく言い放つ。
「あなたの妹は、わたしと庭師が恋仲と言ったのだとか。あなたはそれも信じたのでしょうね──わたしにはもう、どうでもよいことですが」
「わ、私はリアの愛を疑ったことはない!」
思わず声を張り上げたモーガンに、リアは「愛、ですか」と、ため息をついた。
「そうですね。わたしは確かにあなたを愛していました。けれどあなたは、わたしを愛してなどいませんでしたよね」
「……なにを」
リアは、ふっと哀しそうに笑った。
「……モーガン様。あなたは、妹をどれほど優先しようと、笑って許してくれる女性なら、誰でもよかったんですよ。きっと」
「っ! それはあんまりだ……っ。私は、君だからこそ結婚したいと思った。妹は関係ない!!」
リアは僅かに目を見張ったが、それだけだった。もうなにも、心には響かない。
「どちらにせよ、わたしとあなたはもう赤の他人です。わたしのことなど気にせず、妹と仲良くしてくださいませ」
「わ、私は婚約破棄など望んではいない!」
リアが目を丸くする。
「そうなのですか? わたしはてっきり、あなたは喜んで賛同してくれるものとばかり……だってモーガン様は、妹を傷付けた者を決して許しはしませんよね?」
モーガンが言葉につまる。もはやモーガンの中で、アビーの言葉が絶対ではなくなってはいたが、それでもまだ、信じたい気持ちは残っていたから。
「どちらにせよ、わたしにはもうあなたに対する愛情は残っておりません。婚約者なら、また別の方を──ああ、そうです。最後に一つだけ」
リアの言葉に、モーガンが愕然とする。それに気付いているのか、いないのか。リアは続けた。
「あなたが信じようと信じまいと、わたしに花瓶を投げつけてきたのはアビーです。その理由は、アビーがあなたを兄としてではなく、一人の男として愛していたから。だから婚約者であるわたしが憎かったそうです」
モーガンが、薄く笑う。
「……はは。そんな、馬鹿な」
モーガンは確かにアビーを愛している。でもそれは、兄妹としてだ。恋愛対象として見たことなど、一度もない。
「別に信じていただかなくても結構です。でも考えてみれば、あなたたちは相思相愛なのですから、よいことなのでは?」
嘘か本気かわからない口調で、リアが語る。そして、凍りついたように動かなくなってしまったモーガンに頭をさげた。
「──では、わたしはこれで」
リアが背を向ける。その背中に、モーガンが手を伸ばす。待ってくれ。行かないで。そう言いたいのに、声が出ない。
リアは結局、最後まで丁寧な口調を崩してはくれなかった。そのことからも、リアの確かな拒絶を感じていたモーガンの視界がにじむ。
「──馬鹿なやつだな、お前は」
ふいに、背後から声をかけられた。モーガンがゆっくりと顔を向ける。
「……レナルド」
「あれだけお前と、お前の妹を想ってくれる人なんて、リア嬢以外にいなかっただろうに。みずから手放してしまうなんてな」
「手放す……? レナルド、どうして君がそんなことを言うんだ。なにを知っている……?」
不思議そうに見てくるモーガンに呆れながら、レナルドは口火を切った。
「昨日、アビーがクラスメイトと揉めたとき、お前はいつものように妹のことだけを信じ、女の子にくってかかろうとしていただろ?」
「あ、あれは……っ」
モーガンがそこで口を閉じる。さすがにもう、全面的にアビーを信じてはいないのだろうか。思ったが、レナルドはそこには触れず、続けた。
「馬鹿なお前たちを止めたリア嬢は、そのあとその女の子に謝罪していたよ。頭までさげられてね。それからわたしに、このままだとお前たち兄妹が孤立してしまう。どうしたらいいでしょうかって、涙ぐみながら相談されてきて」
「…………っ」
「わたしは、お前と話し合ってみると答えた。でもリア嬢は、お前とは婚約破棄したから、もうよいのだとわざわざわたしの家まで来てくれたんだ。そのときに、婚約を破棄した理由を聞いてね」
モーガンが、顔面蒼白になりながら膝から崩れ落ちる。レナルドは、ただ冷たい視線を向けた。
「──お前はいいやつだと思っていた。妹のことを除けばな。けど、リア嬢に対するおこないは目にあまる。他にも、わたしが知らないことがあるのだろう?」
モーガンはうなだれたまま、答えない。
「いまこのときをもって、わたしはお前の友をやめる──ではな」
リアと同じように、レナルドが背を向け、去っていく。
モーガンはみずからのおこないによって、婚約者と友人を、いっぺんに失うことになった。
絶望のまま、モーガンはしばらくその場から動くことができなかった。
リアとモーガンの婚約が解消──実際は婚約破棄なのだが──されたことは、あっという間に学園に知れわたった。その理由について、両者ともに口を閉ざしたが、みなはモーガンの妹であるアビーにあるのではないかと噂した。
もともとの、リアとモーガンとアビーの関係性に加え、アビーはリアの悪口と共に、兄のモーガンが一生私のそばにいてくれると言ったのだとみんなに触れ回ったことが原因だった。
おかけで、モーガンの元にやってくる令嬢たちは、決まってこんな科白を言うようになった。
「モーガン様。私なら、アビー様と仲良くやれる自信がありますわ」
「モーガン様。私、アビー様と一緒に暮らすことになっても構いません」
あげく。
「私は、モーガン様がいずれ継ぐ爵位にだけ用があります。ですから私のこと、愛さなくても結構です。どれだけ妹様を優先しようと、私はなにも言いません。ですからどうか」
こんなことまで言われるようになってしまった。貴族の間では、政略結婚など珍しくもない。けれどモーガンは──いや、誰だって、愛する人と結婚したいだろう。
モーガンは一人、教室の片隅で座りながら、頭を抱えている。寄ってくるのは、家の爵位が公爵より下の令嬢ばかり。下心を隠そうともせず、話しかけてくる。モーガンはもう、うんざりしていた。脳裏に浮かぶのは、笑顔のリアの顔ばかり。
あの二人は、兄妹で愛し合っている。そんな噂すら耳にすることがある。それが嫌で、少なくとも学園にいる間だけでもアビーに近寄らないようにしているモーガンだったが──。
「──お兄様」
真正面から呼ばれ、モーガンがうつむいたまま肩をびくりと震わす。嫌いではない。愛しくなくなったわけでもない。だから、拒絶もできないモーガンが顔をあげる。
「……どうしたんだい、アビー」
「クラスのみんなが、私を無視するのです。私は、なにもしていないというのに」
「……そうか。それは辛いね」
アビーが「はい」と目をうるませる。モーガンはそれ以上、なにも言えなかった。どうしてアビーが無視をされているのか。モーガンは、今なら少しわかる気がしていた。
(……アビーが、どんな言いがかりをつけるかわからないからじゃないのか……?)
そもそも、無視をされているということすらアビーの被害妄想かもしれない。もっと早くこのことに気付いていれば、リアもレナルドも、失わずにすんだかもしれないのに。
リアはモーガンに、アビーにされたことを、レナルド以外には誰にも話していない。最後の情として、せっかく口をつぐんでくれたのに、アビーが台無しにした。モーガンはそんなことすら、頭の隅で考えるようになってしまった。