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はあ。
青空のもと。リアは広場にある白いベンチに座りながらため息をつき、あわてて口をふさいだ。すぐうしろに立つお目付け役兼護衛の三十代の男──ニールがちらっとリアを見たあと、ポケットから懐中時計を取り出した。
「……正午になりました。待ち合わせの時刻から、一時間が過ぎましたね」
「き、きっとやむにやまれぬ事情ができたのよ」
必死なリアに、ニールが片眉をぴくりとあげた。
「遅刻はこれで八度目です。この前など、二時間も待たされたあげく、デートそのものをキャンセルされたのですよ。いくらなんでも」
「わかってる。でも、お父様たちには言わないで。モーガンが叱られてしまうわ。そしたら、婚約の話すらなくなってしまうかもしれない」
「お嬢様……」
盲目的、とはこういうことを言うのだろう。リアは婚約者であるモーガンのことを、深く、深く愛している。こう言われてしまっては、ニールはもう、なにも言えなくなってしまう。
しばらくして。広場近くにとまった馬車から婚約者であるモーガンが飛び出してくるのが見えた。あわててこちらに駆け寄ってくる。
リアがほっと胸を撫で下ろすのが傍目にもわかった。デートをキャンセルされなかったことに安堵したのだろう。そう。リアは、たったそれだけのことにいつも安堵するようになってしまったのだ。
リアの前に立ったモーガンが、口を開く。今日もお決まりのあの言い訳をするのだろうか。ニールはこっそりと胸中で毒づいた。
「ごめん、リア。出かける直前に、アビーの具合が急に悪くなって」
やはり。ニールはため息をついた。リアは「そうなの」と答えているが、内心は同じ気持ちだろう。
アビーとは、モーガンの二つ下の妹である。最初のころは、病弱な妹を愛する優しい人なのねと素直に尊敬していたリアだったが、こうも毎回だと、さすがにその気持ちも薄れてくる。
(……しかも毎回。モーガンが出かける直前に具合が悪くなるのよね)
悪いが、少し疑いたい気持ちも湧いてくるというものだ。ただ、愛する妹のことを少しでも悪く言おうものなら、とたんにモーガンは不機嫌になる。もしそうなったら、さすがにニールが黙っていないだろう。両親にこれまでのことを報告されかねない。そうなったら、モーガンと別れなければならなくなるかもしれない。リアはそれがなにより怖かった。
「まだ具合は悪そうだったけれど、婚約者である君を優先してほしいと、アビーはこころよく私を送り出してくれたよ」
「……そう」
すでに待ち合わせの時刻から、二時間が経とうとしているが、それは果たして、本当に優先と言えるのだろうか。げんに、うしろに立つニールが殺気立っているのが前を見ていても伝わってくる。言葉にして告げてしまいたい。でも、嫌われたくない。これからのデートの時間を気まずくしたくない。そんな気持ちから、リアはいつも口をつぐんでしまう。
「でも、どんな理由であろうと遅刻は遅刻だからね。本当に、すまないと思っている。きっと優しい君でなければ、とっくに私はフラれてしまっているだろうね」
リアが答えずにいると、モーガンはためらいがちにリアに向かって手を伸ばした。
「……本当に申し訳ない。やはり、許してはもらえないだろうか?」
モーガンが捨てられた子犬のような目をする。リアは大きく息を吐き、そっとモーガンの手に右手を重ねた。
これもいつもの流れになりつつあった。リアにとって、妹のことさえなければ、モーガンは最高の婚約者だったから。
昼の日差しは心地よく、昼食をすませ、街で買い物をするころには、リアはすっかり上機嫌になっていた。なにしろモーガンのエスコートは完璧で、欲しいところで欲しい言葉をくれる。
「大丈夫? 少し疲れたんじゃない?」
「どうしてわかるの?」
「わかるさ。君のことならね。あそこで少し休憩しようか」
街中にあるベンチまで手を引かれたリアが腰かける。手に持った複数の荷物をベンチに置いたあと、モーガンもリアの隣に座った。
「そんなにたくさん買ってもらわなくてもよかったのに」
モーガンはいつも、リアが素敵、かわいいと言ったハンカチや小物などを、片っ端から購入しようする。毎回止めるのだが、いくつかは購入したあとだったりするのだ。
「こんなことしかできないのが情けないけれど、いくら妹のためとはいえ、君を待たせてしまったことへのつぐないがしたいんだ。それに私は、何より君の笑った顔が大好きなんだよ」
真顔で、真っ直ぐな言葉をささやくモーガン。見惚れるような、まぶしい笑顔。結局はこれで、いつも許してしまうのだ。それがモーガンの甘えにつながっていることは承知しているのだが。
(……本当にアビーの具合が悪いのなら、こんなことで怒っては駄目よね)
そんな考えも手伝い、リアは「もう怒ってないわ」と、笑った。
夕刻。
ニールが待つ広場へと二人で向かっていると、モーガンが「妹がね。また君に会いたいって言っていたのだけど」とひかえめに口火を切ってきた。
リアはぎくりとした。
「……ごめんなさい。このあとは、お父様とのお約束が」
「少しだけでも駄目、かな?」
哀しそうに、モーガンが重ねてくる。この言い訳を使うのは三度目だったりするので、リアはさすがに観念することにした。なにより、モーガンに嫌われたくなかったから。
「す、少しだけなら」
モーガンは、ぱっと笑顔になった。
「そうか、よかった。アビーもよろこぶよ」
リアは重く「……そうだといいのだけれど」とこっそりと呟いた。