岬
岬では冬の終わりを告げる強い風が吹き荒れていた。波が岩に当たって砕けた波飛沫が、まるで白い綿毛の様に岬の上まで飛んできている。
セレナは顔に張り付いた飛沫を拭うと、何度目になるか分からない大きな声で、崖の下へ向かって叫んだ。
「アーベル!」
だが下からは何の返事もない。セレナが覗き込んでいる崖下には二人の幼馴染がいた。一人は足を滑らして崖の下へと落ちてしまったクラリーサ。もう一人はそれを助けに降りたアーベルだ。
セレナの目からは、アーベルが着ている皮の上着は見えていたが、クラリーサが着ているお揃いの赤い外套は見えなかった。アーベルが着ている皮のコートは、打ち付ける波に濡れそぼって、今では焦げ茶色にしか見えない。
「アーベル!」
セレナはもう一度叫んだ。相変わらず答えは無かったが、濡れた革の上着が僅かに動くのが見える。その下にクラリーサの赤い外套も見えた。それも崖下から上がる飛沫に濡れてしまっている。岩に体を預けて波を避けられたとしても、これではすぐに体温を奪われてしまう。
『頑張って!』
セレナは崖下の二人の姿を祈る思いで見つめた。こうなっては村に助けを求めに行った幼馴染のマリウスが、縄と人手を連れて来るのを待つしかない。
どうしてこんなことになってしまったのだろう? 色々とあって、村には食料の蓄えがほとんどない。それでも妊娠中のクラリーサのお姉さんのアイリさんに、栄養を付けてもらおうと、岬にカメノテを取りに行く提案をしたのが間違いだったのだ。
でも冬の終わりの嵐がこんなにも早く、それに急に来るなんて想像も出来なかった。嵐の気配に気付いてすぐに、岩場から崖の上へと戻ろうとした。しかし風に煽られたクラリーサが足を踏み外し、下の岩場へと滑り落ちてしまったのだ。
それを助け出そうとアーベルが岩場に降りたところで、波が荒れ始めた。その結果、二人は海から突き出した岩場の上で、身動きが取れなくなってしまったのだ。
それからもうかなりの時間が過ぎようとしている。空を行く雲は暗くそして早い。風もさらに強くなっている。すぐに雨も降り出すだろう。春が近いとは言え、冬の海水に身をさらしては長くは持たない。
セレナは背後を振り向くと、岬から村へと続く一本道を見つめた。そこには誰の姿も見えはしない。枯れ草が吹き荒れる風に踊り狂っているだけだ。
マリウスがどんなに頑張って走ったとしても、誰かを呼んでここに戻って来るのに、一時間は優にかかる。それまで下にいる二人が持つとは到底思えない。
「アーベル!」
セレナは再び崖の下を覗いて叫んだ。だが僅かに体を動かしていたアーベルに、全く動きがない。セレナは袖で顔を拭うと、自分も崖下へ降りる決意をした。
アーベルは絶対に来るなと言っていたが、一人では無理でも、二人がかりならクラリーサの体を持ち上げられるかもしれない。セレナはクラリーサとお揃いの羊毛の外套と上着を脱いだ。吹きすさぶ冬の寒風が体温を急激に奪って行くが、そんなことを気にしている場合ではない。
セレナはカメノテを取るために持ってきたナイフで、外套を裂いて紐を作り始める。下までは足りないかもしれないが、それでも紐があれば、上へ登ることが出来るはずだ。そして紐を支えるための枝を探した。
背の高い大きな岩の下に、嵐の時に打ち上げられたらしい白い流木が見える。セレナは風に抗いつつそこまで走った。
ザザーー!
その時だ。まるで何千匹もの魚が水面を跳ねるみたいな音が、セレナの耳へ響いた。雨が岩場に当たって跳ね返る飛沫に、あっという間に自分の足元すら見えなくなる。
『ただでさえ波にさらされているというのに、この雨だなんて!』
セレナは心の中で叫んだ。肌着だけのセレナの体も、瘧でも起きたかのように震えはじめる。それでもセレナは骨の様に真っ白な流木を拾うと、崖の方へと戻ろうとした。だが不意に目に入ってきた黒い影に、セレナの足が止まる。
『何だろう?』
降りしきる雨の先、崖の向こうから黒い何かが浮かび上がって来た。それはセレナの視線の先で、ゆっくりと体を持ち上げていく。
『海坊主?』
不意に沖で船を沈めると言う怪物の姿が、セレナの頭に浮かんだ。
「ひっ!」
セレナの口から悲鳴が漏れる。影は恐怖におののくセレナを後目に、さらに崖の上へと体を持ち上げていく。だがセレナは恐怖に震えながらも、影が両脇に赤い色とこげ茶色の何かを抱えているのに気がついた。間違いない。クラリーサとアーベルの外套だ!
「クラリーサ! アーベル!」
セレナは先ほどまで感じていた恐怖など忘れて、黒い影へと駆けよった。近づくとそれは海坊主などではなく、黒い髪と黒い目をした背の高い男性だ。それが二人を両脇に担いだまま、崖の上に立っている。
男性は二人を少し平らになった岩の上へ丁寧に下ろすと、目の前に立つセレナを漆黒の瞳で見つめた。
「あ、あの――」
お礼を言いたかったが、セレナは何かに封じられてしまったかの様に何も口にすることが出来ない。
「ここでも子供は大事なのだろう?」
立ち尽くすセレナに向かって、男性が口を開いた。その口からは真っ白な息が漏れて、風に流れていくのが見える。都の方からでも来た人なのだろうか、その抑揚はセレナがこれまでに聞いたことがない独特の響きだ。
「え、ええ」
セレナは男性に向かって頷いて見せた。だがもうすぐ17歳になる自分達が、果たして子供と言える年齢なのだろうか? クラリーサが着ている赤い外套が、自分達をまだ子供に見せているだけなのかもしれない。
「不要な質問だったな。未来を背負うのだから、子供が大事なのは当たり前だ。それにこの時期に嵐が来るとは……」
男性は天を仰ぐと、降り続く雨を見上げる。
「統計と予測とはまったく別のものという事だな。事実の積み重ねであっても、それは理を現している訳ではない。身を持ってそれを確かめる事になるとは、我ながら愚かな事だ」
そう独り言のように呟くと、男性はセレナを不思議そうに眺めた。
「まだ冬だ。その恰好では冷えるぞ」
男性の指摘に、セレナは自分が肌着姿のままで、雨に濡れそぼっている事に気が付いた。慌てて腕で自分の胸元を隠す。それを見た男性は黒い長外套を脱ぐと、それをセレナの肩へとかけた。
『見知らぬ男性に半裸の姿を見せるなんて!』
この寒さにも関わらず、セレナは耳の後ろが熱くなる。だがそんな事より、男性が何者なのか確かめる方が先だ。
「あ、貴方は?」
セレナは我に返ると口を開いた。だがセレナの視線の先に男性の姿がない。
『まぼろし?』
慌ててセレナが辺りを見渡すと、男性はアーベルやクラリーサと一緒に岩の上に身を横たえて倒れている。
「あ、あの、だ、大丈夫ですか!?」
セレナの呼びかけにも答えない。天から落ちてくる雫が、白い飛沫を上げる音が響いているだけだ。
「誰か、誰か助けて!」
セレナは無常に雨を降らせ続ける空に向かって、助けを求めて叫んだ。
「セレナ!」
セレナの耳に、村まで人を呼びに行ったマリウスが、自分の名を呼ぶ声が微かに聞こえた。




