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幕間 : ジュリウス




『ジュリウス』



その声が聞こえるようになったのは、いつからだろう。



ぱちぱちと弾ける季節の祝福の煌めきに目を細めた冬至の日だったかもしれないし、真夜中に目を覚まし、見上げた夜空に悠々と羽ばたく竜達を見た時かもしれない。


だが、その声は追いかけようとすると消えてしまい、明瞭な何かが見えたり、耳朶を震わせるような声音が届くことはなかった。



けれども、聞こえるのだ。

多分、記憶の中のどこかで。




『ジュリウス』



まるで途方に暮れたような悲しげな声が、こちらに手を差し伸べるように。




ジュリウスは、王子としての教育が丁寧であったので、早熟な子供だったと思う。

なので、魔術の残響かもしれないが、聞こえる筈のない声が聞こえた事があるだろうかと、幼いながらにも詳細をぼかして兄に尋ねることが出来たのは幸いであった。


しかし、驚いたように目を丸くした兄は声を上げて笑って、そんなものが聞こえたら死ぬ程恐ろしいぞと言うではないか。


その言葉を聞いたジュリウスは、なぜか、不思議なくらいに腹が立った。

兄の言葉は尤もなのに、まるで、自分の大切な人を貶されたような気がしたのだ。





君はどこにいるのだろう。

どこで、私を呼んでいるのだろう。



私は、君の声が恐ろしくないし、寧ろ、君に会いたいと思う。

どこで私を呼んでいるのかを教えてくれたのなら、今すぐにだって、君を助けに行くのに。



どうしてそんなに悲しげで、助けを求めるような声なのに、どうして君は、全てを諦めているのだろう。

ジュリウスは、その声が聞こえると胸が潰れそうになって、わあっと声を上げてしまいたくなる。


けれども、その謂れのない悲しみの翳りをどうすれば取り払えるのかが分からずに困惑していても、なぜだか、その声を煩わしいと思ったことだけはなかった。


それどころか、どうにもしてやれないことが堪らなくて、両手で顔を覆って咽び泣きたくなるのだ。

そうしていつも、思い知らされる。

ああ、自分はこの声の誰かを、途方もなく愛しているのだと。



(ごめん…………。それなのに私は、君を見付けてあげられないんだ……………)




やがて年齢を重ねると、幼い頃のように途方に暮れる事はなくなったが、それでもその声が聞こえると、どこかで一人で泣いている声の主に謝りたくなった。


側にいてあげられなくてごめん、助けに行けなくてごめん。


ああ、君は今、どこにいるのだろう。

どうして私は、君を抱き締めてあげられないのだろう。

そこは、寒くはないだろうか。

きちんと食事は出来ているのだろうか。




君はまた、一人で泣いているのか。





「ルクレツィアと申します」



だから、辺境伯令嬢との顔合わせで、初めてルクレツィアに出会った時、ジュリウスは呆然とした。

何度も何度も記憶の中から聞こえてきていたあの声が、とうとう耳朶を震わせ、この耳に生きた音として届いたのだ。


けれども、やっと彼女を見付けられた事が嬉しくて歩み寄ると、その少女は、見事な貴族の礼をしてみせ、ひっそりと他人行儀に佇んでいた。



(君は、私を呼んでいたのではないのか………?)



ジュリウスが、その声を間違える筈もない。

ずっとずっと、探し続けてきたのだ。

王子としての教育の過程で、いずれは王家から離脱せねばならなくなる魔術騎士の道を目指したのも、騎士団の中で階位を上げてゆけば、国内を自由に移動出来るようになるからだった。


そんな風に、ずっとずっと君を探していたのに。



そう考えかけて、ひやりとする。

あの声はずっと、ジュリウスにしか聞こえなかった。

であれば彼女は、その声がジュリウスに届いていた事を知らないのかもしれない。




「初めまして、ルクレツィア嬢。良ければ、庭園を案内しよう」

「……………いえ、………ええ。とても嬉しいですわ」


なぜか最初は辞退しかけたものの、辺境伯の娘である彼女は、このような場面では大人しく庭園に連れ出されるしかないと察したらしい。


その躊躇いは無作法な程だったが、もしや、何らかの事情で教育を受けられていないなどの不遇があるのかと思い、二人きりになり様々な話題を振ってみれば、驚くほどに老成した返答が齎された。

受け答えにはいささかの稚拙さがあるものの、彼女の知性は充分過ぎる程に満ち足りている。



(となると、あまり他者との会話が得意ではないのだろうか。緊張しているのかもしれない……………)


そう考えたジュリウスの頭の中にあるのは、いつだって、自分を呼んでいたか弱く悲し気な声だった。



「ご覧、この薔薇は、夜の魔術を宿すものだ。香りもいいが、細い棘があるから触れないようにね」

「まぁ。とてもいい匂いですね」

「この本を読んでみるかい?最近は、ご令嬢達の中ではこの詩人の本が流行っているらしい」

「…………詩集なのですね」

「これは、収穫されたばかりの杏を使ったケーキなのだそうだ。クリームがとても美味しいのだとか。君が喜ぶかなと思って、用意させたものだ」

「有難うございます。とても美味しそうなケーキですね!」



薔薇の花はどうだろう。

皆が欲しがる美しい装丁の本や、美味しいケーキなら喜ぶだろうか。


どうして君は、もう私を呼ばなくなって、どうして、私がエスコートしていても、安心して寄り添ってくれないのだろう。


君は、あの子ではないのだろうか。


けれどももう、あの子が誰なのかも分からない。

もう一度この名前を呼んでくれたのなら、今度こそ見つけ出して、置き去りにしないで抱き締めるのに、なぜか、ルクレツィアと出会ってからはその声が聞こえなくなった。



その思いはもはや、妄執にも似ていた。

自分の思考が決して真っ当なものではないと気付いたその日に、ジュリウスは、堪らなくなってひっそりと泣いた。


やっと見付けた彼女には、溢れるほどのものをあげたいのに、彼女はいつも淡く微笑み、二人の間には目には見えない明確な境界がある。

その見えない境界を疎ましく思うこの思いは、一体何なのか。



(私は、君を愛しているのだろうか………?)



自分の思考が異質であるのならば、これは、ただの愛情ではないかもしれない。


それとも、自分でも気付かないようなどこかから、ずっと彼女に恋をしていたのだろうか。

どちらとも言えないまま手探りで己の心と向き合う日々は、ただ、心の暗がりを手探りで歩いているような気分だった。


真っ当な部分の自分が心の中で顔を顰め、こんな得体の知れない思いを抱くくらいなら、巻き込まれただけの哀れな少女を、一刻も早く手放してやれと囁く。

けれども、ルクレツィアに向ける思いがただの妄執なのか、それとも彼女自身に向ける愛情なのかを図り損ねている間に、三年もの月日が流れてしまった。




「やあ、王宮に来ていたのだね」

「はい。王妃様にお招きいただきました。………ジュリウス様、先日はお祝いをいただき、有難うございます」


それは、ルクレツィアの誕生日の翌日の事だ。

三度目の誕生祝いを贈ったばかりのルクレツィアと、偶然、王宮の回廊で出会った。


自分は、選んだ贈り物を従僕に届けさせたばかりなのだが、どうやら母は、直接会って祝ってやるようだ。

緊張している事が多いだけで、実際にはとても素直で可愛いご令嬢なのだと話していた母の言葉を思い出し、ジュリウスはふと、目の前の婚約者自身のことを、あまり知らないのだと気付いた。



(……………何という事だ)



ジュリウスが見つめていたのは、いつも、ルクレツィアを透かした、かつて聞こえていた声の誰か。

それはジュリウスがそうあるべきだと考えるルクレツィアであり、目の前で優雅に頭を下げたルクレツィアではない。


(私は、彼女があの声の主かどうかを確かめる事しか考えず、……………私の婚約者として、王宮で教育を受け続けてくれていたルクレツィアの事を、まともに知ろうともしなかったのか)


それがどれだけ身勝手で残忍な振る舞いだったのか気付き呆然としていると、ルクレツィアは、何も言わないジュリウスの様子に少しだけ怪訝そうにしたものの、近衛騎士達に付き添われてその場から立ち去ってしまった。



「…………私は、彼女に対して不誠実でした」


その日の夜、そう打ち明けたのは政務の打ち合わせをしていた兄だった。


「そう思うのなら、あらためて向き合えばいいだろう。どうあれ、我々に与えられるのは政略による婚約なのだ。だが、それは相手とて同じこと。その上で、未来の伴侶とどのような関係を結ぶのかは、双方の努力や選択に委ねられている。少なくとも彼女は、誠実に努力しているように見えるぞ」

「………選択肢は、果たしてそれだけでしょうか」


ぽつりとそう呟けば、兄が不思議そうな顔をした。

だが、ここでルクレツィアと誠実に向き合うと決めたとて、ジュリウスはきっと、あの声を生涯忘れる事はないだろう。



(…………例えそれが妄執だとしても、私には確かに聞こえていたものなのだ。……………応えられず、救えなかったものを、私が忘れる事はないだろう…………)



向き合い方を変えたとしても、その履歴はずっと残る。


顔を合わせ言葉を交わす度に、ジュリウスにしか聞こえない幻の声の主を重ねられるのだとすれば、それは、ルクレツィアにとってあまりにも酷い仕打ちではないだろうか。

探していた誰かではなくとも、ルクレツィアが誠実で努力家であることくらいは、ジュリウスだってよく知っている。


そんなご令嬢に、果たしてこんな男が相応しいのだろうか。



(彼女にとって必要のないものであれば、私はルクレツィアを解放してやるべきではないのだろうか)



このまま向き合えば、きっと、どこかでルクレツィアを手放せなくなる。

ジュリウスは、自分が弱い人間であることを知っていた。

望んだものを得られないことに失望している愚かな男は、いつか、それに代わる何か大事なものを欲するようになるだろう。

だが、その時にこの身勝手さの犠牲にするには、あまりにもルクレツィアは善良過ぎた。


失望や孤独を埋める為に寄り添って欲しいと願うのではなく、彼女のような善良な人間には、彼女でなければと望む者こそが相応しいのではないだろうか。

そして彼女には、自分がこの手の離し方を工夫さえすれば、いくらでもそのような相手が現れる筈なのだ。



「困った子ねぇ。そのように思うのであれば、それはもう、ルクレツィアに心を傾けているという証に他ならないような気がするのだけれど」


聞こえていた不思議な声のことだけは伏せ、別の理由を宛てがって素直な思いを打ち明けたのは、ルクレツィアを気に入っていた母と、辺境伯との関係を損なうわけにはいかない国王たる父にであった。


二人はジュリウスの申し出に困惑はしていたが、王族としての責務を果たせるだけの代替案も出しておいたので、渋々ではあるが、ジュリウスから彼女への婚約解消の提案をすることについて、頷かざるを得なかった。


そのように持ち込んだのだ。



「それは結局、ルクレツィア嬢を守る為ではないのか?途方もなく身勝手なやりようだが、お前は、自覚なく、あのご令嬢にそれだけの事を出来ているのだという事も理解しておいた方が、後々に後悔がないような気がするが」



その後、舞踏会の場でルクレツィアに婚約解消の提案を告げることを報告した兄からも、困ったようにそう言われた。


そう思われるのであれば、そうなのかもしれないが、ジュリウスは曖昧に微笑んで頷くだけにしておく。

あの声に応えたいという堪え難い苦しみが、何か、とても大切なものを失ったという欠乏感が、いつか自分を歪めるかもしれないだなんてことは、ジュリウスにしか理解出来ないものだ。



そして、そうなった時のジュリウスは、きっと彼女に相応しくないだろう。



だからあの日、夜の庭園であるがままのルクレツィアに出会い、彼女の微笑みや煌めく瞳に惹かれるばかりではなく、彼女が自分を望んでくれたことにこそ大きく心を動かされた時、自分はなんて勝手な男だろうと考えた。


けれども、あの夜にジュリウスと話していたルクレツィアを見たとき、決して見過ごしてはいけない、大切な予感のようなものがあったのだ。


今、彼女を愛おしく思うこの感情を、決して蔑ろにしてはいけないと、そう思った。

もう二度と、その手を離してはいけないのだと。



「ジュリウス」

「……………ここにいるよ」


名前を呼ばれて、振り返る。

顔を上げ、返事をし、手を差し伸べる。

はらはらと降り積もる花びらのように、ひたひたと満ちる水のように、その確信は重なってゆく。


「ジュリウス?」

「…………うん?」



時折なぜか、ルクレツィアは、不安そうにジュリウスの名前を呼ぶ。

それは、以前の自分を隠していた頃のルクレツィアには、なかったことだった。



(ああ、……………君だ。隠れていただけで、私が気付かなかっただけで、やはり、ここにいたのは君だった)




そこにいるのは、ジュリウスがずっと探していた人だった。



その確信はどこか穏やかで、ああ、間違っていなかったのだと胸を撫で下ろすようなものだったように思う。


そして、ルクレツィアが時折見せる、ひやりとするような諦観の眼差しを見る度に、どのような事があっても、もう二度と彼女を一人にはするまいと思うのだ。

髪を撫でて欲しいと言われた時に、なぜだかジュリウスは、わあっと声を上げて泣きたくなった。

もう二度と彼女が泣かないように、望むだけの全てをルクレツィアに与えてあげたかった。



もう二度と、どこにもいかないから。

もう二度と、そちら側には行かないでくれ。

もう二度と、君を一人にはしないから。



そう願うのは誰だろう。


流星雨の夜迄には、絶対に祝い守護の指輪を贈らなければならないと、儀式関係者達に首を傾げられつつも奔走したのは、どんな確信と、どんな恐怖によるものだろう。



今度こそは仕損じてはならない。



ジュリウスは今も何も分からないままだけれど、今度こそ、彼女を守らねばならない。

自分がなぜそんな事を思うのかを知らなくても、あんな思いを、二度とルクレツィアにさせるものか。




願い事を叶える星の降る夜に、どんな分岐点があったのかは分からない。

だが、多分、ジュリウス達はその夜を無事に超えたのだろう。


そして、そこでとうとう切り離す事が出来たのが、どんな運命だったのかを知る人物は、ジュリウスとルクレツィアの婚姻の儀の日にこの国を訪れた。





「あなたは、……………彼女の何かを知っている筈だ。……………それは多分、私が知らなければいけない事なのだろう」



大陸で一番古くて一番大きな国の王と王子が、ジュリウスとルクレツィアの婚姻の日に、過分な祝福を携えてこの国にやって来たのは、やはり異様な事であった。


涙ながらにルクレツィアを祝福する二人を訝しく思い、なぜか、ルクレツィアに妙に親し気な王子を儀式の後の宴席から追い出す体を装って、彼にそう尋ねた。



紫の瞳をした異国の王子は、こちらを見て僅かに息を呑んだだろうか。


彼は、ジュリウスの七つ年上の、兄と同じ歳の王子だ。

驚きながらも崩れる事はなかった冷静さに、王族としての経験の差を見せつけられたように感じてしまう。

だが、それ以上に老成した気配があり、それはどこか、ルクレツィアが時折見せる諦観にも似ていた。


だからこそ、ジュリウスは感じたのだろう。

この男は、あの王は、きっと何か大事なことを知っているに違いないのだと。

そして、初めて会う異国の王子に、幼い頃からずっと聞こえていた自分の名前を呼ぶルクレツィアの声について話した。



その事を話したのは、彼が初めてだった。




「ずっと昔、この大陸には、世界を食い荒らす怪物が現れると言う予言がなされたことがある」



僅かな躊躇の後に深く息を吐き、王子が話し始めたのは、そんな事だった。


何の話だろうと目を丸くしたジュリウスに、最後まで聞いているといいと付け加える。



「……………遠い遠い昔の事だ。我々の国の王族が、そのような災厄の封じ手になったことがある。その怪物は、まだ年若い娘が、愛する者達の全てを無惨に失い狂乱したものだと言われていたが、封じ手となった者達が見付けた時にはもう、もはや人としての面影は残していなかった」

「……………愛する者達の全てを失った、怪物………」

「不幸な事故と、それによる冷遇と、近隣の国々からの侵略があったと聞いている。その結果全てを失った怪物は、自分を守って死んだ愛しい婚約者を探して泣き叫び、殺された家族の名前を呼んで啜り泣き、そうして彷徨い歩く度に、この国は死んでいった。国一つが滅びるまでに、一年もかからなかったそうだ。……だからこそ、各国の対処も間に合わなかったのだ」



いつからか、その遠い昔の言い伝えは、まるで、目の前の男自身が見てきたことのように語られ始める。

ぞわりと肌が粟立ち、ジュリウスは、なぜだか部屋が急に冷え込んだような気がした。



「……そこまでの力を持つ怪物だったのだな」

「隣国にもその怨嗟は及び、新たな国が食われるのも時間の問題だと言われていた。だが、そこまでの被害とならずとも、国一つが障りにより滅びれば、大陸全土に甚大な影響が及ぶ。豊かな交易路が絶たれ、必要だった資源や技術が届かなくなった。障りの地に面した国々の国境域は寂れ、多くの避難民が各国の王都の暮らしを圧迫し、治安を悪化させた。だからこそ、我々が動かざるを得なかったのだ」

「そうか。……………連鎖的に、その怪物の出現によって、多くの国が傾いていったのか」



じりじりと広がる延焼のような被害は、何も直接的ではなくても構わないのだ。


難民の増加による治安の悪化や、様々な資源や食料の値段の高騰かもしれない。

けれどもそうした大きな波が立てば、長い時間をかけて築き上げてきた均衡は、間違いなく失われる。


そして、いずれは世界を傾ける災厄に育つかもしれない。



「……………とはまぁ、古い昔話だが、君が伴侶にした、あれほどの魔術を身に宿す人間が言葉にし難い程の不幸に見舞われ心を壊したのなら、もしかすると、そのような怪物になるかもしれない」



その一言は、鋭い刃のように、真っ直ぐにジュリウスの胸を貫いた。


一人の魔術師として、目の前の王子がどれだけの技量を持ち、かの国がどれだけの禁術とも言われるだけの偉大な術式を所有しているのかは、おとぎ話のような魔術師の噂話で聞いた事がある。


そこには、かつてこの大陸が戦乱の時代だった頃に一度だけ使用された、術者の命を代償にする時間魔術などの話もあった。



『………ジュリウス』


ずっと記憶の中で聞こえていた、悲しげなルクレツィアの声。

大国の王族の奇妙な来訪と、今の話。



(それはまるで…………)



「……………その怪物は、どうなったのでしょうか」

「その怪物を殺したのは私だ」



だが、そう言われて、かっと頭に血が昇った。

相手が大国の王子だと知りながらも心を制御出来ずに掴みかかり、こちらをひたと見据える静かな眼差しに出会う。


鮮やかな紫の瞳を過ぎった痛ましげな表情に気付き、ジュリウスは、はっとした。

そして、自分が彼の襟元を掴んでいる事に気付き、慌ててその手を離した。



「……………っ、申し訳ない。………あなたは、……」

「あの怪物には、君がいなかった。家族も、その他の愛する者達も。生まれ育った国も、頭を撫でてくれる誰かも、名前を呼んでくれる誰かも。……………私達は、その怪物の名前を知らず、それを知る者はもう誰も残っていなかったのだ。そんな哀れなものを、あのままにしておける筈がない」



その声はとても静かだったが、ジュリウスは気付いてしまった。



(……………そうか。あなたは、怪物を殺しながら、そのルクレツィアの悲しみにも、寄り添ってくれたのか)



だからこそ彼は、婚姻の儀を終えたばかりのルクレツィアを抱き締め、涙を浮かべて成婚の祝福を与えてくれたのだろうか。


そう思いかけ、ジュリウスは自分がもう、彼の話を信じている事に気が付いた。

目の前の男は、一言も時間を戻したとは言っていない。


けれども、それが答えだと考えていた。



(……………これは、全てが私の想像に過ぎない。だが、もし、…………その言い伝えの怪物が、ルクレツィアだったとして)



目の前の異国の王子が、かの国に伝わるという魔術を用いて、その顛末を回収したというのなら。

そんな俄かには信じ難いような過去が、どこかにあったと考えるのなら。



だが、そうすれば全てに説明がつくのだ。


なぜ、彼等がここに居るのかも含め、ジュリウスのずっと感じていた焦燥感も何もかもが。

あの声が、ジュリウスの記憶の底に、ずっと残り続けていた理由が。


もしそれが真実で、目の前の王子が、時間を巻き戻すという大がかりな魔術を展開してくれたのであれば、彼は、名前も知らない怪物を殺したのだろう。

そうせざるを得ず、けれども、その怪物を哀れだと思ってくれたのだろう。


(それだけの魔術が成されたのなら、そのために犠牲になったのは、彼自身でさえあったのかもしれない)



「……………これは、そのもしもの話だ。だが、もし、そんな怪物がどこかにいたとして、その怪物を殺した誰かがいて、……………もし、その事象そのものが、時間を戻して書き換えられるような事があれば」

「そうだな。……………そんな事を可能とする魔術が、どこかにあるかもしれない。容易に扱えるものではないが、それなりの対価を用意すれば、在り得ない事ではない」

「そうだな。そしてあなたは、その怪物が二度と現れないようにこの国を訪れたというだけではなく、彼女のことを案じてもくれたのだろう」



そう言えば、目の前の王子の瞳が、僅かに揺れた。

何かを言おうとしてその言葉を飲み込み、小さく、どこか悲し気に笑う。



「かもしれない。そしてそれは、私だけではないのだろう。……………あの時に、私の父も、あの怪物の慟哭を聞いた。落ちてくる星を拾っては、手の中でぼろぼろと崩れてゆく星に懸命に祈る怪物の姿はあまりにも悲しかったと、全てが巻き戻った後も、ずっと胸を痛めていた。子を持つ人の親として、あの慟哭は忘れられるものではないからと。……………だからだろう。父は、彼女が今日の幸福を得た事が、心から嬉しいのだ。それは或いは、私もそうなのかもしれない」



(なぜ、そこまで……………?)



そう考えかけ、ジュリウスはふと、何年も前に聞いた訃報を思い出した。


「……………あなたの国の末の王女は、体が弱く、魔術に呑まれて亡くなられたと聞いている」

「……………ああ。私のたった一人の妹は、身に宿した魔術の負荷が大きく、命を落とした。……………魔術に食われて亡くなる子供もまた、その最期は、悪変し、人の姿を失って怪物のようになって死んでゆくのだ。………父や私は、幼い声で家族の名前を呼ぶ怪物に、我が子や妹の姿を重ねたのかもしれない」



答えを得られるとは思わなかったが、目の前の男は、怪物に心を寄せた動機を隠しはしなかった。

時間が巻き戻ったのなら、その悲劇も取り返せなかったのかと言いかけ、繰り返してしまう運命もあるのだと肩を落とす。


生まれ持った体質は、何度繰り返してもその資質を変えられなければどうしようもない。

そして、その悲劇が繰り返されたのであれば、彼等にもどうしようもない事だったのだろう。

それに、取り戻す事の出来た時間の幅が、そこまでは届かなかったという事もあり得るではないか。



ここで、ぐっと息を飲み、ジュリウスは目の前の王子を見据えた。


もう、必要な話は終えたと思っていたのだろう、立ち去ろうとしかけていたものの、おやっとこちらを見た男に、本当は答えなど知りたくないことを問いかける。



「ルクレツィアは、一度目のことを覚えているのでしょうか」



覚えていて欲しくなかった。

ルクレツィアには、悲しいことなんて何一つ。

そんなものを手放せていないのなら、それはあまりにも酷い仕打ちではないか。


だが、もし、こちらでも繰り返してもおかしくはない運命が変わったのだとすれば、そのどこかには、大きな分岐がある筈だ。


ジュリウスがあの流星雨の夜に奔走したように、ルクレツィアもまた、何かを変えたのだとしたら。



「何が切っ掛けだったのかを私達は知らないが、恐らく、覚えてはいまい。これは、あの場にいた者達が望まない限りは、記憶を残さない術式だ。私と父は、管理者として自らの記憶を残した」

「……………そうでしたか。であれば、こちらの運命が変わったのは、偶然なのでしょうか」

「一連の事件の発端となったかもしれない事件を引き起こした竜は、ルクレツィア嬢が退治したようだ。報告を聞いて驚いたが、そのようなものへの危機感であれば、残っていた可能性はある」


その言葉に頷き、そういえばルクレツィアは、やけに竜を狩るなと思い至る。

それは、弟のペットにする為などではなく、本来はかつての悲劇を繰り返さない為の本能的な行動だったのかもしれなかったのか。



「………私のような、理由のない執着や残滓が、彼女になければいいのですが」

「ああ。そのような理由で、君は私を見付けたのだったな。…………であれば、その理由は明白だろう。君は、あの場所にいたのだ」

「……………は?」



思わず間抜けな返答をしてしまったジュリウスに、王子は、生真面目な眼差しでこちらを見る。



「得てして、亡霊は、意識が混濁し、記憶などが曖昧になるという。君は、国外には詳細は伏せられていたものの、あの怪物が観測される一年程前に、手負いの竜に襲われる不幸な事故で命を落としたと聞いている。………だが、恐らくは亡霊となって、彼女の側に留まり続けていたのだろう。怪物となった彼女に寄り添うのは、他の死者達には難しいだろうが、君の魔術量は、この国で唯一、彼女に匹敵する。君であれば、あの場に留まる事は出来た筈だ」

「私が……………?」

「その場にいて、彼女に手を差し伸べようとしていたからこそ、君には、自分の名前を呼ぶ彼女の声の記憶が、こうも強く残ったのではないだろうか。これは、あくまでも私の推測だが、………そのような理由でなければ、巻き戻し前の記憶が残る筈がない」



(ああ、…………) 



では、自分はそこにいたのか。

ルクレツィアの声に応え、必死に手を差し出そうとしていたのか。


けれども亡霊なので、触れられなかったのだろうか。



そう考えたら、息が止まりそうになった。

どんな思いで彼女が壊れてゆくのを見つめ、どんな思いで、彼女の声を聞いていたのか。

それはもう、今のジュリウスには知りようがない事だとしても、巻き戻した筈のこの場所まで、決して見失ってはいけない大事な思いを、どんな思いで残してくれたのか。



込み上げてくる涙をのみ込み、ジュリウスは、静かにこちらを見ている異国の王子に深々と頭を下げた。


目の前の王子は、この国の立ち位置で、本来このように足止めを出来るような相手ではない。

その叱責も覚悟の上で、それでも知らねばならぬと伸ばした手だが、こうして答えを得た今、彼が必要だと思うだけの謝罪はしなければならない。



「……………お見苦しいところをお見せした。そして、あらためて、心より感謝の意を示させていただきたい。……………私の愛する者を救ってくれたことを…」

「言わなくていい。………王族の放つ正式な言葉には魔術が宿る。それを結び、あの過去を今回の運命に重ねる事はしない方がいいだろう。君の感謝の気持ちは、言葉にせずとも受け取れる。……………それに私達は、あの子が幸せになってくれたのなら、それで満足なのだ。大きな犠牲を強いられたあの日の、私達の選択は間違いではなかったのだと、祝福に満ちた儀式からも知ることが出来た。……………もう、大丈夫だろう。彼女も、君も、この国や周辺の国々や、この大陸の運命も」




(だが、そのせいであなた達は、二度も、愛する者を喪ったのではないか)



時間を巻き戻し、ルクレツィアを救ってくれた彼等でも、我が子や自分の妹を救う事は出来なかったのだ。

そんな身内の悲しみを抱え、恐らくは、時間を巻き戻す魔術の為に、王か王子かのどちらかは確実に犠牲になっている。


そうでもしなければ成し得ないお伽噺の領域の禁術を使い、更には、ルクレツィアの幸せまでを願ってくれたことに、その伴侶として心から感謝しなければならない。



「それと、彼女には時々手紙を書かせてくれ」

「……………それとこれとは、話が違う」

「いや、そのような意味ではないよ。私と父とで、交互に送るようになるとは思うが、これは、我々が成した魔術の最後の手入れのようなものだ。君の中に一度目の記憶の残滓が残るように、一度は起こってしまった事への記憶や証跡は、彼女のどこかにも残るかもしれない。もし、彼女が何かを思い出し、或いは何かに触れたその時の為に、私達との交流は必要だろう」



そう言われてしまえば、断ることも出来ないではないか。


ジュリウスもこの国では第一席の魔術師ではあるが、時間を戻すような大掛かりな禁術を扱える大国の王族達には及びもするまい。


だが、己の不甲斐なさに思わず指先をきつく握り込んだことに気付かれたようで、目の前の紫の瞳の王子はふわりと微笑んだ。



「だが、多分、君がいれば大丈夫だろう。彼女が願い、探していた星は、ずっと君だったのは間違いない。……………その代わり、どうか、もう二度と、彼女を置き去りにするような真似はしてくれるな。あのような悲劇は、二度と見たくはない。そしてこれは、国を守る者としての願いでもある」

「……………ああ。約束する」

「それと、もし、周辺諸国の挙動で、何か不穏な気配があった場合は、君からもこちらにも相談してくれ。………私と父が、今日の婚姻の儀式に参加した事で、周辺諸国にはある程度の牽制にはなるだろうが、そのような動きが、再び悲劇の発端となっても堪らないのでな」



どこか悪戯っぽい口調でそう付け加えられ、そこまでが計算の内だったのだと瞠目した。

では、と片手を上げて立ち去る王子に、もう一度深々と頭を下げ、強く強く、心に誓った。



(……………もう二度と、ルクレツィアを一人になどするものか。彼女を怪物にするような悲しい事が二度と起こらないよう、私が、生涯をかけて守ってゆこう)





「ジュリウス」



だから今日も、名前を呼んでくれた愛おしい伴侶に、ジュリウスは手を差し出す。

もう二度と、ルクレツィアがはぐれることがないよう、もう二度と、彼女があんな風に悲しまずに済むように。



「大丈夫。ここにいるよ、ルクレツィア」



それはきっと、最初の自分が何よりも彼女に言ってやりたかった筈の言葉だ。

その言葉を携えて、これからはずっと、愛するひとと共に生きていく。



「…………時々さ、ジュリウスはそうやって笑うよね。どうして?」

「君に寂しい思いをさせてしまった日々を、取り返そうとしているのではないかな。君が安心していられるよう、これからはずっと一緒だと、日々伝えていかなければね」

「もしかして、…………まだ、婚約を解消しようとしたこと、気にしてる?」

「あの発言は、私の一生の汚点だな。…………そして、それまでの日々に、私が君に感じさせた孤独や悲しみも、これからの日々で取り払えたならいいのだが……」

「え、嫌だよ。どうして?」



思ってもいなかった事を言われ、ジュリウスはぽかんとした。



「え、………好ましくはないものだろう?勿論、そう容易く払拭出来るものではないのは承知しているが…………」

「でも、そこにはきっと、ジュリウスや、ベルや兄上や、父上と母上に、大好きなみんなとの思い出があるんじゃないかな。だから僕は、そういうものでもずっと持っていたいよ。大好きな人達のことを、絶対に忘れるものか」



にっこりと微笑みそう言い切ったルクレツィアを見て、ジュリウスは、堪らずに大事な伴侶を抱き締めてしまった。


どうして急に抱き締めるのとおろおろするルクレツィアに口付けを落とし、時間を巻き戻されて消えた大きな悲劇があったのだと彼女が知らずにいて良かったと、心から思う。



こんなに優しいルクレツィアが、もう二度と一人で泣かないで済むように。



「……………うーん。ジュリウスは、ちょっと繊細なんだよね。僕が守ってあげなきゃだ」

「夫としての立場もあるので、そこは、もう少し守られてくれてもいいのだけれどね」

「だってほら、そうやって、時々しょんぼりしちゃうでしょう?もう、僕が付いているから、大丈夫だからね!」



それは何だか違うと思ったが、ジュリウスは、渋々ながらも頷いておくことにした。


かの大国との繋がりも多少は借りさせて貰う事にはなったが、先日の外交で、近隣諸国の領土拡張の思惑は、全て叩き潰しておいた。

父や兄からは、隣国の大使がお前がいると震えて喋らないと苦言を呈されたが、そのような抑止力も必要だろう。


もう二度と、大事な人が取り残されないように、ジュリウスには今後、辺境伯としてこの国の境界を守り、愛する家族を守り続けてゆく役目がある。


彼女が手のひらの中の星を失わずに済むのなら、ジュリウスは、どんなことでもするだろう。




「私はこの上なく幸せな男だから、君が同じように幸せでいてくれるのなら、それでもいいかもしれない。………でも、君が私を守ってくれるのなら、私も君を守らないと均等にはならないだろう。そちら側は、任せてくれるかい?」

「……………あれ、それって、そういうものなの?」

「ああ、そういうものだ」

「うーん、じゃあ、半分こする?」

「そうだな、半分ずつが丁度いいだろう。これからは、ずっと一緒に歩いていくのだから」



その時のルクレツィアがあまりにも幸せそうに微笑んだので、ジュリウスは、慌てて兄に手紙を書かねばならなかった。


三日後に届いた兄からの返事には、伴侶の可愛らしさが最高値を記録する度に報告する必要はないので、安心して、記録を更新していくといいと記されていた。

















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― 新着の感想 ―
[一言] 本編も凄く良かったんですが、幕間のジュリウスで泣かされました。
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