朝の薔薇園と最後の願いのこと
淡い朝の光はとても澄んでいて、庭園の花々を瑞々しく見せる。
僅かな風があり、朝陽を透かした木立の影が揺れるとレース模様のようだ。
ぐいんと伸びをして、そんな素敵な朝の時間を楽しんでいたルクレツィアは、背後を振り返って、うぐっと息を詰めた。
朝からやって来たお客人と、大好きな家族がルクレツィアの朝の散歩に付いて来てしまったのだが、こちらの二人は、どうやら美しい庭園を鑑賞するだけの心の余裕はなさそうだ。
開戦前夜かなという緊張感に、ルクレツィアは途方に暮れていた。
二人とも大好きだが、朝の散歩は本来ならとても素敵な時間なので、可能であれば、別行動させていただきたい。
「今日の朝議などは宜しいのですか?王宮にお帰りになられては?」
「ベルナール、どうやら君は、私を追い返したいらしい」
そんなやり取りをしているのは、ジュリウスと弟のベルナールだ。
見目麗しい二人が立ち並ぶ姿はとても素敵なのだが、あまりにもぴりぴりとした空気に、庭木に飛んで来た小鳥がびゃっと逃げていってしまったではないか。
二人とも大好きなので、出来れば仲良くして欲しいなと眉を下げ、ルクレツィアは、朝露を纏った薔薇の花にそっと触れる。
(うん。………いい匂い)
「いえ、まさか。僕が殿下を追い返すなど、とんでもない。ただ、一人の臣下として、あのような騒ぎの後ですので、騎士団のお勤めには顔をお出しになるべきだと申し上げている迄です」
「はは、棘だらけだな。先程も話したが、私とルクレツィアは、様々な話をした上で婚約の継続を決めた。ゆくゆくは君の義兄となるのだから、もう少し歓迎してくれると嬉しいが。因みに、本日の予定は幾つか変更済みだ。そちらよりも、優先するべき事があったのでね」
「ルークと話し合いの機会を持たれたのなら、王宮での生活が、彼女にとってどれだけ負担になるのか、察してはいただけないでしょうか。父はまだ壮健ですし、僕はそれなりに優れた人間だと自負しております。ルーク一人くらい、生涯養ってみせましょう」
(………え?!)
さすがに聞き流せない言葉が聞こえてきたので、避難の為に少し離れていたルクレツィアは、慌てて駆け寄ると、弟の手を掴んだ。
いきなり手をぎゅむっとやられたベルナールは、ぱっと目を輝かせてこちらを見る。
とても可愛いので、早急に絵師を呼ぶべきだ。
「姉上!」
「ベルが可愛い……じゃなくて、……それは駄目だよ。僕を生涯養っていたりしたら、ベルのお嫁さんがびっくりしちゃうじゃないか。ジュリウスとの婚約を解消するとしても、僕は、家族の負担にならないように、必ずどこかには嫁ぐか、自分で生活が出来るようにはするからね?」
「いいかい、ルクレツィア。婚約は解消しないと話しただろう…………」
「姉上は、もう、僕の傍にはいてくれないのですか?」
「え、……………どうしよう。ベルが可愛い」
しょんぼりしたベルナールにそんな事を言われてしまい、ルクレツィアは、たいそう動揺した。
ベルナールは、立派な青年なのだが、淡い金糸の巻き毛に水色の瞳の、どこか少女的な可憐さを持つ青年でもある。
そんな弟が、悲し気な目でこちらをじっと見つめてくると、お兄ちゃんとしては、大きな川鱒でも釣ってきてあげたくなってしまう。
「ルクレツィア、まずは冷静に考えてみようか。ベルナールの年齢で、姉離れが出来ていないのは相当にまずい。今の彼の言葉は問題だよ」
「……………そうなの?」
「殿下。姉に婚約破棄を申し入れたあなたに、我が家の問題に口を挟んでいただきたくはないのですが?」
「破棄ではないし、婚約の解消はなしだ。彼女があの提案を受け入れた際に妙な噂が立たないよう、衆目のある場でその道もあるのだと示しはしたが、そちらはもう、彼女と話して共に歩くと結論を出している。………ルクレツィア、そろそろベルナールを自立させないと、君の大事な弟に婚期を逃させてしまうのでは?」
「……………もしかして、男の子にも婚期ってある?」
「ああ。君の家は、アルコルのせいで感覚が麻痺しているだろうが、ベルナールの年齢であれば、何年も前から婚約者がいてもおかしくはないのだからね?」
「た、大変だ、ベル!!今すぐ自立しよう!!」
恐ろしいことを聞いてしまい、ルクレツィアは慌てて弟の手を両手で握り締める。
甘やかさない方がいいとジュリウスがその手を引き剥がせば、すっかり拗ねてしまったのか、ベルナールが不機嫌そうに眉を顰めた。
「……………姉上。これでも僕はとても見目麗しいので、社交界では引く手あまたですよ。加えて、僕を是非にと望んで下さるご令嬢達の中に、姉上を嫌う者など一人もいません。ですので、今後も姉上が一緒に暮らしていても何ら問題はないのです」
「いや、問題だらけだろう」
「殿下?これは、僕とルークの問題ですので」
きりりとしてそんなことを言う弟に、ルクレツィアはこれはしまったぞと額に手を当てた。
ルクレツィアはベルが可愛くて堪らないが、辺境伯の娘として、そんな弟の主張に問題があることも理解出来た。
(そんな事を言われても、率直に、それは困ると言ってくれるようなご令嬢がいるだろうか。こんな可愛いベルを見たら判断力が低下してしまって、本当は嫌だと思っていても思わず頷いてしまったかもしれないし、社交術として、その場でだけ同意してくれていたのかもしれない………)
もし、ベルナールがルクレツィアの将来を案じるがあまり、婚期を逃していたのだとしたら。
「ベル、僕がお茶会で可愛い女の子を捕まえてくるから、一度会ってみる?僕の自慢の弟なんだから、少しでもお喋りすればきっとすぐに婚約者になってくれるよ!」
「……………姉上、ご令嬢を狩ってはいけません」
「ルクレツィア、王宮の茶会で参加者を狩らないように。大騒ぎになる」
なぜかここで、二人が息を揃えてそう言うので、ルクレツィアは首を傾げた。
王宮のお茶会に来るご令嬢達はあまりにも可憐でいい匂いがするので、既に、一人二人捕獲してしまったこともあるのだが、まずかっただろうか。
幸いにして、未だに苦情の類は届いていないし、その日は、一緒に仲良くお喋りをした。
みんな、頬を染めてとても楽しかったですと言ってくれたし、今でも全員と文通をしている。
勇気を出して話しかけてみると、みんな可愛いし、みんなとてもいい子達ばかりなのだ。
(だから、まずは僕が捕まえて、ベルナールに紹介すればいいのでは………?)
「前に、何回か可愛い女の子を捕まえて、二人でお喋りしたことはあるけれど、それは駄目?」
「……………そうか。君の評判が妙にいいのは、既に篭絡していたからだな。念の為に聞くが、声をかけたのは女性だけだろうか?」
「さすがに、ジュリウスと婚約しているのに、他の男性と二人きりになったり、知らない男性に僕から声をかけたりはしないよ」
「そうか。それなら良かっ…」
「でも、父上や兄上の知り合いや、仲良くなったご令嬢のご家族の方とは、家族ぐるみでお喋りしたかな。みんな、どうしてだかお兄さんを紹介してくれるんだ。……あ、あとは、教育係の先生達が王宮の知り合いを紹介してくれたり、護衛の騎士達とは、兄上と一緒にみんなでお茶会をしたよ!」
「……………それもか」
「あれ?ジュリウス?」
「………この通りですよ、殿下。絶対に、この生き物を王宮などに迎え入れてはなりません。父と兄は、その危険に気付いていないのです」
「ああ………。婚約は継続するが、早めに王都から離した方が良さそうだ……。特に、私の在籍している騎士団には近寄らせない方がいいだろう。………あそこにいるのは、有能だが異性には免疫がない、魔術にしか興味のなかったような男達ばかりだからな……」
何か叱られている風だぞと考えたルクレツィアは、途方に暮れて、婚約者のことをじっと見上げてみた。
慌てた様子のベルナールから、家族以外の男性を凝視してはいけないと叱られ、そうだ、婚約者でもいけなかったのだったと項垂れる。
すると、素早く手を伸ばしたジュリウスが、そんなルクレツィアの手を取った。
「ジュリウス………。無作法でごめんね。もうしないから………」
「おや、婚約者なのだから、私については構わないよ。ただし、私までだ。兄上についても今後は禁止する。こればかりは、ベルナールの意見が正しいと思うからね」
「……………そっか。うん。もし僕が、王太子殿下にうっかりこんな風に話しかけたら、大変な事になるものね」
婚約は継続するが、やはり、この言動が危惧されてもいるのだろう。
そう考え、悲しい事だがしっかりと自分でも気を付けなければならないと考えていると、ふっと微笑みを深めたジュリウスが、首を横に振った。
その眼差しの優しさに、ルクレツィアは目を瞬いた。
「いいかい、ルクレツィア。私は、王族としての責務がある以上はそれを表には出さないが、本来は、あまり人付き合いが得意ではない。どちらかと言えば、一人上手な方だ」
「……………え、そうなの?」
「その私が、君を気に入っている。それもかなり」
「…………う、うん?」
「おまけに君は、これまでになぜか一度も、悪辣な噂一つ立たなかった。本来なら少しくらいはその手の噂が聞こえてきても不思議のない環境下で、有り体に言えば、君の存在は異常だったとも言えるだろう。昨晩だって、私が君にあのような話をしたからか、ご令嬢の誰かから扇を投げつけられたくらいだ。そんな君を迂闊に野放しにした場合、一体、どれだけの大惨事になることか……………」
「……………え、僕、野放しにすると何をしちゃうと思われてるの?それと、扇を投げ付けられたの?!」
「その判断については、僕も概ね同意します。なので、やはり姉上には殿下の婚約者のお役目は荷が重い……………あ、姉上?!お、重くない、重くないよ、姉上!!そうじゃなくて、こんな腹黒王子がルークに相応しくないだけなんだ!!」
可愛くて堪らない弟も、やはりそう思っていたのかと淡く微笑むと、ぎょっとしたように瞠目したベルナールが、慌てて弁解を始めた。
きっと、ルクレツィアがしょんぼりしたので慰めてくれているに違いないので、分かっているから大丈夫だよと、そんな弟を安心させる為に優しく微笑みかけておく。
(大丈夫。自分でも、自分がどれだけ厄介かってことぐらいは、ちゃんと分かっているよ………)
今朝だって、人間に意地悪をしようと庭に忍び込んだ妖精を見付け、羽を毟って追い出していたら、家令が倒れそうになっていた。
「ほら、ベルナールも、君には充分に私の伴侶が務まると心から同意してくれた。君の場合は、その行動が問題視されるというよりも、信奉者を増やし過ぎるのが問題なのだろう。周囲とは適切な距離を置けばいいだけだから、安心して婚約者でいてくれ」
「ええと、今のはさすがに、ベルが僕を慰めようとしてくれただけの優しさからなる言葉だと分かるよ?……………あれ、どうしたのベル?何で泣いちゃったの?」
「…………そんなことない。姉上は、世界一可愛い……………」
「え、慰め方がおかしくなっているけど、僕は、ベルがちょっぴり僕を心配していることくらい、少しも気にしていないからね?」
「姉上なら、女王にだってなれる………」
「………ええと、王家への叛逆と取られるから、その慰め方はやめようか」
「姉上は可愛いし、優しいし、いい匂いがするし、世界一格好いい………」
何かがとても悲しくなってしまったらしく、めそめそしている弟の背中を優しく撫でてやり、ルクレツィアは、どうだ、ベルナールはとても可愛いだろうとふんすと胸を張る。
家族思いで優しい、素晴らしくいい子なのだ。
「あのね、ベルはこの前も………」
「ルクレツィア、私には、ベルナールの魅力を語る必要はないからね?」
「ベルの可愛い話、しなくていいの?」
「ああ。そして、ベルナールはやはり、まだ繊細なところがあるね。私と共に辺境領を盛り上げてゆく方が、彼には向いているだろう」
「……………うん。それについてはね、僕もそう思うんだ。ベルは優しいから、どちらかと言えば、補佐的な立場の方が向いているかなって。………だから、ジュリウスが我が家に来てくれて、ベルをずっと守っていられるのは凄く嬉しいよ。………でも、ジュリウスは、辺境域で暮らしてゆくのが嫌ではないのかい?」
「どうして?君がいれば充分だろう」
困惑した様子でそう返され、そう言えばジュリウスもお兄ちゃん感を求めていたのだと思い出したルクレツィアは、しまったという思いで慌てて爪先立ちになった。
ぎょっとしたように目を瞬いたジュリウスの頭を、伸び上がって撫でてやり、こちらも均等に大事にしているのだぞという感じを出しておく。
(あ、危なかった………!)
あまりにもベルナールが可愛くて、すっかりこちらへの気遣いを失念していたことに、気付かれないようにしなければだ。
しかしなぜか、ジュリウスは、目元を染めてぴしりと固まってしまっている。
「……………あれ、殿下、どうやって妹を篭絡したんです?」
「……………アルコル」
そこにやって来たのは、今回の騒動を聞きつけ、王都に向かうと先触れのあった、兄のアルコルだ。
優秀な魔術師でもあるので、辺境域からこちらには魔術転移で移動出来る。
到着したばかりらしく、僅かに香草のような魔術の香りがした。
鈍い金髪に青い瞳のアルコルは、母親似のベルナールに対して父親似だろうか。
がっしりとした体格だが面立ちは整っていて、陽だまりのようにくしゃりと笑う。
少しだけ歳が離れているので、ルクレツィアにとっては、もう一人の保護者のような頼もしい家族だ。
なお、兄だけ歳が離れているのは、兄の誕生後に、国境域の周辺が少し不安定になったからである。
まだ幼い息子と妻だけを王都に預け、一人で辺境域に残った父は、随分寂しい思いをしていたそうだ。
なので多分、この歳の離れた兄が父の仕事に毎回同行するのは、お酒が入るとその当時の寂しさを切々と訴える父の側に、少しでも早く並んであげたかったからなのだろう。
(兄上は、少し不器用だけれど、とても優しい方なのだ!)
こちらも自慢の家族なので、そんな兄がなかなか伴侶を決めないことを、ルクレツィアは密かに案じていた。
こんな妹を隠しているせいだろうかだとか、風の噂のように、本当に男性が好きなのだろうかとあれこれ思い悩んできたが、まさか、とうに婚約者がおり、辺境伯家に第二王子が婿入りするまでの待ち時間だったとは。
「なぜ、今迄黙っていたんだ?」
だが、同じようにそう問いかけたかったルクレツィアではなく、今は、ジュリウスがそう尋ねている。
ジュリウスと兄は仲良しだが、それでも、王族からの静かな問いかけにはひやりとしたのか、アルコルは視線を伏せた。
「…………すまない」
「確かに、言い難い事だったのかもしれないが、友人としてであれば、伝えてくれても良かったのではないか?………お前であれば、私がこのようなことを問題視しないと知っていた筈だろう」
「まぁな。………魔術騎士団には、様子のおかしな騎士しかいないしな」
「………せめて、変わり者が多いと言ってやってくれ。………お陰で、私達は随分と遠回りをさせられたような気がする。彼女に気を配り、私が自分で気付くべきであったのは間違いないのだが、昨晩のような事になる前にどうして言ってくれなかったのかと、恨み言の一つも言いたくなるものだ」
「それは、……………ルクレツィアが、可愛いから?」
「…………とてつもなく深刻そうに言われたが、まさか、そんなどうでもいい理由で私を締め出していたのか……?」
「だ、だが、こんなに可愛いのに、言動が変わっているというだけの事で、ルクレツィアが、君に虐められたら可哀想だろう!」
ルクレツィアとしては、ジュリウスが大好きだったので、問題視されるまでは隠し通すつもりであったが、兄はいつもこうなのだ。
とは言え、ジュリウスが、今回のようなことを問題視しない気質であったのは初耳である。
てっきり、うっかりルクレツィアが滅ぼさないからというだけの理由で選ばれた婚約者なのかと思っていた。
「………アルコル。王家に対して問題のある発言でもあるし、私に対しても、失礼だとは思わないのかい?」
「だが君は、少々性格が捻じ曲がっているところがあるだろう?そんな君に、言動の矯正の為にと淑女教育を無理強いさせられたら、ルクレツィアがどんな目に遭うか………。せっかく今のままでも可愛いのに」
「ほお、そのような男の下に、彼女を嫁がせようとしていたように聞こえるが?」
「それはなぁ。……………他の男だと、うっかりルクレツィアに儚くさせられても困るからだ。可愛い妹が、そんな悲劇に見舞われたら可哀想だろう……」
「……………儚く?」
「ルクレツィアは、俺と父上が同時にかかっても到底敵わないくらいに強いからなぁ。その、……………なんだ。婚姻の後に何かの弾みで相手を、………だ、だが、お前であれば問題ないだろう!何しろ、魔術総量や術式の保有量も含め、国内で唯一ルクレツィアに勝る男だからな」
(……………兄上。酷いや………)
擁護と懸念を織り交ぜて、そんな事を言い出したアルコルに、ルクレツィアは瞠目した。
確かに、竜は沢山狩ってきたし、辺境で大暴れしていた手負いの黒竜王なども、二度と刃向かわないようにずたぼろにした上で、こちらの国の動向を窺う為の斥候などを送り込んできていた隣国に、てやっと投げ入れてきたことがある。
結果として、警戒するべき隣国が少しだけ弱体化したので、父や兄には沢山褒めて貰えたのだが、これでも今は、恋する乙女でもあるのだ。
大好きなジュリウスに、うっかりお相手を殺しかねないくらいに狂暴だと思われたらとても困るので、どうかもう、あまりその部分に触れないで欲しい。
だが、そんなルクレツィアの思いも虚しく、二人の会話に割って入れずにいる内に、あまり知られたくなかったことが、無情にもジュリウスに告げられてしまった。
考え込むようにこちらを見ている婚約者に、ルクレツィアは、またしょんぼりしてしまう。
先程までめそめそしていたベルナールは、大好きな兄に久し振りに会えて嬉しかったのか、懸命に兄の腕を引いて、何やら耳打ちしていた。
「……………やっぱり、婚約はやめる?」
「いや、それはやめないよ。良い夫婦になろう」
「僕、竜とかも結構簡単に狩れるけど、…………乱暴過ぎてがっかりしない?」
「ああ。勿論だ。ただ、……………一つ懸念があるのだが、質問をしてもいいかい?」
「うん。正直に答えるから、何でも聞いて」
婚約者でいたいのなら、誠実な対応を心がけ、ジュリウスと分かり合えるようにせねばならない。
そう考えてこくりと頷いたルクレツィアに、ジュリウスは、思いがけない質問を投げかけた。
「………何か、精霊や魔物など、あまりお目にかかれないような生き物を使役したり、知り合いだったりはしないかい?」
「ほぇ。………何でそんな事を聞くんだい?」
「ありがちな事例として、念の為にね。思いがけないところに、高位の隣人と容易く縁を結ぶ人間がいるものだよ。そちらでも誰かを手懐けていないかどうかを、今の内に確認しておきたいんだ」
「ありがちなのかな………」
怪訝な面持ちでジュリウスを見上げると、なぜか彼は、金色の瞳を細めどこか疲れたような遠い目をした。
「我が国では、王と王妃がまさにその一例だ。母上は、川で拾ってきた精霊に首輪をつけて散歩していたところを父上に見初められている」
「わぁ、精霊って飼えるんだね。僕も、飼えるような可愛い精霊なら、会ってみたいなぁ。でも、殆ど食べちゃうから…………」
「ルクレツィア、少し待ってくれるかい?心を落ち着かせて…………もう一度訊くけれど、………精霊は知っているのだね?」
「うん。よく食べるよ!辺境域には鹿の精霊が多いから、大抵は捕まえて食べてしまうかな。とても美味しいんだ」
「…………そ、そうか」
「ジュリウスも食べるかい?今度、料理してあげるよ。鹿肉だから、香草で香り付けをして焼くか、シチューにするのがいいんだ。僕はお兄ちゃんだから、料理にはちょっぴり自信があるんだよ」
「…………それは、兄である事とは関係ないのではないかな」
「そう?」
首を傾げたルクレツィアは、そう言えばなぜ、いつの間にかジュリウスの腕の中にいるのだろうかと目を瞬いた。
ちょっと恥ずかしいのだが、ルクレツィアの言動を懸念し、悪さをしないように捕まえておこうという措置なのかもしれない。
ルクレツィアも、ベルナールが小さい頃はよくこうして捕まえていたので、同じような理由なのだろう。
「ジュリウス?」
「…………うん?」
名前を呼べばこちらを見て優しく微笑むジュリウスに、ふと、胸の中がおかしな音を立てた。
“ルクレツィア、君が無事で良かった。…………どうか、………生きて………”
そう言って、もう息をするのも苦しい筈なのに、ジュリウスが髪を撫でてくれたのは、いつの事だっただろう。
安心させるように微笑み、大丈夫だよと言ってくれたまま、二度と瞼を開かなかったのは。
でも、それはもうあの星降る夜の向こう側で、ここにはないものだ。
そして、あの時のルクレツィアも、もういない。
「……………あのね、ジュリウス。………もし嫌じゃなかったら、頭を撫でてくれる?」
「っ、…………ああ。勿論だ」
「ごめんね。僕がお兄ちゃんなのに、ちょっとだけ、こうして欲しくなっちゃった。………さすがにこれはがっかりした?」
「まさか。これから、幾らでも撫でてあげるよ」
「…………うん!」
一瞬、困惑したような目をしたジュリウスが、すぐに優しく微笑みかけてくれる。
微笑みの形にきゅっと深くなったジュリウスの唇を見て、ルクレツィアは嬉しくて嬉しくて、ぴょんと飛び跳ねたくなってしまう。
大好きなジュリウスが側にいてくれて、温かくて息をしていて、幸せそうに微笑んでいてくれる。
ああ、これ以上の喜びがあるだろうか。
(これからはもう、ずっと、こんな日々が続けばいいのに)
ごうごうと唸る風の音。
遠い悲鳴や慟哭と、投げつけられる怨嗟の声。
足の下でぱりぱりと崩れる誰かの命に、燃え盛る炎の中のもう誰もいない国。
でも、それはもう過去のこと。
あの星の降る夜が明けると、ルクレツィアの手のひらには、なぜか、二度目の人生が降ってきた。
そしてそれは、今もこの手の中にある。
(だから僕は、二度と星には祈らない。その代わりにどうか、僕の最後の願いだけは、このままずっと叶い続けていて欲しいんだ…………)
家族がいて、ジュリウスが、何だかよく分からないけれど、ルクレツィアを嫌いにならないで今も一緒にいてくれて、こんな風に微笑みかけてくれるなんて、とても素敵な朝ではないか。
しかし、ルクレツィアが満ち足りた思いでにこにこしていてると、こちらも可愛い宝物であるベルナールが、なぜか悲しそうにアルコルの袖を引いていた。
「兄上、僕は、ジュリウス殿下は嫌だ…………」
「諦めろ、ベルナール。魔術師としての才能は国内随一、それなのに婿入りが可能で、尚且つ腹黒くて外面がいいときている。危なっかしいルクレツィアの番犬としては、この上ない人材だぞ?」
「……………アルコル。君には、王族に対する不敬という概念が抜け落ちているようだが………」
低い声でそう言ったのはジュリウスだが、はらはらしているルクレツィアをよそに、アルコルは愉快そうに声を上げて笑うではないか。
「この様子なら、どうせすぐに義弟だろう!家族なら構わないだろうが。それに俺は、長年の友人でもあるお前になら、ルクレツィアを任せられると思っているからこそ、こんな話をしているんだぞ?多少捻くれているが、お前は根が善人だ。心を傾けた相手を、心を差し出して守ってくれる誠実な男だと知っている」
「………成る程、兄妹そっくりだな。彼女の性格はお前譲りか……」
「この通りだ、ベルナール。ちょっと性格が歪んでいるけれど、やっとしっかりルクレツィアに惚れたようだから、これならば安心だ」
「僕が、ずっと守ってゆけるのに………」
会話の内容には少し困惑してしまうところもあるけれど、ルクレツィアは、とは言えこれは、家族と仲良しという話で、加えてジュリウスとも仲良しでいいのかなと首を傾げた。
目が合ったジュリウスが、ふわりと微笑む。
「昨晩のような話を公の場で出してしまった以上、早い段階で、君と私の今後の関係が継続されることを、より広域にかけて公にしておこう。婚約の継続については報告してあるが、もう少し分かり易い形で、我々がこれからも共にあることを知らしめようと考えている。………例えば、祝い守護の指輪を、先に贈っても構わないだろうか?」
「…………嬉しいけれど、儀式のお作法としてはまずくない?あの指輪は、婚姻の日の三月前に渡される、花嫁の守護の指輪だよね。伝統の儀式作法を変えることで、ジュリウスが何か言われてしまわないかい?」
この国には、婚姻を控えた花嫁を様々な災いから守る為に、祝いの守護を込めた指輪を贈る風習がある。
妖精や精霊の中には、花嫁を好んで攫う邪な者達もいるので、そのような生き物たちを退ける為に身に付ける物なのだ。
それは、大事な人が幸せでありますようにと贈られる、古い風習に基づく儀式道具だ。
いつかのルクレツィアが憧れていた、きらきら光る細工の美しい銀の指輪である。
「三月と決まっているのは、指輪に彫り込まれる守護が、その程度しか維持出来ないからだ。付け替えてゆけば問題ないし、私の付与魔術ならもう少し守護を長持ちさせる事も出来る」
「………ほぇ。………何個も貰える物なの?」
「ああ。必要なだけ。…………だが、二個もあれば充分だろう」
「大事にするね。………凄く、大事にする」
その指輪が欲し過ぎて我慢出来なくなり、堪らずにルクレツィアがそう言えば、ジュリウスが愛おしげに瞳を細めた。
ベルナールが何故か頭を抱えてしまったが、アルコルはにっこり笑って祝福してくれる。
きらきらと木漏れ日が落ち、柔らかな風が吹いていた。
(…………嬉しいな。その指輪が、ずっとずっと欲しかったんだ………!)
一人ぼっちになった怪物が呼び続けていたのは、いつだって、自分を守ってくれた大好きな婚約者の名前だった。
一度目のルクレツィアがその人に二度と会えなくなったのは、祝い守護の指輪を貰う筈だった日の十日前の事で、それは、一度目のルクレツィアの手には終ぞ齎されなかった祝福だったのだ。