沈黙の乙女と薔薇の魔術師
「婚約の解消も考えてみないか」
国王夫妻も参加する舞踏会の会場で、唐突にそんな響きが落ちれば会場がしんとするのは当然と言えた。
その言葉を向けられたのは、薔薇の魔術師と呼ばれる第二王子の婚約者、ダーシー辺境伯の娘ルクレツィアである。
静謐な冬の湖のような水色の瞳に、天鵞絨のような夜空の色の巻き髪を持つ美しい少女は、類稀なる魔術の才にも恵まれているという。
決して裕福なばかりの国ではないが、だからこそ、辺境伯の果たす責務は大きい。
二王家の一つであるリアックの姫が嫁いだことも昔話という程に前のことではなく、この国の中でも指折りの名家だ。
その辺境伯家の一人娘のルクレツィアは、舞踏会やお茶会ではっとするような華やかさを見せる令嬢ではなかったが、その代わりに、誰かが彼女を貶める事もなかった。
魔術騎士としてその名を知らぬ者のいない、ひやりとするような美貌の有能な王子の婚約者として、それは異例のこととも言える。
一つの国を象る貴族達の輪は、如何なる時も決して一重ではなく、定められた婚約という物は、大抵が婚姻を結ぶまでぐらぐら揺さぶられる不安定なもの。
それなのに、対抗派閥の娘達も出席していた舞踏会やお茶会で、ルクレツィアの悪評や、ちょっぴり彼女に意地悪な噂すら聞こえてこないというのは、天秤のどちらの傾きかはさて置き異常なことであった。
そんな前評判だけを聞いていれば、ルクレツィアが、よりにもよって、婚約者であるこの国の第二王子から婚約の解消を提案されているのは異常な事態と言えた。
何しろここは舞踏会の場であったし、第二王子はルクレツィアをその舞踏会へエスコートしている最中ではないか。
騎士服のようだが、どこか魔術の裾野に触れる不穏な美しさを孕む漆黒の盛装姿のよく似合う美しい薔薇色がかった銀髪の王子は、ふんわりと艶やかに微笑み、星のかけらのような淡い金色の瞳を細めた。
「執着がないということは、互いにとって不利益とも言えよう。なので、この婚約を見直しても私は構わないよ。私はただの私という男に過ぎないが、共に背負う王族の責務というものは、時として鋭い棘や苛烈な毒になる。私自身にも、第二王子妃という立場にも執着がないのなら、この婚約は君には向かぬのだろう」
「……………まぁ」
それは、物語本に取り上げられる一方的な婚約破棄のような無責任なものではなかったが、儚げな美貌を持ち、水色の瞳を困惑したように瞠ったルクレツィアに対して、あまりにも冷酷な仕打ちにも思えた。
淡く微笑み困ったように僅かに眉を下げると、儚げな美貌のルクレツィアは、じっと婚約者を見上げる。
あまり口数が多い方ではないのだと、伯爵家の三男が、隣に立つ婚約者にそっと耳打ちした。
でも、あの方は自己主張をなされない。
それは美徳でもあるが、王族の妃としては無責任とも言えようと呟いたのは、辺境伯令嬢でなければと第二王子妃の候補に上がっていた娘を持つ侯爵だ。
そんな騒めきに耳を澄まし、第二王子は小さく苦く微笑む。
「それでは嫌だとも、是非にそうしたいとも、やはりあなたは言おうとはしない。なぜだろうね。…………今日、このような場所で婚約の解消も可能だと提案したのは、あなたが、そうして何も言わないからだ。このような場であれば、…………まぁ、ある意味公平な周知が出来るから、そうせざるを得なかった」
「公平な周知の為に、………でしょうか」
「ああ。君に瑕疵はない。それを何よりも多くの者に知らしめ、その上で、私の理由も同じようにしたかった。当事者の片方は口が固く片方は王族ともなれば、結果だけが公表されると、いいように邪推されてしまうだろう」
第二王子がそう言えば、成る程と頷く者達がいる。
現王の側近達は、とは言えあまりにも不躾ではないかと眉を顰めているが、婚約の解消となれば、どうであれ噂話は広がるものだ。
であれば、出来るだけ多くの者達が集まる場所でこそ、誰にも作り替えられないよう最初から最後までが本人の言葉で知らしめてしまうというのは、乱暴だが効率的な方法である。
少なからず批判は受けるにせよ、騎士であり、魔術師でもあるジュリウスらしい戦略とも言えた。
とは言えこれは、ルクレツィアが沈黙の乙女と呼ばれるくらいに物静かな女性であるからこそ、有効でもあると評価されるやり方だろう。
「ただ何の問題もないというだけではやはり、時として、己の命を国に差し出さねばならないこの場所で生きるには弱いと、私は考えている。私は君が嫌いではないし、積極的に婚約を解消しなければと思うような事情もない。君に、自分の意思で望んで貰えるような価値が私やこの国や王家にあるのなら、婚約はこのまま継続しよう。勿論それは、政治的なものでも構わない。…………だが、君の側に何の理由もないのであれば、私の婚約者という立場は君を幸福にはしないだろう」
「…………そう………ですわね」
ルクレツィアは、ほんの少しだけ悲しげに見えた。
ふぁさりと揺れるドレスは、花びらのような軽やかなシルクに独特な技法で細かな皺付けをし、本物の花びらのような質感を出した素晴らしい物である。
華美になり過ぎず、どこか静謐で凛とした雰囲気を持つ菫色のドレスは、ルクレツィアを夜の妖精のように見せていた。
その立ち姿は美しく、けれども、その微笑みはただ静かなばかり。
やはり、このまま一緒におりましょうとは言わないのだと笑顔になったのは、かつての第二王子の婚約者候補達だ。
既に婚約者を得ている者もいたが、まだ婚約者を定めていない者もいたし、王家との繋がりを得られるのであれば、現在の婚約はどうにかしてしまえるという立場の者もいる。
彼女達にとって、第二王子のジュリウスは未だに最有力と言える伴侶候補であったし、王子自身が告げたように、彼だけでなく国というもののひと匙までもがお盆の上に載せられる契約は、素晴らしいものに間違いない。
そこまでをよく知る者達が、一人の乙女が婚約者を失うという事の無惨さを知った上でも色めき立つのは致し方なかった。
「やはり難しいかな」
「……………そう……かもしれませんね。ですが、わたくしの一存では決められません」
「うん。それはそうだろう。一度持ち帰って、君のお父上も含め話をしてみてくれ。この婚約が解消となっても、辺境伯と王家との関係に何ら変化はないし、婚約が解消されるのであれば、その代わりに、長年の奉仕に見合うだけの配慮や今後の関係について提案させて貰うつもりだ。……何より、私達は仲違いした訳ではないのだから、君とは友達でいたいしね」
「………はぁ」
それはまぁ、なんと勝手な言い分だろう。
そう考えたのはルクレツィアであったが、ジュリウスも、王子としてそう言わねばならないということも分かっていた。
寧ろ、やや腹黒めと言われる彼の性格上、今回の提案をこの場ですることを独断で通したとは思えない。
このような言葉を付け加えて貴族達を安心させることは、国王や王太子からの注文であったのかもしれない。
(でも、そうか。…………婚約は解消かな。ジュリウス様のことは好きだったけれど、………私向きではなかったのかもしれないなぁ)
おっとりと微笑んだルクレツィアに、ジュリウスは薄く苦笑すると、この話はまた今度にしようかと、ダンスを踊る為に手を差し出してくれる。
こんな話の後だが、まだ二人は婚約者で、何しろ、仲違いした訳ではないとする以上、一緒にダンスを踊るのは当然なのだ。
その夜、ルクレツィアは婚約者と二曲のダンスを踊り、その日は知り合いの貴族達と僅かにお喋りしただけで退出させて貰う事にした。
敢えて遅れて参加したに違いない国王夫妻はとても心配してくれたが、このような夜だからとルクレツィアをそっとしておいてくれる優しさもあったので、今回の提案はやはり、ジュリウスの側の要求なのだろう。
辺境伯としての父や兄の立場が損なわれた訳ではないと知り、ルクレツィアは胸を撫で下ろした。
辺境伯の立場は強固なものだが、国境域の守り手として、国に摩耗され易い危うさもある。
(でもまぁ、王子様なのだから、王子としての役割を支えてくれる伴侶こそが欲しいのだろうなぁ。ジュリウス様は、騎士で魔術師だから、………何とか需要と供給が噛み合うと思ったのだけど)
帰りの馬車の中である。
胸が痛まないでもなかったが、そう考えて自分なりに納得すると、ルクレツィアはえいやっとドレスを脱ぎ捨てた。
馬車の中なのでお付きの侍女はとても嫌がって泣いて止めたが、舞踏会から脱出したのであれば、コルセットなどという恐ろしいものとは早々におさらばなのだ。
「馬車の中ですよ、お嬢様!!」
「ごめんね、ミシェエラ。でもほら、僕の腰は繊細だから、こいつにぐいぐいやられると折れちゃうからね」
「お嬢様!本当に繊細ならば、目隠しのカーテンがあるとは言え、馬車の中で着替えたりなどはしませんわ!」
「もう大丈夫だよ。提案とはいえ解消というよりは破棄に近い感じだし、僕はもう、王子様の婚約者ではなくなるんだろう。ちょっと寂しいけれど、住み慣れた土地を離れなくて済みそうだし、あのまま、日々の会話で語彙力の欠如と戦わなくて済むんだよ」
にっこり微笑んでルクレツィアがそう言えば、仲良しの侍女はハンカチを目元に当て、しくしくと泣き出した。
「…………あんなに可愛らしかったお嬢様が、どうしてこんな事に。私は、伯爵様やアルコル様を許しませんわ……」
「大袈裟だなぁ。父上も兄上も、ご自身の仕事に対して誠実であられただけなんだ。責めないであげてくれるかい?」
「そのお陰で、お嬢様がこんな面倒なことに!!」
「そもそも、ミシェエラは、僕とそんなに年が離れてないのに、いっつも自分の娘みたいに言うんだもんなぁ……」
ハンカチを目元に当てて泣いているルクレツィア付きの侍女の方が、余程、高貴なご令嬢らしい振る舞いではないか。
竜を手掴みにして持ち帰った時にだって、この可愛い侍女は気絶してしまったくらいだ。
「じゃあ、僕はひと駆けしてこよう」
やがて馬車が屋敷に着くと、馬車を降りたルクレツィアはそう言って、脱いでしまったドレスを抱え、迎え出た侍女達に丁寧に渡した。
お嬢様はまたやったかという使用人達の眼差しに苦笑していると、悲しげな目をした侍女の一人が、乗馬用の上着を持って来てくれる。
「……………舞踏会で、ご婚約者様に婚約の解消を提案されたのですよ?!そんな夜に、お一人で乗馬なんて!」
「だからかもしれないし、舞踏会の夜は、いつもそんな気持ちになるんだよ。危ないことなんてないから、安心しておくれ」
「それは存じております!お嬢様は、坊ちゃんのペットにと竜を片手で捕まえてこられる方ですもの」
「まぁね!」
「喜ぶところではございませんよ?!」
ざざんと、夜風が吹き抜ける。
美しい美しい満月の夜に、あんな風に煌びやかなシャンデリアの下に集まるなんて、美しい夜への冒涜ではないか。
そんな事を大真面目に考えるルクレツィアは、辺境伯の娘として生まれた。
最初から馬に乗るのが大好きだった訳ではないが、今は大好きだし、剣も魔術も得意であった。
だからこんな夜は、愛馬に跨って、王都に構えた辺境伯の所有する広大な敷地の中にある森や丘をこれ幸いと駆け回る。
(ああ、気持ちいいな…………)
なぜ辺境伯が王都の西域を占める広大な土地を保有しているのかと言えば、有事の際に、王都から魔術騎士達を国境域に送るための拠点としてであった。
国境域までのんびり行軍させていては間に合わなくなるし、大々的に騎士達を集めれば、小さな国だけに国民の不安を煽る。
その点、王都の外れに辺境伯の所有地を作っておけば、辺境域に送る食料などの集約にも使えるのでいいではないかということらしい。
移動の手間は魔術で補えるが、それを可能とすることもまた、諸外国には秘密なのだ。
ここは、当代の辺境伯が壮健であれば、シーズンの間だけ、後継者となる長子や王都での催しに参加する娘達に預けられる屋敷で、今は、ルクレツィアと弟が滞在している。
因みに弟も先程の舞踏会の会場にいたが、辺境伯代理として早々には帰れないので、宥めすかして会場に置いて来た。
ルクレツィアは元々、ジュリウスの婚約者として王家の馬車と護衛を出して貰っていたので、帰りの足も心配ない。
(……………あ、)
夜空を流れた一筋の星に目を奪われていると、はらはらと、夜風に薔薇の花びらが舞った。
馨しい薔薇の香りにふと、薔薇の魔術師と呼ばれる婚約者を思う。
そう呼ばれるくせに薔薇色を思わせる要素はどこにもないのだなと思っていたら、言われてみればというくらいに薔薇色がかった銀髪に、ひやりとするような暗く艶やかな微笑みから、彼は、薔薇の魔術師と呼ばれるようになったらしい。
確かに美しい人だなと思ってはいたが、その通り名の理由を聞いてからはずっと、成る程、とても素敵な名前だなと思っていた。
薔薇の魔術師という名前がどこかで囁かれる度に、それは自分の自慢の婚約者殿なのだぞと、ルクレツィアはふんすと胸を張っていたのだ。
(……………好きだったのだ)
相応しくないのに相応しいふりをしてずっと隣に立っていたが、あの聡明な人には、やはり隠し通せなかったらしい。
とは言え、悔いはなかった。
自分でも、不利な戦場でかなり頑張ったと思っているし、婚約者殿のことを本当に思うのであれば、ここで潔く手を離すべきだろう。
彼が足りないと思えば、きっと足りないのだ。
無念だが、ルクレツィア自身の頑張りがここを上限とする以上、このまま彼にぶら下がってその足枷となるのはいけない。
流石に堪えるなと思えば、じわりと目の奥が熱くなる。
(でも、……………僕はもう、星には祈らない)
「……………はぁ。ジュリウス様のことは好きだったなぁ。でも、やっぱり駄目かぁ」
くしゅんと項垂れたルクレツィアが、思わずそんな事を呟いてしまったのは、やはり落ち込んでいたからだろう。
よもや、その当人が背後に忍び寄っているだなんて、考えられる筈もなかった。
「おや、それならばなぜ、あの場でそう言ってくれなかったのかな。……………それと、私のよく知るルクレツィアと、随分と雰囲気が変わるものだね」
「…………え」
今はまだ、王宮で舞踏会が続いている時間である。
だからこそ、舞踏会が終わる時間まではお客もないだろうと、こんな風に過ごしていたのだ。
それなのになぜ、今夜こそ時の人とも言えるジュリウス王子がここにいるのか。
振り返った瞬間、咄嗟に婚約者を昏倒させて逃走しようかと思ってしまったルクレツィアだったが、初恋の人に後遺症などが残ってはならないと何とか踏みとどまる。
他人のふりをすることも考えたが、姿形が変わる訳ではないのだから流石に難しいだろう。
「…………男物の服だね」
「ええと、僕は…………」
「僕?………これはこれは。………私の婚約者殿には、とびきりの秘密があったらしい」
「……………ええと、その、……すまなかった」
「ふうん?私を好きだと言うのに、あの場で何も言わなかったのは、この状態と関係があるのかな?」
にっこりと微笑んだジュリウスは、怜悧な美貌が際立ち、はっとするほどに美しかった。
気圧されるようにじりりと後退しかけ、逃がさないぞと言わんばかりにしっかりと腕を掴まれてしまったルクレツィアは、そう言えばこの婚約者は、兄から怪物並みと言わしめた自分よりも強い御仁なのだと今更ながらに思い出す。
だからこそ父や兄達は、この人物なら、ルクレツィアが嫁入りしても、間違って儚くさせてしまうこともあるまいと、ジュリウスを婚約者にする為に画策したのだ。
ちょっぴり腹黒い御仁だから、騙し討ちにしてもいいよねと虚ろな顔で笑いながら。
「………ルクレツィア?」
「ごめん、ジュリウス!僕は、………僕は、お兄ちゃんなんだ!!」
「……………は?」
しかし、もう言い逃れは出来ないぞと覚悟を決めたルクレツィアの渾身の謝罪は、美麗な第二王子をたいへん困惑させたようだった。
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