気の重い旅路
「はぁ~・・・帰りたーい」
ガタガタと小刻みに揺れる馬車の車内は、外の陽気にかかわらず重く、暗い。
それはその馬車の乗客の一人であり、主賓でもある彼女が明らかに暗い表情をしているからだろう。
馬車の広くはない座席に横たわり、心底面倒臭そうにしている黒髪の美女、セラフは長々と溜め息とつきながら、帰りたいと嘆き続けていた。
「ねー、ケイシー?もうこれ、帰っちゃわない?別に、それでいいでしょ?ねー、御者さーん!エインズワース方面に、引き返してくださる?」
どうしても今からこの馬車が向かう場所に行きたくないという様子のセラフは、外の御者へと呼びかけると、それを無理矢理引き返そうと試みていた。
「お、お嬢様!?いけません、そのような事は!!え、はい。そのままで、そのままでお願いします!えぇ、引き返すのなしで!!」
そんなセラフの振る舞いに慌てて声を上げたのは、彼女の侍女であるケイシーだ。
彼女は馬車の車内と御者台を隔てる窓を開けて、不安そうにどうすればいいのかと尋ねてきた御者に対して、決して引き返してはいけないと厳命している。
「えー、なんでよー!?いいでしょー、ケイシー?ねぇー?」
「い、いけませんお嬢様!それだけは、如何にお嬢様の頼みだとしても認める訳には参りません!!これは、奥様からきつく言いつけられておりますから!!」
御者の反応に僅かな光明を見出していたセラフは、それを味方だと思っていたケイシーに潰された事にショックを受けてしまっている。
セラフはなんとかケイシーを懐柔しようと甘えた口調で彼女に縋りつくが、それもすぐに振りほどかれてしまう。
セラフの甘えた仕草をなんとか振り切ったケイシーは、両手でばってんを作ると絶対にそれは受け入れられないと、強い拒絶を示していた。
「大体、今回のお話には相手方もいるのですよ!!それをお嬢様の都合だけで引き返すなど・・・許される事ではありません!!」
お見合いともなれば当然、相手側も存在する。
それをこちらの都合だけで一方的に断るなど、許される事ではないとケイシーはセラフを叱りつけている。
そんな彼女の言葉に、セラフは拗ねたように唇を尖らせると、背中を丸めては小さくなっていた。
「いいじゃーん、別にー!どうせ相手なんて、脂ぎったおっさんでしょ?知ってんだからね、私!今から行くコールドウェル家の当主っていったら、あのエロ親父じゃない!!舞踏会の時に、いっつも身体を押し付けてくるのよ、あいつ!!そりゃ、奥さんにも逃げられるってもんよ!!」
相手もいることだから今更断れないと語るケイシーに対し、セラフはその相手が嫌なのだと主張していた。
社交界の花形であったセラフは当然、様々な貴族と親交がある。
それはすなわち、今回のお見合いの相手とも顔見知りであるという事であった。
「そ、そんな事が・・・」
「ねぇ、分かるでしょケイシー?私、嫌なのよ・・・あんな奴の奥さんになるなんて。だからお願い、ここから引き返しましょう?」
セラフに付き従い舞踏会に赴いていたケイシーも、実際にその中で起こった事までは知り得ない。
そのためセラフから初めて聞かされたその事実に、彼女はかなりショックを受けたように表情を青ざめさせている。
彼女のそんな姿に、セラフが僅かに唇を歪めたように見えたのは、果たして錯覚だろうか。
「そ、それは・・・い、いえ!やはりいけません、そのような事は!!大体、どうしても嫌というのならば会ってから断ればいいではありませんか!!奥様も、そこまでは強制しない筈です!!」
涙ながらに語りかけては情に訴えてくるセラフの仕草に、ケイシーは自然と追い詰められて、狭い車内の隅っこへと追いやられてしまっている。
彼女はそのままセラフに押し切られそうになっていたが、最後のギリギリの部分でどうにか踏み止まると、やはり今更引き返すわけにはいかないと叫んでいた。
「・・・ちっ、後ちょっとだったのに」
「あー!!お嬢様、また騙しましたね!!身体を押し付けられたという話も、本当はなかったのですか!!?」
陥落寸前に見えたケイシーの予想外の振る舞いに、セラフも思わず本音が見え隠れしてしまう。
悔しさに思わず漏れてしまった舌打ちは当然、ケイシーにも見つかってしまい、彼女はその様を指差しては騙されたと叫び声を上げていた。
「違いますー、それは本当の話ですー!!あーぁ、セクハラ辛いなー!誰も分かってくれなくて、辛いなー!!」
「それは同情いたします、同情いたしますが!!それとこれとは話が別!!お嬢様にはしっかり、貴族としての義務を果たしていただきます!!!」
騙されたと叫んだケイシーに対して、セラフは不満そうに頬を膨らませると、それは本当の事だと喚きたてている。
彼女は自分の辛さを誰も分かってはくれないのだと、わざとらしく振舞ってみせるが、そんなことではもはやケイシーの心は揺るがない。
セラフの言葉に同情を示したケイシーはしかし、断固としてお見合いには参加してもらうと、前のめりになっては彼女にはっきりと言いつけていた。
「その・・・結局、どちらに向かえばいいのでしょう?」
段々と激しさを増していく彼女達の言い争いに、気付けば車窓から覗く景色の流れが遅くなってしまっていた。
それは彼女達の言葉に、一体どちらに向かえばいいのか分からなくなった御者が、その手綱を緩めてしまったからだろう。
彼は自発的に車内に繋がる窓を開けると、そこから不安そうな様子で彼女達の様子を窺っていた。
「引き返すのよ!!」
「このまま進んでください!!」
明確な方向性を決めて欲しかった御者に、返ってきた答えは清清しいまでに反対の方角を示していた。
発声のタイミングだけはピタリと合った二人は、その正反対な内容にお互い睨み合うと、再び取っ組み合いを開始してしまっていた。
「何よ、ちょっとは賛成してくれたっていいじゃない!!」
「だから!それは出来ませんと、先ほどから申し上げてるではないですか!!」
再び取っ組み合いを始めてしまった二人は、相も変わらず平行線な議論を続けている。
その様子に欲しかった言葉は聞けそうにないと溜め息を漏らした御者は、そっと窓を閉じる。
「はぁ・・・とりあえず、どっちになってもいいようにゆっくり進もう」
既に中間を過ぎてしまっている道程に、出来れば引き返したくないというのが御者の本音だろう。
そのため彼は緩く手綱を握ると、ゆるゆると馬を進ませ始める。
それは仮に引き返すことが決まったとしても、言い訳が出来る程度のスピードであった。
ここまでお読み下さり、ありがとうございます。
もしよろしければ評価やブックマークをして頂きますと、作者のモチベーション維持に繋がります。