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苦手な方はご注意ください。

或る街の商人…

作者: K1.M-Waki

 青空文庫で「ベニスの商人」を読んでみたものの、釈然としないモヤモヤした気分が続きました。

 案の定、しばらくして変な夢を見るようになりました。

 じっと心に抱いているのも気持ち悪いので、短篇に書いて吐き出すことにしました。

 書き記す際に、かなりの部分を脚色しています。そのままを記述すると、あまりに気持ち悪くなるもので。

 因みに三人称視点で語っていますが、実際に夢見た自分の立場は伏せてあります。それくらいは許して。でないと、頭が変になりそうで……。


では、少々ボリュームがありますが、本文をお楽しみ下さい……




 今は昔、或る街の裁判所。その大法廷で、今まさに判決が言い渡されようとしていた。


「原告イサヤン・ナザールの訴えの通り、被告ベルモントを有罪とする」


──ザワ、ザワ、ザワ


 傍聴席がどよめいた。それも不満気に。

 そのざわめきを気にする風もなく、裁判長はその続きを述べた。


「原告は契約書に則り、被告の身体から借金の担保として『肉一ポンド』を取り出し受け取ること」


──ザワ、ザワザワ、ザワザワザワ、ザワ


 傍聴席のざわめきは、もう止めようがない。

「静粛に!」

 裁判長が、左の手元に置いてあったハンマーを取り上げると、それを何回か打ち鳴らした。

 法廷内に再度、静寂が訪れる。

「ただぁし、契約書を見る限り、被告が担保として差し出せるのは『肉一ポンド』それのみである。それ以外の如何なるものも記されていない以上、人肉一ポンド以外を取り出すことを認めることは出来ない。たとえ、その血の一滴でも、被告の身体から流れ出ることがあってはならない。原告は、契約を一字一句違えず厳正に実行すること。契約を交わすという事は、そういうことです。……出来ますね」


──ブツ、ブツブツ、ブツ、ブツ


 今度はざわめきではなく、囁く声だった。

 原告イサヤンは、悲しそうな顔をしていた。一度、裁判長に向けて顔を上げ、何か言いたげにしていた。しかし、生きた人体から『血を流さずに肉一ポンドを切り出す』などと云う行為を出来ようはずもない。彼は、黙ったまま首を横に振るしか術がないように見えた。

「出来ないと言うのですね。では、『契約は無効』と言うことになります。よって、原告は被告から貸出金を取り戻す権利を放棄したと認めます。良いですね」


──クス、クスクス、クス、クスクスクス


 傍聴席の呟きが嘲笑に変わりつつあった。

 原告イサヤン・ナザールは、目を伏せなから頷いた。誰の目にも、それは肯定を意味しているととらえられた。

「よろしい。しかし、原告が被告の人肉を担保とする契約を結んだ事実は、消えることはない。原告の貸金業イサヤンの行おうとしたその行為を、当法廷は見逃すことは出来ない」

 裁判長は、一旦区切ると傍聴席を見渡した。街の住民の全員が集まっているのではと思われるほどに人で溢れ返った裁判所内は、熱気に溢れていた。ある期待のこもった熱気に。

「神をも恐れぬ……、いや、原告は異教徒であったな。しかし、我らが神を冒涜し、いたずらに街の住人を脅かし、尚且、裁判を起こしてこの街の法律に挑もうとしたその行いは、許し難いものである。よって、イサヤン・ナザールから『貸金業許可証』を取り上げる。そして、イサヤンは貸し出した債権を全額放棄すること。更に、その財産は全て没収、街から追放処分とする」


──わぁー、わぁーわぁー

──わぁーわぁーわぁー、わぁー


 傍聴席からは歓声が沸き上がった。被告席のベルモントは傍聴席を振り返ると、片手を挙げて自らの勝利を示していた。その中でただ一人、金貸しのイサヤンだけが悲しげな顔をして俯いていた……。



 では何故、こんな茶番のような裁判に至ったのだろうか?


 被告席のベルモントは、都会の裕福な家の三男坊だった。幼い頃から甘やかされ、なに不自由なく育った彼は、お約束通りに放蕩三昧をするような大人になった。だが、それを是としなかった両親は、彼を鍛え直すために、一通りの生活が出来るだけの資金を持たせてこの街に送ったのだ。

 しかし、両親の監視が無くなった分、その放蕩振りは輪をかけてひどくなった。金遣いは荒く、後先を考えずに贅沢をした結果、一年も経たない内に彼は無一文になった。


(もう、昨日までのような生活は出来ないなぁ。どうしようか……)


 その時、彼はあることを考えついた。


(街で三番目に裕福な家。あそこには、まだ若い未亡人が居るではないか。彼女に取り入って結婚することが出来れば、もう金に心配することはなくなる)


 元より彼にまっとうに働くなどと云う考えが、一欠片(ひとかけら)も思い浮かぶはずがない。

 しかし、彼の未亡人に言い寄るとしても、『仕込み』は必要だ。

 身なりを整え、プレゼントを用意し、食事や舞踏会にも誘おう。けれど、そのための資金は、もう手元には残っていなかった。

 そこで、彼が思い出したのが、金貸しのイサヤン・ナザールだった。

 十年ほど前にこの街にやって来たイサヤンは、ベルモントや街の住民のような、白い肌や色素の薄い髪の毛をしていなかった。浅黒い褐色の肌と黒い髪、黒い瞳を持つイサヤンは、明らかに人種の違う異邦人だった。


「あなたは、我らが神を信じ、神に従う者ですか?」


 街の教会の神父が尋ねたところ、彼はしばらくそのことについて思案していたようだった。しかし、長考の末の答えは「ノー」であった。

 異教徒であると分かったイサヤンを雇おうとする者は街の中に居なかった。彼が何かしらの事業を始めようとしても、住民が異教徒の店を利用するとは思えなかった。

「だが、心配することはありません。あなたは清潔で身なりも整っています。それは誠実さの証だ。それに、幸いあなたは充分な財産を持っています。それを元手にして『貸金業』を営んではどうでしょう。許可証は裁判所でもらうことが出来ますよ」

 異教徒の異邦人ではあったが、神父はそう助言を与えた。

 ベルモントは知らなかったが、当時の街は経済的に行き詰まっていた。物資を運んでくるはずの商隊の到着は遅れ、売り掛けた商品の代金は一向に届かず、手形を割引こうにもそのための現金が無い。中小の店や業者は資本を削りながら、ようよう自転車操業をしていた。彼等には、当面のつなぎ融資や、日に日に膨らむ利息を払うための短期の資金が必要だった。しかし、困窮してるのは誰もが同じ。融資に応じることの出来るだけの資本を持っている者は何処にも居なかったのだ。

 そんな時に現れた異教徒の財産は、街にとっては喉から手が出るほど欲しいものだったと云う訳だ。


──資金さえなんとかなれば、異教徒には許可を与えて金貸しでもさせておけばいい


 最初はその程度の考えだった。しかし、イサヤンは金貸しとしての才覚があったに違いない。彼の投資により街は危機を脱した。のみならず、彼が支援した店や業者はことごとく成功し、投資した資金は金貸しとなったイサヤンに応分の利益をもたらした。

 街の住人たちは、利息の払いや返済期日に融通を聞いてくれるイサヤンを、異教徒ではあるものの便利な金貸しとして頻繁に利用するようになった。

 そして十年。街はかつてないくらいに栄え、それに応じてイサヤンの財産も増えた。

 その一方で、金貸しの過去をよく知らない者も増えた。彼等は、異邦人の異教徒のくせに裕福なイサヤンを羨ましく思い、妬んでもいた。ベルモントも、そんな者達の一人だった。


 件の未亡人にプロポーズをするために、ベルモントはイサヤンに借金を求めた。金貸しは、理由も大して訊かずに快く資金を提供した。個人である筈のベルモントに、無担保・低金利で金貨一袋を貸し出したのだ。

 借りた金でベルモントは、服を新調して身なりを整え、彼女の喜びそうなプレゼントを用意し、夜ごとに舞踏会や観劇に誘っては、豪華な食事を楽しんだ。

 当然、借りた金はあっという間に枯渇する。しかし、手足を使って働くことを知らない放蕩者には、借金以外に金を手に入れる方法はなかった。

 再び金貸しイサヤンの下を訪れたベルモントは、更に借金を重ねた。先に借りた分を返すどころか、利息を払うあてすら無い。元よりイサヤンを『金にガメつい卑しい異教徒』くらいにしか認めていないベルモントは、彼に借りた金を返す気など毛頭なかったのだ。

「金が要るんだ。もう少しで、愛しい彼女を射止めることが出来る。彼女と結婚すれば、借金なんて倍にして……、いや三倍にして返してやるよ。だから、金を融通してくれよ」


(豪邸に住む、未亡人ではあるが未だ若くて美しい彼女。彼女さえ自分のモノとすれば、もう金のことを心配する生活からおさらば出来る)


 そんな夢物語のような理想の展開が、ベルモントの頭の中では確かな現実味を帯びた計画として映っていたのだ。

「ベルモントさん。あなたは彼女を愛しているのですか。彼女を幸せに出来ますか?」

 金貸しイサヤン・ナザールの問に、

「勿論だとも。彼女を愛しているんだ。自分以外に彼女を幸せに出来る男は他に居ない」

 と、彼は言い切った。

 興奮気味のベルモントを見て、イサヤンは哀しげな表情を見せた。しかし、彼は、そんな金貸しの様子には全く気が付かなかった。熱病を帯びたように、彼女への愛と自分が如何に優れた男性であるかを交互に語るだけであったのだ。

 そんな彼に、金貸しは、金貨の入った袋と契約書を取り出した。

「内容を確認したら、サインをしていただけますか」

 彼は小躍りして袋を引っ掴んだ。金貸しの言葉は半分も耳に入っていない。すぐにでも駆け出しそうなベルモントを押し留め、イサヤンは契約書の内容をしっかりと言い聞かせてから、彼にサインをさせた。

 しかし、ベルモントは、数日もすると渡された金貨を使い切り、再びイサヤンの下を訪れた。交わされる言葉はいつも同じ。


──金が要る

──彼女を愛している

──もう少しで婚約に漕ぎ着けるはずだ

──彼女は自分にメロメロなんだ

──結婚さえ出来たら借金なんてすぐに払ってやる

──彼女には自分が必要なんだ

──だから金が要る


 こんな事が、数度も繰り返されたろうか。

 さすがの金貸しも、借金を渋るようになった。返済が滞っているからではない。贅沢な暮らしのために借金をしては散財する事が、ベルモントに良くない未来を与えることが分っていたからだ。

「だから、彼女と結婚したら借金はまとめて返してやるって言ってるだろう。勿論、利息も余分につけるつもりだ。彼女を愛しているんだ」

 懇願する放蕩者に、金貸しイサヤンは尋ねた。

「その愛は本物ですか? あなたは、ご自分が神を信じるが如く、彼女を愛していますか?」

 まるで教会の神父のような金貸しの言葉に、

「勿論だとも。彼女を心から愛している」

 と、ベルモントの舌は別の生き物が宿っているかのように、間髪入れずに返答した。

「その愛のためには、本当にお金が必要なのですか?」

 尚もベルモントの要求に難色を示す金貸しに、彼はとうとうこう言ったのである。

「こうまで言っても信用できないのか。そうだよな、貴様は異教徒の金貸しだものな。神を信じていないんだから、他人を信じることも出来るはずが無いよな」

 この言葉に、金貸しは悲痛な瞳でもって応えることしか出来なかった。

「どうしてもって言うなら、担保をつけてやる。この身体だ。もし、十日後までに借金を返せなかったら、この身体のどこから何でもいい、いくらでもくれてやろう。これなら貴様も安心だよな」

「…………」

 傲慢なベルモントに、イサヤンは何も応えてやることが出来なかった。

 彼の申し出を渋々ながら受け入れ、契約書には『甲の身体の肉一ポンドを担保とし、期日までに返済が出来なければ、乙はこれを受け取ることが出来る』との一条を書き込んだのである。

 勿論、十日を過ぎてもベルモントが借金の元金どころか、利息の分すらも返しに来なかったのは言うまでもない。

 そして、ベルモントとイサヤンの借金を巡る話は、いつの間にか大きくなった。街中の人間の間で、『人肉』を担保とした借金の話が広まってしまい、金貸しが望まないまま、二人は法廷で戦うことになったのだ。


──その結果、ベルモントは何一つ失うことは無かったように見えた


 開廷の前に、彼が裁判長に『ある事』を耳打ちしたからである。


──そして、イサヤンは全財産と居場所を失った


 彼が、不当な判決にもかかわらず、何一つ反論を申し出なかったからだ。

 金貸しではなくなり、再びただの異邦人に戻ったイサヤン・ナザール。彼が、土埃の舞う街道に足を進めようとした時、住民の中には汚い言葉を吐くだけでなく、石を投げつける者さえいたと言う。

 町を追われたイサヤンは、一度だけ振り返ると、一言だけを住民達に送った。しかし、その声はもう誰の耳にも届くことは無かった。


「この街が将来も息災でありますように」


 その後、金貸しだったイサヤン・ナザールが何処に行ったのかは、誰の知るところでも無くなった。




 異邦人イサヤン・ナザールが街を去ってから半年ほどが経った。

 住民達の記憶から、彼の事が薄れようとしていた時、何処からかこの街を訪れた者があった。

 彼の名は、アルバート・R・ハザード。

 シミ一つ無い白い肌と、艶光る漆黒の頭髪を持った彼は、清潔で身なりも整っており、また、礼儀正しく慇懃であった。その上、充分な蓄えを持っているようだった。

 出迎えに同行した神父は、自分と同じ肌の色をした来訪者に尋ねた。

「バザードさん。あなたは私達の信じる神を信じ、それに恭順する者ですか?」

 神父の問に、彼は首を少し横に傾けると「ノー」と返事をした。


──異教徒だ

──また、異教徒がやって来たぞ

──それに、財産を持っている


 その場に居た者達は、皆同様にそう思った。

「ハザードさん。あなたが異教徒であるということであれば、残念ながらこの街で職に就くのは難しいでしょう。街の住民達は、異教徒を雇いたがらない。それに事業を立ち上げても、異教徒の店で買物をしたいと思う住民も居ないでしょうから」

 神父は、一度残念そうな顔で返事をした。だが、その後にこう続けた。

「しかし、ご心配には及びません。あなたは、清潔で正直そうに見える。それに、幸いにも充分な元手もお持ちのようだ。どうでしょう、ハザードさん。あなたの財産を元手に『貸金業』を営んではいかがでしょうか。許可証は裁判所で発行してもらえます。なんなら、私が推薦状を一筆したためさせていただいても構いません」

 神父は異邦人にそう言うと、心の中でほくそ笑んだ。

 この街は、イサヤンの代わりになる資金提供者──金づるを欲していたからだ。

 神父の提案に、ハザードは二つ返事で乗ってきた。

 彼は、その日のうちに裁判所に赴くと、『貸金業許可証』を手に入れた。そして、翌日には街の一等地に事務所を構えて、金貸しの営業を始めたのだ。


 このバザードという男も、金貸しとしてよく目端の利く者だった。

 彼が投資した案件は、必ずと言っていいほど繁盛し業績を伸ばした。たとえ、身代の傾きかけた商店でも、彼の融資で危機を脱した後は、その業績は必ずと言っていいほど黒字へと転ずるのだ。当然ながら、街の商店や業者が繁盛するのに連動して、新たな金貸しの資産も増加していった。

 ハザードの商売が順調に業績を伸ばすほどに、街もまた賑わいを増して行った。それは、住民にとって喜ばしいことであった。

 しかし、彼らには、それ以上に待ち望んでいる事があった。


──だが、今はその時ではない


 彼等は、金貸しハザードの商売を、ジッと静かに見張っていた。大事な羊をじっくりと太らせるかの如く。


 そして、ハザードの来訪から三年程経つと、彼の財産は十倍にも膨れ上がっていた。


──そろそろ頃合いであろう


 街の住民達は、計画を実行に移し始めた。

 幾人もの住人が金貸しの下へ訪れ、莫大な額の借金を申し出たのである。最初、彼は、利息をやや高めに設定するだけで、快く金貨の袋を提供していた。

 しかし、借金が返済されることはなかった。それどころか、尚も借金を望む者や、それを踏み倒そうとする者さえ現れたのだ。

 遂に金貸しは、

「困りましたね」

 と言って、金を貸すのを嫌がるようになった。

 その時、一人の男が金貸しに新たな話を持ちかけてきた。そう、あの男──ベルモントである。

「よう、ハザードさん。最近、いい噂を聞かないぜ。高い利息を約束すると言っても、金を貸してくれないそうじゃないか。皆、困っていたぜ」

 街一番の放蕩者は、馴れ馴れしく金貸しに話しかけた。

「仕方がないじゃないですか。無担保で個人に貸し出すのには限度があります。それに、最近、この街の住人には約束や契約といった概念が薄れているように思えます。金を借りるのはいいが、約束の期日になっても元金どころか利息の分さえも払おうとしない。それどころか、尚も金を貸せと言う。貸した金に利息が付いて返ってきてこその貸金業です。このままじゃぁ、商売があがったりですよ」

 異教徒の金貸しは、芯から困っているように見えた。


(そろそろだな)


 それを聞いて、ベルモントは頃合いだと思ったのだろう。彼も新たな借金を申し出た。

「それはそうとハザードさん。ちぃっと物入りなんだが、どうだね。利息は看板の二倍でいいからさ」

 それを聞いた金貸しは、急に渋い顔になった。

「ベルモントさん。あなただって、返済が滞っているんですよ。これ以上は無理です」

 尚も渋る金貸しに、ベルモントは遂に伝家の宝刀を引っ張り出した。

「分かった。そうまで言うなら、こっちにも考えがある。担保を付けよう。この身体だ。もし、期日までに借金の返済が出来なかったら、身体のどの部分でもいい、あんたにやるよ。好きにしていい」

 彼は、一見無謀なこの提案を、金貸しに持ちかけた。

「身体──人肉ですか? いや、いくら私があなた達の神を信じていないからと言っても、さすがに人肉を食べる習慣はありませんよ。それに、遊んでばかりで脂肪が溜まったブヨブヨの肉をもらってもねぇ……」

 そう皮肉めいたことを言って、金貸しはしばしの間思案していた。

「そうですね……、では、こうしましょう。借金の返済期日は十日後。担保は、あなたの『心臓』です。身体の中で、これ程大切な部分は無い。『心臓』が担保ともなれば、貸し出す資金もそれなりの額をご用意できますし……。「もし期日までに返済できなければ、私はあなたの『心臓』を受け取ることが出来る」。このような内容の契約でいかがでしょうか」

 このヤクザな男の言葉を真に受けたのか、それとも強引な借金を諦めさせるためのハッタリなのか? 金貸しハザードは、そんな提案を返してきたのである。

「し、心臓……」

 ベルモントは、一瞬、その単語の重大さに息を詰まらせたが、

「い、いいだろう。心臓を担保に金を融通してくれ。勿論、十日後には、これまでの分も含めて、きっちりと返済してやるよ」

 と、胸を膨らませるような態度で啖呵を切った。

「利息もですよ」

「勿論だ」

 金貸しは彼の言葉を確認すると、契約書を作り始めた。

 ハザードはカウンターの向こう側で、しばらくの間、新たな契約の文言をサラサラと書き記していたが、最後まで書き終えるとそれをベルモントに見せた。

「出来ましたよ、ベルモントさん。念の為に内容をよく確認して下さい」

 借金の担保が他ならぬ『心臓』だというのに、金貸しはやけに冷静だった。


(やっぱり異教徒だな。事もあろうに『心臓』を担保にしようなんて。だが、契約さえしてしまえば、我々の勝ちだ。十日が過ぎたら目にものを見せてやる。……おっと、そのためには、契約書の内容をよく見ておかないと)


 異教徒の金貸しの態度に薄気味悪いものを感じながらも、ベルモントは罠の仕込みのために『契約書』の隅々まで目を皿のようにして確認した。


(担保は『心臓』。他には……、特に変な条件とか、血がどうのこうのなんてことも書いてないな。ククク、これでよし)


 内容を確認すると、ベルモントは、

「いいでしょう。なかなか良くできた契約書だ」

 と言って、大きく頷いた。

「では、ここにサインを」

 彼は、金貸しの差し出したペンを手に取ると、契約書に自分の名前を署名した。

 金貸しハザードは、契約書を引き戻して目の前に持ち上げると、上から下まで一通り眺めてから、

「いいでしょう。では、お約束の金貨を三袋。ちゃんと期日までには返済して下さいね」

 と言った。そして、ずっしりと重たい革袋を三つ、カウンターの上に並べた。

「三つもか!」

 その羽振りの良さには、街一番の放蕩者ですら驚いていた。

「他ならぬ『心臓』が担保ですからね。これくらいは出さないと釣り合いが取れませんから。ああと、何度も言いますが、返済期日だけはきっちりと守って下さいね。なにせ『心臓』がかかってますから」

「そうだな。『心臓』は何よりも大事だ。分かっているよ。じゃあな」

 ベルモントはそう言って、カウンターに置かれた袋を引っ掴むと、逃げるようにハザードの事務所から出ていった。


(ようし、上手くいった。『肉』が『心臓』に化けた時には少しビビったが。なぁに、どうせあの金貸しも、イサヤンと同じ異教徒だ。その時になって、神を信じていなかったことを悔いるがいい)


 陰謀を企んでいる者は自分の勝利を確信すると、金貸しの事はもう頭の中から消え去っていた。今日は、どうやって彼女を口説こうか。彼は、今夜訪れるであろう、蕩けるように甘美な一時を夢想していた。


 ベルモントが金貸しハザードと交わした契約については、すぐに街の住人の知るところとなった。翌日から、町の住民の多く──老いも若きも、女も子供も、神父や町長、判事までが金貸しの事務所にやって来ては、ベルモントと同じように自分の『心臓』を担保にして借金をしていったのだ。しかし、彼等の頭の中には、異教徒の金貸しにビタ一文すら返す気はなかった。かつてのイサヤン・ナザールの時のように、判決で有罪となっても担保を取られることはない。それどころか、「不届きなことを働いた」と云う名目で、ハザードからも全財産を取り上げて街から追い出してやろう。どうせあいつも異教徒なのだ。何をやっても構うことはない。そう、思っていたのだ。


 そうこうする内に返済の期限がやって来た。しかし、金貸しに借金をしたものは、ベルモントはもとより誰一人返済をしようとはしなかった。

 これには、さすがの金貸しハザードも困り果てたようだ。

 街の住人達を相手取って、借金返済を訴えて裁判所に駆け込んだのだ。

 しかし、これこそ目論見通り。住民達の第二の陰謀が成就しようとしていた。


 そして、運命の裁判の当日。

 裁判所内には、街の住人が全て集まっていた。

 原告は金貸しアルバート・R・ハザード。被告は彼から借金をした者──それは街の全ての住民だった。その中には、弁護士や裁判官の名前も含まれていた。

 契約書の内容や契約に至った事情、そして原告の意見陳述と被告側の反論が述べられ、形だけの裁判が淡々と進められた。

 そして、いよいよ運命の時は来た。


「判決を下します。原告アルバート・R・ハザードの訴えを全面的に指示し、被告を有罪とします」


──ザワ、ザワザワ、ザワザワザワ、ザワ


 傍聴席はざわめきで溢れていた。

「被告人は契約書に記された通りに、原告に担保となっている自らの心臓を受け渡すこと」


──そうだ

──次だ

──次の言葉で終わりだ


 そこに居た誰しもが──金貸しハザードを除いてだが──勝利の笑みを浮かべていた。全てが計画通りだからだ。

 裁判長の言葉が続く。

「ただし、原告は心臓を取り出す際、それ以外のもの──血の一滴すら奪ってはならない。何故なら、契約書には担保として『心臓』は書いてあるが、その他の『血液』などは一切書かれていないからだ」

 裁判長はここで一旦言葉を区切ると、原告であるハザードを一瞥した。

 この理不尽な判決に、金貸しは裁判長を見ることが出来ないのであろう。ずっと俯いていた。

「原告ハザード。出来ないのですか? もし出来ないと言うのであれば、契約は無効となり、被告には返済義務が無いという結論になります。よろしいですね」

 尚も続く裁判長の言葉に、金貸しは何を思っているのであろう。彼は、さっきから下を向いたまま顔を上げようとしなかった。それどころか、彼は両肩をがっくりと落とし、小刻みに震えているではないか。

「返事がないと言うことは、反論が無いと言うことになります。しかし、……」


──よし、我らの勝ちだ

──早く次の言葉を

──異教徒に神罰を


 住民の期待の眼差しの中、裁判長は遂に判決の最後の部分を言い渡そうとしていた。

「……しかし、金貸しハザードが『心臓』を担保にして借金をさせたという事実は消し去りようがありません。このような非道な行いは、神に弓引く事であります。よって、金貸しハザードからは、『貸金業許可証』を剥奪します。更に、その財産を没収し、街から永久に追放する事を言い渡します」


──おー、おー、おー

──勝ったぞ

──おー、おー、おー

──異教徒は追い出してしまえ


 街の住民の誰もが、自分達の勝利に酔っていた。


──肉のたった一ポンドでさえ渡すことは無かったのだ

──心臓など取り上げられるものか

──血の一滴も流さずに持っていけるものならやってみろ


 傍聴席のここからあそこから、異教徒を嘲る声が浴びせかけられた。

 許可証を取り上げられて、ただの異教徒となったハザードは、原告席で肩を震わせていた。のみならず、嘆きの声を上げているように聞こえた。


<ク、クク、ククク、クゥ……>


──今更、嘆き悲しんでも遅い

──答えろ、「出来ません」と

──さぁ、全財産を差し出せ

──さぁ、早く

──早く、早く早く、早く早く早く早く、早く


「原告ハザード、何か反論は。または、判決に従う旨の返答をして下さい」

 勝利に顔を紅潮させた裁判長が、異教徒に発言をするよう急かした。


<クク、クックックク……、ククク>


 しかし、彼は嗚咽を発するのみであった。


──さあ、認めろ

──認めろ、敗北を

──そして出ていけ、異教徒め


 住民達の心無い怒号の中、孤立無援のハザードの苦鳴は大きくなっていった。


<クックク……、ククク……、クク、クハ、ハハハ、ハハ、……アッハハハハハァ>


 違う。それは苦鳴や嗚咽などではなかった。それは、異国から来訪した異教徒の笑い声だったのだ。

 事ここに至って、頭がおかしくなったのだろうか?

 いや、違う。

 彼は遂に顔を上げて、はっきりと笑い始めた。どころか、胸を反らして高らかに笑っていたのだ。嘲笑の笑いを。


──何だ?

──どうした?

──狂ったのか?


 住民達の間に、一抹の不安がよぎった。

「原告は、きちんと発言して下さい。神聖な法廷で大笑いをするとは不届きな。法廷侮辱罪を追加しますよ」

 裁判長はハザードを注意したが、何故かその声には不安の音色が含まれていた。


<いやぁ、済まん済まん。我としたことが、あまりの茶番劇に笑いを抑えることが出来なんだわ>


 これはハザードの声なのか? 頭の中に直接響くような、音波を伴わない声に、裁判長のみならず、被告席のベルモントも、傍聴席の全ての住民も、不安な気持ちになった。


<その判決、承知した。返済金の代わりに諸君らの心臓を貰い受けよう>


 その言葉は、裁判所内の全ての者にはっきりと聞こえた。


<慌てることはない。我は、諸君らと交わした契約書の通りに執り行うまで。しかし、心配は御無用。我は、裁判長の裁定に従い、血の一滴すら流すことなく諸君らの心臓をもらっていくのでな。……さぁ、出よ、我が使い魔共>


 異邦人ハザードの呼び声に従って、法廷内は闇に包まれた。そして、何処からともなく不気味な羽ばたく音が聞こえた。


──ええ? 何だ、何だ、何が起こっている?


 そのモノ達は、闇に紛れて現れた。全身が黒で染まった羽ばたくモノ達だった。カラス? コウモリ? いや違う。何故なら、ソイツらは三本の脚を持っていたからだ。


<恐れることはない。このモノ共が、諸君らから心臓を奪い取る。大人しく待っているがよい>


──ば、バケモノ

──何だ、何物だ?

──バケモノだ


 ハザードの声とは思えない声も、不気味な空飛ぶモノの羽音も、住民達を不安にさせようとしていた。


──異教徒め、悪あがきを

──血を流さずに心臓を取り出すなど、出来るはずがない

──我らの神が、それを許すはずがない

──異教徒め

──異教徒め、異教徒め、異教徒め


 住民らの声に、ハザードの『声』が応えた。


<諸君らは何か勘違いをしておるな。確かに、我は諸君らの信ずる神を信奉するモノではない。しかし、だからと言って、他の神を信ずる異教徒ともちょっと違うな>


<そう、我こそが神。諸君らの恐れる異教の神だ。……おっと、諸君らの言葉で言えば『悪魔』とでも言うのだったかな>


<もっとも、今回の一件は我の本意ではない。旧知の仲の知り合いに、……諸君らの信じる神に頼まれての事。でなければ、諸君らのような汚れて腐った心臓など、誰が欲しがるものか>


<だが、ヤツとは、太古(いにしえ)からの知り合いでな。無下に断ることもできん。厄介なものだ>


──何だ?

──こいつは、一体、何の事を言っているのだ?

──異教の神? 悪魔だと


 ハザードと名乗っていたモノは、街の住民達に恐怖を抱かせた。


──神よ、我らが神よ

──神よ、我らを救い給え

──ああ、神よ


 住民達の救いを乞う祈りに応えてか、<バタン>という音と共に一条の光が法廷内に差し込んだ。閉ざされていた裁判所の扉が開かれたのだ。

 街の全ての住民達が振り返った。そして、見た。戸口に顕れたモノを。


 それは人の形をしていた。だが、屋外の明るさ以上に、そのモノから溢れ出る光により白く輝いていた。その姿を認めて、住人達は一瞬で理解した。


──おお、神よ

──我らの神がお出ましになった

──神よ、我らを救い給え

──異教の悪魔から、我らを救い給え

──神よ

──神よ

──神よ、神よ、神よ……


 だがしかし、慈悲を乞う住民達を見つめるその瞳は、深い悲しみに満ちていた。

 そして、その顔は三年半前に街から追放された金貸しだった者と同じであった。

 しかし、その事に街の住民達の中の唯の一人も気が付くことはなかった。


 彼は、十数年前、この街が窮地に陥っていた時に訪れ、資金を投ずることで彼等を救ったのだ。だが、危機を脱した後、住民達は金に溺れて堕落した。そして遂には、救いの神をも虐げて追放してしまったのだ。

 神の奇跡の力を以ってすれば、血の一滴すら流さずにベルモントから『人肉一ポンド』を取り出すことが出来ただろう。

 しかし、彼はそうしなかった。

 彼ら──ベルモントに、裁判長に、街の住人達に、自らの行いを顧みて反省し、正しく生きる事を思い出して欲しかった。悔改め、正しい信仰を取り戻して欲しかったからだ。


「我を信ずる者達よ。我は汝らに二度目の機会(チャンス)を与えた。悔改め、やり直す機会を。しかし、それは無残な結果に終わった。過ちは二度繰り返されたのだ。更に非道いやり方で……」


 しかし悲しいことに、光り輝く神の御言葉の意味を知る者は、一人として居なかった。その事が、彼にはとても悲しくもあり、哀しくもあった。


 悲痛な面持ちをした光り輝く姿に、黒い異教の神が問いかけた。


<貴様との約束は果たした。後は我の好きにしていいな>


 光り輝くモノは、押し黙ったまま、ゆっくりと頷いた。彼の哀しみが如何程のものか、その顔には悲痛な表情が刻まれていた。

 それを見て、歪んだ笑いを浮かべた異教の神は、その使い魔に命じた。


<我が下僕共よ、その役目を果たせ>


 扉は閉じられ、裁判所の中は再び薄闇に覆われた。そして、その中を不気味な羽音を立てながら黒い羽ばたくモノが飛び交っていた。


──ああ、神よ、我らに救いを

──神よ、我らを助け給え

──我らに慈悲を、神よ

──神よ……


 救いを乞う住民らの声は、何処にも届くことはなかった。

 しばらくの間彼等の頭上を飛び交っていた使い魔だったが、遂にそれらは住民達に襲いかかった。彼等の心臓を奪うために……。


 奪う?


 いや違った。

 金貨を手にした時、『それ』は既に彼等の物では無くなっていたのだ。


 だが、今となっては、それに気づくものさえ居なかった。

 黒い異形の使い魔に襲われて逃げ惑う住民達の救いを求める悲鳴が、あちらからもこちらからも聞こえる。そんな阿鼻叫喚の中、金貸しアルバート・R・ハザードと名乗っていたモノだけが、薄ら笑いを浮かべてその惨劇を鑑賞していた。

 しばらくして、住民達を襲っていた異形の羽ばたくモノ達は、再び一斉に天井高く舞い上がった。そして、自分達の仕える神の周りに集うと、その周囲を巡るように飛び回った。

 よく見ると、ソイツらの三本の脚には、大人の握拳大の肉塊が抱えられていた。未だビクンビクンと脈打つそれは、まさしく人間の心臓だった。だが、奇妙なことに、生きた心臓からは血の一滴すら吹き出てはいなかった。

 薄闇の中、使い魔共が抱えているものが自らの心臓であることを悟った住民らは、それぞれに自分の胸を触った。

 服は破けていない。胸には一筋の傷さえない。それどころか、血の一滴すら流れてはいなかった。しかし、そこには──胸の奥には大切な物が欠けていた。持ち去られていたのだ。


──無い

──無い無い、無い

──心臓が無い

──心臓が……


 身体の中の何よりも大切な物を失った事に狼狽する人々は、天を仰ぎ、そしてまた裁判所の戸口を見やった。


──神よ、我らが神よ

──今一度お慈悲を

──か弱き我らをお救い下さい

──神よ

──今一度お姿を


 住民達は口々に訴えたが、扉は閉ざされたままで、そこに『彼』の姿はもう見ることは叶わなかった。


<取り交わした契約に則り、諸君らの心臓、確かに我がもらい受けた>


 異教の神の声なき『声』が頭の中に響いた。しかし、心臓を失った住人達には、もう、その言葉を理解することは出来なかった。

 そして、法廷に真の暗闇と静寂が訪れた。

 いつの間にか、あのアルバート・R・ハザードと名乗っていたモノも、夥しい数の羽ばたくモノ達も、そこから消え失せていた。

 後には、その街の全ての住民が床に伏していた。心臓を失った彼らが動くことは、もう二度と無かった。


 それからどれくらいの秒と分を数えただろうか……。

 いつしか大空を覆っていた厚い雲に切れ間が生じた。そこからは一筋の清浄な光が射し込み、地上を、街を、そして裁判所を照らした。

 しかし、光の梯子を通って天の国へと昇る者は、唯の一人も無かったと云う。



     (了)




参考文献:

 1.シェークスピア,ウィリアム「べニスの商人」(1597)

 2.Lamb,Mary ,「ヴェニスの商人」(原題 THE MERCHANT OF VENICE(TALES FROM SHAKESPEARE) ),”SOGO_etext_library”,

     URL http://e-freetext.net/venice.html ,2019年06月12日現在.

   詳細は、次のURLを参照 http://www.e-freetext.net/venice_j.txt ,2019年06月12日現在.




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