選ばれたのは、塩飴でした
強めのノックの音で我に返り、鍵を開いた。
ドアの前には光と撫子が立っており、みのるの姿に絶句していた。
Tシャツもスウェットも血でびしゃびしゃになっており、床にもたっぷりと血の池が広がっている。極め付けに、手には包丁を握っているのだ。凶悪殺人犯でも、そんな姿にはならない。
――包丁、持ちっぱなしだった。
今さらながら、自分が相当不審な姿をしていることに気付いたみのるは、包丁をシンクに放り込んで、しどろもどろに言う。
「あの、これ、その。大丈夫です! これ全部、僕の血なので!」
「は!? いやいやいや、大丈夫じゃないでしょ!?」
イカれたセリフに、思わず光が叫んだ。
「いや、この光景を誰かに見られたら大事だぞ。まずは入ろうか。それから、何があったのか聞かせてもらおう」
撫子が強烈な血の匂いに眉をひそめながら、玄関に立った。光が続き、後ろ手にドアを閉めて施錠した。
流石に血で満たされたフローリングに足を踏み入れる勇気はなかったようで、靴をはいたままだ。
「それで、何があったんだ? Tシャツの胸元に穴が開いているし、そこから血が流れたように見える。本当に大丈夫なのか?」
「あ、はい。刺されたんですけど、なんでか全然死にそうになくて。むしろ、すっごく元気なんですよ。血も……もう止まってますね」
みのるは困ったように眉尻を下げた。
「刺された! ……大丈夫そうで良かったけど、誰に刺されたの?」
光が理解に苦しんでいることがありありと伝わる表情で、みのるに訊ねた。
みのるはトイレを指差す。
「生活指導の三上先生です。家に帰ってから、しばらくしてトイレのドアを開いたら、中で待ち伏せしていたんです」
「なんだと!?」
2人は身をのりだすようにして、玄関に近い位置にあるユニットバスを覗き込んだ。ブリッジの姿勢のまま、便器に頭を突っ込んでいる三上に、再度絶句した。
「……詳しく話を聞きたいが、まずはそこの変態の身柄を確保して、それから部屋の掃除をしよう。これじゃあ入ることも出来ない」
再起動した撫子がそう提案し、まずは後始末をすることになった。
みのるは手を洗い、ガムテープで三上の手足を拘束した。頭は便器に入れたままだ。
撫子と光は、掃除道具を近くのコンビニで買ってきた。掃除自体は、感染症の恐れがあるため、ほとんどみのる1人で終わらせた。
アルコールスプレーとティッシュでまんべんなく除菌してから、やっと撫子と光も部屋に上がった。
「お茶と塩飴買ってきたよ」
小さなガラステーブルに、3本の綾鷲のペットボトルと、塩飴の袋が置かれた。
――塩飴、好きすぎじゃない?
みのるの頭に、小さな疑問がよぎった。
それぞれがお茶を飲んで一息ついてから、撫子が切り出した。
「疲れているところすまないが、何があったのか教えてくれ」
みのるは頷いた。
「撫子先輩に送ってもらったあと、しばらくしてから、お風呂を洗おうと思って、ユニットバスのドアを開けたんです。そしたら、三上先生が『はい、田中君が来るまで先生は何分何秒待ちましたー』みたいなことを言いながら、包丁を持って出てきたんです」
「きもっ」
光がすごく嫌そうな顔をした。
「それから、胸に……たぶん心臓のあたりを、包丁で刺されました。でも、なんとなく自分が死ぬんだっていうことに現実感がなかったというか。上手く言えないんですけど、『自分が死ぬなんてありえない』というか。そんな感じがしたんです」
撫子と光は、驚きの表情を浮かべた。
「みのる君、それが『信仰』だよ!」
「土壇場で目覚めたのか、もとからそうだったのか。ともあれ、みのる君が持っていたのは、不死の信仰だったのか」
――不死の信仰。
それは、みのるの心にすとんと落ちるように、納得をもたらした。
「それで、いつまでたっても死なない僕に驚いたのか、僕が包丁を抜いたら『化け物』って言って逃げようとして、そのまま転んで便器に頭打って気絶したんです」
話をすべて聞き終えた撫子は立ち上がり、みのるの頭を胸元に抱き寄せた。
突然の柔らかい感触に、みのるの体は硬直した。
「まずは、みのる君が無事で良かった。守るだなんて言っておいて、結局危険な目に合わせてしまったな。すまない」
「あ、あの!」
「いや、いいんだ。私たちの考えが甘かったんだ。君が不死の信仰で本当に良かった。化け物なんかじゃない。みのる君の信仰が不死で、本当に良かった」
――息が、できない!
みのるの声は、より強く抱きしめられることで届かなくなった。
窒息死することがなかろうと、苦しいものは苦しいのだ。そして、柔らかいものは柔らかいのだ。
そんな撫子とみのるを眺め、光はぽりぽり塩飴をかじりながら言う。
「撫子は本当に、『化け物』って言葉に敏感だよね。みのる君の信仰もわかったことだし、わたしたちの信仰も教えよっか」
と。