トイレは案外清潔らしい
「みのる君は一人暮らしをしているんだな」
「はい。実家の都合で、家を出なければいけなかったんですよ。仕送りはあるので、生活に困りはしませんけど」
ずいぶんと低くなった西日を背中に、みのるは撫子と2人で帰宅していた。
前方に伸びる細い影は、撫子のほうが幾分か長い。
「家事なんかはどうしているんだ? 不自由はしていないか?」
「それなりには出来るので大丈夫ですよ。たまに楽したいときなんかは、スーパーでお惣菜買ったりしちゃいますけど」
「そうか。偉いじゃないか」
撫子が手を伸ばし、みのるの髪をくしゃくしゃと撫でた。
今まで経験したことがない、女性との距離感に、みのるは首をひっこめながら赤面した。ハンドクリームなのか、手が通り過ぎた場所に、優しい匂いがする。
「何か家に足りないものはないか? 1人で買い物に行くのも危険だろう。せっかくだから、このまま一緒に買い物して帰っても大丈夫なんだぞ」
「お気遣いありがとうございます」
みのるは家にあるものを思い出そうと数秒考えた。
「……いえ、大丈夫、ですね。買い置きもけっこうあったと思いますし、レトルトなんかもけっこう置いてあるので」
「そうか。それは良かった。間違っても夜中にコンビニに行ったりしたらダメだからな。もし緊急のときは、遠慮なく電話してくれ」
「何から何までお世話になります」
「気にするな。私も、後輩が出来て嬉しいんだ」
撫子はふんわりと笑った。その横顔は、思わず足を止めてしまうくらい美しかった。
「ん? どうした?」
「あ、いえ、なんでもないです」
首を傾げる撫子に、みのるは慌ててそう返し、歩き出した。
――心臓に悪いな。
そう思いながら。
「ここの4階です」
みのるは4階建てのアパートの前で、撫子にそう言った。
「階段しかないので、あとは大丈夫です」
「いや、一応ついて行こう。なに、いきなり部屋に上がるような非礼な真似はせんよ。ドアの前までだ」
「すいません」
4階の廊下は、撫子の心配に反し、完全に無人だった。
「それじゃあ本当にありがとうございました」
「いやいや。明日の朝も迎えに来よう。あとで家を出る時間を教えてくれ」
そう言って、撫子は手を振って階段を下りていった。
みのるは部屋の鍵を開け、中に入り、しっかりと施錠した。念のため、チェーンもかけておく。
狭いワンルームのアパートだ。ベッドの上にスクールバッグを制服を放り、スウェットとTシャツに着替えた。
トイレとシャワーが狭い1部屋にまとまった、ユニットバスのドアを開く。
「はい、田中君が帰ってくるまで、先生は42分13秒待ちました」
そこでは、スーツ姿の男性教師が、軍手をはめた手のひらと包丁の腹で、拍手をしていた。
「遅いじゃないか。寄り道かい? どこに行ってたのかな? いけないね? 真っ直ぐ帰らないとダメだよね? ねえ、田中君?」
「な、なん、で……三上先生……」
みのるは喉をひきつらせ、後ずさった。
その男は生活指導の教師で、みのるにも見覚えがあった。多くの生徒の顔と名前が一致していて、挨拶すると必ず笑顔で返してくれる、評判のいい教師だったはずだ。
目元の深い笑いじわが、逆にみのるの恐怖を駆り立てた。
「なんで? どうしてここにいるのか? どうやってここに入ったのか? それとも? 『なんで』だけじゃわからないよ、田中君?」
真っ白な靴下が、ドア枠をまたぎ越した。
「どおれもこれも、君が知る必要もないんだけど」
さもそれが自然であるかのように。
寝かされた包丁の切っ先が、Tシャツを突き破り、みのるの胸に突き立てられた。
真っ白なTシャツに、どんどん赤い染みが広がっていく。
自分の胸に深く食い込んだ銀色の刃を眺めながら、呆然とかすむ思考の中で、みのるは思った。
――なんか、現実感がないな。
と。
どくどくと血を流すみのるに、三上は薄ら笑いを浮かべていた。
「……」
「…………」
際限なく地面に広がっていく鮮血。だが、みのるは倒れる気配もなく、不思議そうに自分に刺さった包丁を眺めている。
だんだんと、三上の薄ら笑いがひきつったものに変わってきた。
「……あのさ」
「…………はい」
「な、なんで死んでないの?」
「………………さあ?」
なぜか、死ななくて申し訳ないような、不思議な気まずさを感じながら。みのるは包丁を引っこ抜いた。ぴゅっと飛んだ血が、三上の顔にかかった。
「ひぃっ」
今度は三上が怯え、後ずさる。
「あの、これ」
胸から引き抜いた包丁をどうしたらいいかわからず、みのるはなんとなく三上に向けた。
「ひぃぃ、ば、化け物!」
三上は激しく後ずさり、その勢いでドア枠に足をひっかけて真後ろに転んだ。
ブリッジのような姿勢で、後頭部が便器の中に吸い込まれていき、ガツンと硬い音を響かせた。
衝撃で便器のフタがしまり、三上の頭は便器に挟まれて見えなくなってしまう。
「わけがわかんねえ」
そう、みのるが呟いたとき。廊下のほうがにわかに騒がしくなった。
「みのる君、大丈夫!?」
光の声がして、ドアが強く叩かれた。