ハトの目は動かない
「みのる君。君は、生徒会に入るんだ」
「へ?」
凛とした日本女性の美しさを体現したような少女が、平凡で冴えない顔の少年に、壁ドンをしていた。
二人の距離は、鼻先が触れ合うのではないか、というくらい近づいている。
1年生として新生活を始めたばかりの、どこまでも平凡な男子高校生である田中みのるは、校内一の美人として名高い門倉撫子に迫られていた。
春と呼ぶには少しばかり遅く、散った桜が地面で茶色に染まる頃。
誰よりも「普通」であったはずの少年に、「特別」が訪れようとしていた。
みのるは、誰よりも目立たない少年だ。
日本一多い、男性の名前。
日本一多い、誕生日の4月2日。
身長は約170センチで、体重は55キロ弱。
顔はどこにでもいそうな特徴のない顔で、1000円カットされた黒髪はオシャレでもダサくもない短髪
。
量産品の学ランを着て、量産品のスクールバッグを肩にかけている。
おまけに血液型はA型で、靴のサイズは26センチだ。
そんなみのるが小さな事件に遭遇したのは、登校時のことだ。
いつもどおり、生徒が何気なく通り過ぎていく校門にもたれかかるようにして、それはひっそりと息絶えていた。
180度、ぼきぼきと首が折れ曲がったハトが、背中越しに、生徒たちの靴を眺めている。その惨い亡き骸を前にして、みのるは思わず足を止めていた。
――どうして、こんなところで。どうして、こんな死に方を。いや、それよりもなぜ……誰も気付かないんだ?
思わず周囲を見回した。
みのるの視界に飛び込んできたのは、何事もなかったかのように学校に入っていく生徒たちの流れと、急に足を止めたみのるを邪魔そうにする視線だけだった。
ハトの死骸に気付く者はいない。
いや、気付いていても、気に留める者はいない。一瞬だけ目をやると、まるでそれが当たり前の光景であるかのように、興味を失っていくようだった。
彼ら、彼女らの表情は、死骸に見つめられながらにしては、あまりにも屈託のないものだった。
――こんなの「普通」じゃない。
周りの人間が、何を考えているのかわからない。恐ろしいものに感じて、みのるは足早に校舎に駆け込んでいった。
それを3階の窓から見下ろしている、2つの人影があった。
「彼、気づいてるみたいだったね」
「ああ。おそらく、認識を阻害されていない。『信仰』の素質を持っている可能性は高いな」
「それじゃあ、彼の勧誘は撫子に任せていい? わたしたちの正義のためには、一人でも多くの人材が欲しいの」
「もちろん。放課後にでも声をかけよう。光、君はアレの犯人探しを」
早朝の生徒会室で、少女たちは険しい表情で頷きあった。
放課後、教室で多くも少なくもない友人に別れの挨拶をし、みのるは帰り支度をしていた。
みのるは高校から学校の近くで一人暮らしをしており、電車通学の友人たちと一緒に帰ることはほとんどない。
――結局、誰も校門のハトの話をしなかったな。
不自然なまでにいつも通りだった日常を思い出しているみのる。その耳に、急に大きくなったざわめきが入り込んできた。
「おい、あれ2年生の門倉さんじゃないか?」
「ああ、生徒会副会長の」
「すっごく美人さん」
「1年の教室になんの用だろ?」
教室に入ってきたのは。
175センチはある長身。腰まである長い黒髪。日本刀を思わせる鋭利な光を放つ大きな瞳、すらりと整った鼻筋に、面長の綺麗な輪郭。
それと、制服を押し上げる豊かな胸。
学校一の美人と称される、門倉撫子だった。
その姿を見たことくらいはみのるにもあるし、噂話を聞くことだってある。昔からある大きな道場の生まれだとか、芸能事務所からスカウトされただとか。
それでも、初めて近距離で見た撫子は、息をのむほど美しかった。
教室中にざっと視線を流した撫子の目は、掲示板の前に突っ立っていたみのるをしっかりと捉える。
「私は2年A組の門倉撫子だ。生徒会の副会長をしている。君の名前を教えてくれないか?」
「ぼ、僕ですか?」
「ああ。他でもない、君だ」
なんで、僕? みのるの頭に疑問符が浮かぶ。
撫子のような、有名になるタイプの人間と接点は一切ない。それに、みのるは自分の目立たなさを自覚しているのだ。
「田中みのる、です」
「そうか。田中君……」
撫子は綺麗な形をしたあごに手を添えた。
「いや、それだと他の人も反応してしまうかもしれないな。みのる君と呼ばせてもらおう。私のことも撫子と呼んで欲しい」
教室がざわついた。
「名前呼び?」
「門倉先輩と、田中が? なんで?」
「初対面なのに?」
人生で初めて浴びる注目に、みのるは居心地の悪さを感じた。
「あの、僕になんのご用でしょうか?」
みのるの問いに、撫子は射抜くような真っ直ぐな視線を返した。
「みのる君に聞きたいことがある。君は、今朝の校門で、何か変なものを見なかったか?」
――変なもの。それは。
「ハト……首が、折れた」
撫子の目が、少しだけ見開かれた。
「そうか。そう、か。君は、どんなことを感じたんだ?」
「変、だと思いました。ハトだけじゃなくて、誰もアレを気にしていない様子だったのが、なんか変な感じがして」
どん、とみのるの横から音がした。
撫子が、みのるの後ろのロッカーに手をついて、喜色を浮かべた顔を寄せてくる。
鼻と鼻が触れ合いそうなほど。ミントの清涼な吐息を感じるほどに近い距離で、撫子は言った。
「みのる君。君は、生徒会に入るんだ」
みのるはごくりと喉を鳴らし、なんとか声を絞り出す。
「あの、近い、です」
撫子は自分の状況に気付いたのか、ばっと体を引いた。
教室中が静まり返り、注視している気配がひしひしと伝わってくる。
撫子の真っ白な頬が、赤く染まった。視線を床に逸らし、ちらちらとみのるを窺いながら言う。
「こほん……えっと、その……失礼した。ここではなんだから、生徒会室に来てもらえないだろうか?」
「はい」
みのるは頷くことしかできなかった。
足早に先を行く撫子についていく。
生徒会室は、3階建ての校舎の最上階にある。同じ階にあるのは、実験室や社会科室などの、使う機会が少ない実習用の教室ばかりだ。
人気のない廊下の突き当たりに、その部屋はあった。
ドアを開くと、低く差し込んでくる夕陽を背に、小さな人影が立ち上がる。
「おかえり、撫子」
「ただいま。例の彼を連れて来たぞ」
撫子はみのるの腰を抱くように部屋に招き入れると、もう片方の手で、部屋で待っていた人物をさした。
「みのる君、紹介しよう。彼女は私と同じ2年A組の真中光だ」
「初めまして、真中光だよ。一応、生徒会長をしてるよ。よろしくね」
ショートカットの茶髪が、オレンジ色の光を浴びてキラキラと輝く。
逆光の中にあってなお、彼女の快活な笑顔ははっきりとみのるの目に映った。
「ささ、どうぞ座って。椅子ならいくらでもあるからさ。撫子が連れてきてくれたってことは、素質があるってことでしょう?」
「ああ。間違いなく素質はある。もしかすると、かなり強い『耐性』を持っているのかもしれない」
折りたたみ式の長机2本が向かい合わせに置かれ、パイプ椅子が3脚ずつ置いてある。みのるは勧められるままに、光の向かい側に座った。
「私はお茶でも用意しようか。みのる君は緑茶でいいかい?」
「はい。ありがとうございます」
机の真ん中に置かれた、お茶請けの菓子鉢から、光は塩飴を取り出して口に放り込んだ。
「そう緊張しないで。まあ、好きなお菓子でも食べなよ。まあ……塩飴しかないんだけどさ」
かなり大き目の菓子鉢なのに、覗いてみると、本当に塩飴しか入っていなかった。思わず笑いそうになる。
「ひとつ頂きますね」
「どうぞどうぞ。……さて、田中みのる君。これだけは先に訊いておこうか。君が気付いてしまった、今朝の違和感の正体を知りたいかい?」
光はにこにこと、柔和な笑顔を浮かべたまま、そう訊ねた。
「はい。知りたいです」
みのるは頷いた。
「そう。現代の世には、色んな怪奇が満ちている。それに気付くか、触れることができるかは別として。そして、今からする説明を聞いてしまったら、君はもう平凡で平和な日常に後戻りすることは出来なくなってしまう。本当に、それでも知りたい?」
光の笑顔は崩れない。
――平凡で、平和な日常。僕はそれを……。
「後戻りできなくていい。失ってもいい。何一つ『特別』じゃない人生には、もう嫌気が差してしまったんです」
みのるは自嘲がにじむ笑みを浮かべた。
「だから、教えてください」
光の目が、にぃ、と細くなった。
2人の前に、ことりと湯飲みが置かれる。撫子が光の隣に座った。そして、握手を求めるように、みのるに手を差し伸べる。
「よく覚悟を決めてくれた。ようこそ、怪奇の世界へ」