五 福岡藩、維新のゴール直前で失速
元治2年=慶応元年(1865年。禁門の変などの社会的不安の厄落としで改元)の1月から2月。征長軍解兵の功績で加藤司書は家老に登用され、月形洗蔵ら勤皇党も藩庁に出た。そして約束通り五卿が太宰府に移ると、従来長州と同盟関係だった三条を介して筑前福岡藩は薩長連合に向けて勤皇運動の中心地となりにわかに騒がしくなっていった。
長州を脱藩した高杉晋作は既に前年の内に筑前入りして福岡藩の女性勤皇家にして女流歌人である野村望東尼という人にかくまわれていたし、西郷や土佐の中岡慎太郎も福岡に集まり、坂本龍馬も太宰府の五卿を見舞いに訪れた。
しかし勤皇派を登用しつつも福岡の藩主長溥は公武合体派であったし、藩には佐幕派の人材も大勢いて五卿を罪人と見なしていた。この佐幕派は五卿を太宰府に迎え入れた加藤司書に「四書五経を読みて国に易経なし《司書が五卿を呼びて国に益、今日なし》」と猛批判を行う。
さらに勤皇党内の問題として勢いづいた月形洗蔵ら急進派の暴走というのも起きていた。そもそも「筑前勤皇党」と便宜上一つの組織のように呼ばれているが、実態としては勤皇の志を共有した自然発生的な人脈の繋がりに過ぎない。
上級士族が多く、政権を握って比較的穏健に藩を勤皇へと向けていくことができる加藤司書派と下級士族が結集して過激な言動を行う月形洗蔵派との間には溝があった。月形派は藩外の志士とも交流があり、藩に見切りをつけて脱藩する者もいれば、「藩主長溥公が勤皇の方針に踏み切らないなら幽閉し隠居させて自分たちに都合の良い世子(世継ぎ)を藩主に代えてしまおう」などと放言してしまうものまでいた。
段々と藩主黒田長溥も加藤派も急進的な月形派をコントロールできない不安に悩まされていく。
またこの慶応元年の春は幕府の弾圧政策が最も苛烈に行われた時期だった。水戸筑波で起きた天狗党の反乱に対して、幕府は投降した者やその家族350人を斬罪、450人を流罪とした。水戸学によって幕末の尊王攘夷運動を主導した水戸藩もまた、このような抗争によって人材が壊滅し、明治政府に有力な人物を送ることができなくなっている。
そんななかで元治元年(1864)の末から翌慶応元年(1865)の春にかけて薩摩藩は藩外政策に変革を起こした。長州に対しては征討前の強硬な敵視から寛容政策へと転換。逆に幕府との協力関係は競争関係へと微妙に修正をかけた。
薩摩藩変革の実行者大久保利通は、幕府の水戸筑波に対する残忍な処置について冷静に「これを以ても幕府衰亡の表れと推察せられる」というコメントを残している。ロウソクの火は燃え尽きる直前が一番大きく輝くというやつだ。
ちなみに第二次長州征討で薩摩藩にも呼び出しがかかったが、大久保は耳が遠いフリでごまかして散々嚙み合わないやりとりをした挙句、「薩摩を討つというのか!」と無茶苦茶なことを怒鳴り散らしてこれを無視した。
しかし他の藩は大久保のような沈着な洞察ができると限らない。福岡藩は幕府の強圧政策に動揺し、勤皇派集結で第二の長州として嫌疑を向けられ、その長州に対しても幕府による再征伐(第二次長州征討)が決まると第一次長州征討軍解兵の功績も価値をなくし、佐幕派が一気に巻き返す。
福岡藩11代藩主黒田長溥は、佐幕派を抱えながら勤皇党も登用し、薩摩・長州の両藩に恩恵を与え、幕府に対しては永久鎖国の終了・積極外交・海軍の建設を唱えるなど時代の流れを読む非常に鋭敏な政治感覚の持ち主として名を馳せた。しかし後の時代から見ると、この時ばかりはその政治的センスがあまりにも敏感に働き過ぎることとなる。
慶応元年6月、とうとう勤皇派藩士と関係者140人以上が逮捕され、加藤司書たちは蟄居謹慎、月形洗蔵らは幽閉された。騒動の混乱の中、勤皇党の一員として同志に疑惑を持たれた喜多岡勇平という人物が暗殺されるという事件まで起きた。
10月には加藤以下7名が切腹、月形以下14名が斬首となった。また女性勤皇家である野村望東尼も60歳にして姫島へ流罪・幽閉された。大政奉還まで残り3年で勤皇派を壊滅させたこの「乙丑の獄」は、維新後の福岡藩士たちの心に大きな悔恨を残すことになる。
咲きもせで 散るさえあるを 桜木の 枯れ木ながらに なに残るらむ
野村望東尼は枯れ木のように老いた自分を残して、咲く前に散っていった多数の若き同志たちを失ったことを獄中で歌に詠み悲しんでいた。
そして般若心経を血書するなどして同志たちを弔っていたが、投獄から10か月後の慶応2年9月、福岡を脱藩した志士たちの手引きと、高杉晋作の率いる30余名の奇兵隊の働きによって下関への脱出に成功するというなんとも歴史ドラマ映えしそうな出来事が起こる。
そのまま望東尼は翌慶応3年(西暦1867年)4月、下関で高杉の最期を看取った。
“おもしろき こともなき世を おもしろく”……。
病床で苦しげに筆を執った高杉はどうにか上の句まで書き上げるが、後が続かない。辞世の句を完成させられないまま寿命が尽きようとするのを見た望東尼はすぐに下の句を付け足した。
“すみなすものは心なりけり”。
流石女流歌人。素晴らしい句である。これを確認してから、高杉晋作は安らかに息を引き取った。望東尼もまた、高杉を追うように同年の冬、維新を目前にして永眠した。高杉は27歳、望東尼は61歳だった。