第二話 葉月 百音
少女の名は葉月百音
少女には二つ年下の弟がいた。
葉月凛
まだ、五歳になったばかりでまだまだ幼い男の子だ。
凛は大人しかった。
物静かで、ぼんやりしていることが多い。
自分の意思では行動せず、誰かに言われないと行動しない。
消極的な子供だった。
少なくとも、百音にはそう見えた。
両親の話では、赤ん坊の頃から、あまり泣かず、世話のかからない子だったそうだ。
あまりにも泣かないものだから、両親は一時期、何かの病気かもしれない。 と本気で心配していた時もあった。
両親の心配とは裏腹に凛はすくすくと、無事に成長していった。
あまり、喋らないのは変わりなかったけれど。
そんな凛がある日突然、「薪拾いがしたい」 と自主的に言いだした。
あの内気な凛が初めて自己主張をした。 と、百音を含めた家族全員が揃って驚いた。
何の影響かは分からない。
もしかしたら、冬支度に向けて慌ただしく働く両親を見て自分も役に立ちたい、と思ったのかもしれない。
初めての自己主張を、それもワガママではなく、親孝行という素晴らしいことを咎める理由はない。
けれど、止める理由がある。
薪拾いは簡単な仕事ではない。
一本、一本は軽い薪でも、何十本と束ねれば大きく重い荷物となる。
それに加え、今は、森に雪が積もり、薪を拾うことさえ簡単ではない。
五歳になったばかりの子供にさせるお手伝いにしては少々荷が重すぎる。
残念な話、我が家にはすでに今年の冬を越せるだけの十分な備蓄がある。
わざわざ取って来てもらう必要もないのだ。
ここは薪拾いではなく、別のお手伝いをお願いしよう。
一家はそう結論付けた。
しかし、凛は首を縦に振らなかった。
いつになく頑固な凛にまた驚きつつ、やんわりと「薪拾いは大変だからやめなさい」 と、言うと、
次第に凛の目に涙が浮かべだしたのを見て、即座に作戦を180度変更し、凛に薪拾いを行かせることにした。
何も、本当に薪拾いをさせる必要はない。
森にわざわざ入らず、付近のでいい。
薪じゃなくとも、枝で十分だ。
後は、それを持って帰れば立派なお手伝いだ。
つまり、薪拾いという体で枝拾いをしてもらうのだ。
それなら、凛のプライドを傷つけることもなく、凛の身を心配することもない。
誰も傷つかない完璧な作戦である。
誰も傷つかない完璧な作戦は早々に崩れ去った。
凛が一人で行くと言うことを聞かないのだ。
森の中は危険だということをどれだけ説明しても聞いてくれないのだ。
このままでは、凛は泣き出し、プライドは深く傷つき、捻くれ、二度とお手伝いをやらないかもしれない。
それはマズいと、凛を一人で行かせることを承諾した。
無論、第二の作戦がある。
その名も、『あとからこっそりついて行けばいいじゃないのよ』作戦である。
酷く楽観的で陳腐な作戦だった。
「だってしょうがないじゃない。 これ以外思い浮かばないんだから」 とは百音の談である。
初めは、順調に進んでいた。
寄り道することもなく。
怪しい人について行くこともなく。
事故にも遭遇ぜずに済んだ。
問題もなく、森林まで辿りついた。
問題はここからだった。
凛は何を思ったか、あれよあれよという間に森の奥まで進んでいったのだ。
その光景を目の当たりにして一家は揃って焦った。
急いであとを追う。
凛のプライドを傷つけるのは忍びないが、約束を破ってしまったのだからしょうがない。
ここは多少強引にでも家に帰ってもらおう。
反対するかもしれない。
泣き出すかもしれない。
それでも、その身には変えられない。
何かあってからでは遅いのだ。
しかし、あとを追った先に凛の姿はなかった。
森に入るまでは、確かにいたというのに。
どれだけ探しても、見つからない。
見失っても足跡を追えばいい。
幸か不幸か嫌というほど雪が積もっているのだから。
雪の積もった地面を見る。
大小はあるが、獣の足跡しかなく、凛どころか人間らしき足跡さえ、どこにもなかった。
どれだけ、探しても見つからない。
どれだけ、叫んでも返ってこない。
まるで、今まで蜃気楼でも見ていたかのように、忽然として凛は消失してしまった。
事態は深刻だ。
この森は迷い森と戒めるほど、広大で入り組んでいる。
たった一人の子供を探し出すのは容易ではない。
しかも、この森には『魔物』が出現する。
それほど、凶悪な『魔物』は生息していないが、子供相手なら、いともたやすく仕留めてしまうだろう。
最も問題なのは、時間だ。
今はまだいい。
けれど、太陽が沈み、夜になってしまえば、気温が一気に下がってしまう。
五歳の子供が一晩越せないことぐらい目に見えている。
こうならないための作戦だったというのに、こんなことならば、あの時無理やりにでも止めるべきだった。
だが、もう遅い。
もう、これは一家だけでは対処しきれない問題だと判断して、急いで近所の知り合いに探索の手伝いを頼み込んだ。
ほとんどの大人が渋い顔をした。
当然だろう。
この時期に、好き好んで森に入る変わり者はいない。
結果は十二人の大人しか集まらなかった。
時間をかければ最も集められるだろうが今は時間が惜しい。
簡単に服装と特徴を伝え、捜索に乗り出した。
百音も、捜索したい。 と名乗り出た。
けれど、凛の二の舞になってはかなわない。 と家に置いていかれた。
一人で、だ。
気持ち悪いほど静寂に包まれた家の中。
ただ居るだけで、まだ幼い百音にとっては堪えるものだった。
不安が襲う。
時間だけが過ぎていく。
ゆっくりと、じっくりと、ねっとり、と。
どうしてこうなってしまったんだろう。
原因を考えてみる。
それ以外することがないからだ。
そもそも、どうして凛は突然、薪拾いなどしたいと言い出したのだろうか。
「あっ」
百音の中に思い当たる節があった。
普段から、大人しい凛相手に百音はずっとかまっていた。
可愛がった。 というより、からかっていた。 の方が強い。
よく 「こんなこともできないの?」 とか 「凛にはお姉ちゃんがいないとダメだなぁ」 と馬鹿にしていたような気がする。
その時は馬鹿になんてしたつもりはない。
貶したという自覚はない。
ただ、お姉ちゃんぶっていたかっただけだ。
でも、凛からしたら?
凛からしたら、わたしはどう映っていただろうか?
いつも、馬鹿にされ、貶され、やり返したい。 と思っても不思議じゃない。
凛は自己主張をしない。
だからといって、ないわけがない。
嫌なものは嫌だし、辛いものは辛いのだ。
そんな当たり前のことにようやく気が付いた。
わたしの自己満足の所為で、凛が薪拾いをしたいと言い出したのかもしれない。
わたしの楽観的な考えのせいで凛を一人で行かせた。
わたしの身勝手な決めつけで凛を危険に晒した。
それなら、わたしのせいだ。
わたしのせいで、凛は、一人で危険な森に行っちゃったんだ。
わたしが凛を殺したんだ。
百音は居ても立っても居られず、家を飛び出した。
当てなんてない。
方法なんてない。
見つからないかもしれない。
もう見つかっているかもしれない。
返って両親を心配させるだけかもしれない。
それでも、何もせず、ただ自分だけのんびりと待っていることに耐えられなかった。
踏み入れたのは白銀の世界。
もうすぐ、太陽が沈み夜が来る。
その前に何としてでも凛を見つからなければならない。
当てもない人探しだが、自分まで迷子になっては元も子もないので、せめて帰り道が分かるように足跡をしっかりと残して走る。
そんな百音をあざ笑うかのように、天候は徐々に荒れだす。
雪が舞い、風が襲う。
このままでは足跡がかき消され、帰り道を失ってしまう。
足は止まらなかった。
凛を失ってしまうのがそれ以上に怖かったからだ。
何度も雪に足を取られ、転んでも、足を止めることはない。
寒さに負けそうになっても、足を止めることはない。
恐怖に涙が溢れても、足が止まることはなかった。
必死の捜索が報われたのは、数分後だった。
大木の下。
凍えながら、うずくまっている少年。
凛だ。 凛に間違いない!
直感的に少年の元に駆け寄る。
少年はやはり、凛だった。
顔色は蒼白とし、明らかに、体調不良だ。
けれど、息をしている。
手は真っ赤に染まり、しもやけのせいで腫れ上がっている。
けれど、心臓は鼓動している。
体全身の力が抜けきってしまったかのようにぐったりとしている。
けれど、確かに、生きている。
「よかった。 本当に、よかった!」
不安と恐怖の涙が、歓喜の涙へと変わる。
本当によかった。
あとは、ママに『回復魔法』をかけてもらえばいいだけだ。
頭の中でそんなことを考えていた。
「あなたは……」
凛の口から白い息が吐き出される。
「誰ですか?」
頭の中が真っ白になった。
✳︎
僕は助かった。
あの雪山から脱出することができたのだ。
正確に言うなら、まぁ、抜け出してからわかったことなんだけれども。
雪山じゃなかった。
雪の積もった森の中だったのだ。
勘違いしてしまったのは、僕が普段からアウトドアで森だとか山とかには無縁な生活を送っていたのと急に体が縮んだ影響で平衡感覚を把握しきれなかったからだろう。
嘘だ。
ただの、勘違いだ。
散々、雪山の危険性について考えていた自分がバカみたいだ。
助かった理由は、運、としか言いようがないだろう。
山と森の違いすらわからない男が無事に脱出できたことを奇跡と呼ばず、なんという。
もし、少しでも状況が違っていたならば、おそらく、僕は雪の中で死んでいただろう。
例えば、彼女ーー葉月百音が来るのが、もう少し遅かったら、来なかったとしたら。
考えるだけでも、身の毛がよだつ。
彼女には感謝しても感謝しきれない。
森を抜けると、いきなり大勢の大人に囲まれた。
中々、屈強な大人達だ。
何事かと思ったら、どうやら僕を捜索してくれていたらしい。
大人は僕が葉月凛だということが分かると、一安心し、一言ずつ文句を言いながら去って行く。
色々言いたいこともあったが、疲労困憊。
心身ともに疲れきっていたため、何も言う気にはなれなかった。
そんな、僕の目の前に突然大きな何かが襲いかかってきた。
視界は柔らかい何かによって暗闇に包まれ、息ができなくなる。
何だこれは!?
この柔らかい感触。
安心する温かみ。
男の本能を擽るこれは……まさか!
「よかった……! 無事だったのね、リンちゃん」
「むふぅ……」
胸だ。
おっぱいだ。
僕の頭がすっぽり入ってしまうほどの、巨乳だ。
ぷるん、ぷるんのおっぱいが僕の頭を包み込んでいる……だと!?
我が人生に一片の悔いなし。
人生最後の余韻に浸っていると、強い力で、おっぱいから引き離される。
視界は硬い何かによって暗黒に包まれ、息苦しくなる。
何だ、これは!?
このゴツゴツとした硬い感触。
不快感を否めない匂い。
男の本能が拒絶反応をみせるこれは……まさか!
「ウォオオオオオ! 無事だったか! リン!!」
「うげぇ……」
胸だ。
硬い筋肉だ。
脂のような汗が滴っているゴツゴツの胸板だ。
何だ、この筋肉ダルマは!
僕を肉体的にも精神的にも殺す気か!
必死の抵抗により、何とか、筋肉ダルマのホールドから抜け出す。
本当に死ぬかと思った。
流石に男の胸板の中で死ぬ気はさらさらない。
「あらやだ、リンちゃんたら、おてて、怪我してるじゃない」
確かに、怪我をしている。
ただでさえ、悴んだ手を雪に突っ込んだのだ、無理もないか。
「今、呪文かけてあげるわね」
呪文?
「イタイのイタイの飛んで行け」とでも唱えてくれるのか?
「癒しの精霊よ、その聖なる加護を汝に分けたまえ、『回復』」
違った。
結構、本格的なやつだった。
これが、この世界においての「イタイのイタイの飛んで行け」なのか?
「は?」
最初は気のせいかと思った。
次は目の錯覚か何かだと思った。
だって、目の前で、僕の両手が、真っ赤に染まり腫れ上がった手が、綺麗な肌色に戻って行くのだから。
その光景を目の当たりにして、声すら出せなかった。
あまりにも衝撃的すぎて、思考がついていけなかった。
「うん。 綺麗になったわね、他に怪我はない?」
「え? あ、はい」
「そう、なら良かった」
何だ、アレは。
いや、僕はアレが何なのか、よく理解しているはずだ。
『魔法』
架空の存在。
現実には存在しない現象。
ただのフィクション。
紛い物。
空想上の産物。
僕が愛したもの。
僕が憎んだもの。
それが、今、目の前で巻き起こった。