冥王星を宿した子
両親の手によって、土中深くに生き埋めにされる夢から覚めると既に朝を迎えていた。だけど、目覚まし時計の短針はアラーム設定されている8の数字には達していなかった。
二度寝はいいものではない。僕はアラームをオフにしてから布団から起き上がった。
このマンションにやってきた頃はベッドにしていたが、すぐにやめてしまった。ベッドの下の隙間に誰かが潜んでいるのでは、というありもしない恐怖に常に駆られていたからだ。
だから、このフローリングの上でも体を痛めないように、二重に敷いたマットの上に敷き布団を広げて眠るようにしていた。
布団とマットを片付けてからキッチンに立つ。昨日作ったカレーの残りが今日の朝食だ。コンロに火を点けて、焦げ付けないように鍋を掻き回す。
安い赤身の牛肉を細かく切って、じゃがいもと玉ねぎは荷崩れするまで煮込む。最後に林檎のすり下ろしを大量に入れたカレーは見てくれは悪いが、味はピカ一だった。
もういいなというところで火を止めると、匂いに釣られたようで同居人が起きてきた。
「陽野ちゃん、朝ご飯?」
「うん、水も今もう食べる?」
「はぁい、もう食べます」
水は屈託のない笑みを浮かべて答えた。そして、背中まで届くほどの長い茶髪を靡かせ、食器棚に向かうと自分用の皿を取り出した。
水は綺麗な顔立ちをしていたが、もう二年は同居している僕でさえ性別は分からずにいた。
見た目と声は紛れもなく少女のものだが、一人称が「ぼく」であるし、以前僕の全裸を見たときに「ぼくの方が大きい」と言ったのだ。
水本人は自分が男でも女でもどちらでも構わないと思っているらしい。実の父親からは女児の格好をすることを強いられていただの、母親からは男の子が欲しかったと言われ続けただの色々聞いたことがある。
服を脱がせれば判明はするだろうが、そういう気にもなれなかった。僕にとって水は友人でも恋人でも家族でもない。仕事仲間だ。僕も水の性別などどうでもいい。
「陽野ちゃん、今日はねぇ三時からお仕事だよ」
「そっか。それじゃあお昼ご飯食べていけるね」
「うんうん!」
テレビを点けると、ひき逃げをされた小学生が即死したというニュースが流れていた。
可哀想に。親にも亡くなった子供にも同情した。人は理不尽な形で死ぬことがあるが、中でも無差別の通り魔や交通事故は群を抜いてえげつない最期だと考えている。どんなに真面目で善行な人間として生きていても、見ず知らずの誰かによって命を奪われてしまう。防ぎようがなかった。
小学生の家族が取材を受けて、涙を流しながら犯人を絶対に見付けてやると叫ぶ。彼らの願いが叶うことを小さく祈りながらカレーを口に運んだ。
誰かが殺されたなんていうニュースは、所詮は他人事の領域からは抜け出すことなんてできない。可哀想だ、と語る口で次には全く関係のない芸能人のカップルについてあれこれ言いたい放題。数時間後には食事をするのである。
同情は人間が持つもっとも下劣な感情だと僕は思う。同じ気持ちになったからといって、当人が幸せになるとは限らない。
水は動物のニュースになると目を輝かせてテレビに食い付いた。口角にはカレーがついている。動物が好きらしい。
野良猫を見付ける度に撫でようとして逃げられる。その猫が逃げる先にいるのは僕だ。不思議と僕は猫に好かれやすい体質をしていた。水はそんな僕にいつも「もー、陽野ちゃん嫌い!」と頬を膨らます。
僕は水が好きでも嫌いでもない。
二時になり、マンションを出た。僕は学ラン、水はセーラー服を着ていた。周りからはカップルに見えるかもしれない。近くの停留所でバスに乗り込み、揺られること二十分。辿り着いたのは〇〇駅で、僕たちはタクシーに乗った。
「どちらまで行きましょうか?」
「〇〇ヶ〇までお願いします」
「……あいよ」
僕が指定した場所を聞いて青髭を生やした運転手は僅かに顔をしかめた。〇〇ヶ〇という本来この近辺には存在しない地名を知るタクシー会社はここだけだ。『うち』の便利な足である。
彼らはうちが何をしているかは聞かされていないはずだ。だが、ろくでもない集団であることは薄々感付いている。
上の人間から「この場所を家族や知人に話したら、お前だけじゃなくて話を聞いた奴も疑わしい奴も全員殺されるからな」と耳にタコができるほど聞かされているのだから。
実際にそれで三人ほど消えている。一人目は一家心中、二人目は失踪、三人目は強盗殺人を装って家族もろとも。
〇〇ヶ〇は山中にある。青木ヶ原というわけではないが、名前の響きはよく似ている。死に纏わる場所という共通点もあった。
タクシーから降りて山の中に足を踏み入れて数分後、三階建ての白いビルを見付ける。入ると人の良さそうな老人の職員と鉢合わせした。
「どうも、おはよう二人共」
「……おはようございます」
「おっはよー」
他にも職員は数人いた。キャバクラで働いていそうな派手な身なりの女や、炎天下の街中をがむしゃらに歩いていそうなサラリーマン。中にはホームレス風の中年の男もいる。うちの職員は定められた制服も年齢制限もない。
けれど、仕事を始める時はヘアキャップとビニール製の作業服、マスクにゴーグルの着用が義務付けられている。
黙々と着替えていると水が鼻唄を歌っていた。水にとって一日の中で一番の楽しい時間の始まりだ。ワーカーホリックというわけではない。水は心の底からこの仕事を喜んでいた。
着替え終わって『T―03』の部屋に入る。白い作業台の他にはノコギリにハンマー、形やサイズがそれぞれ異なるナイフ、数種類のバケツが置かれていた。
台の上には丸々と太った男が全裸の状態で載せられる。麻酔が効いているのか、悲鳴も上げられず身動きもできないようだが、天井を見詰め続ける顔は恐怖と絶望で彩られた。
「始めようか、水」
「おっけー」
僕たちの仕事は活きのいい人間を捌くことだ。まずは皮を剥ぐ。皮が美味しいのは魚ぐらいだ。それに体毛が邪魔である。
できるだけ肉まで取ってしまわないように薄く切れ込みを入れてゆっくり剥がしていく。
痛覚までは失っていないようで男の体はびくん、びくん、と何度も痙攣した。
男の名前も職業も僕は知らない。ただ、誰かに恨まれていたのは分かる。うちに運び込まれる人々はどこからか激しい憎悪、怨恨を抱かれていた者だ。
〇〇〇〇を殺してください、〇〇に天誅を! などと言った手紙が毎日のようにうちに届き、その中から適当に数人選んで連れてくる。
死んでしまうと鮮度が落ちてしまうので、できるだけ死なないように慎重に行う。
本当に、本当に適当なのだ。手紙が大量に詰まった箱に手を突っ込み、数秒間中を掻き回してから何通か取り出すだけなのである。
見事当選を果たした差出人にはこのような内容の手紙が送られる。
『おめでとうございます。これであなたは私たちの共犯者となります。なお、〇〇〇〇さんの失踪に関して他者に漏洩した場合、あなたや家族も同じ結末を辿るでしょう。
どうか、ご注意を』
「陽野ちゃん、陽野ちゃん」
「何?」
「死んじゃった」
そういえば痙攣すら起こさなくなっていた。水は男から切り取った〇〇を握り締めながら笑った。
「急ごう」
「はいはい」
早くしないと鮮度が落ちる。全身の皮膚を剥がして真っ赤になった男を手早く解体していく。骨はそのままでいい。『彼ら』は容易く噛み砕いてしまう。
全ての作業が終わる頃には僕たちは汗だくになっていた。部屋にこもる血の臭いも全く気にならなくなっていた。
切り分けた肉を放り込んだバケツを持って部屋を出る。返り血を浴びた僕たちに驚く人は誰もいない。お疲れさま、と労りの言葉をくれる人はいた。
エレベーターを使って地下に降りると、そこには巨大な檻がいくつもあった。その内の一つの前に僕と水は立つ。
赤い照明に照らされたソレは誰がどう見ても化物である。アメーバ状のベージュ色の全身と、表面についた無数の目玉と口。
檻の前のプレートにはソレの名前である『ガロン』の文字があった。
ガロンに向かってバケツの中の肉を檻に隙間から放り込む。すると口の一つから先端が二つに避けた舌が出てきて、肉に絡み付いた。
他の檻にいる生物も細かい部分は異なるが、一言で説明するとならばやはり化物である。運ばれてきた人間は僕たち職員に捌かれて、彼らの餌となる。
彼らが何者であるかは訊いていない。知る必要はないと思っている。ただ、とても恐ろしい存在であるとは何となく分かる。そうでなきゃ警察が怪しんで調べにくるだろう。ここは警察や政府よりもあらゆる意味で強い力を持った施設なのだ。
僕も本来ならば、どれかの化物の餌になっていた。実の両親に僕を殺して欲しいと手紙を書かれていたからだ。
どうして僕はまだ生きているのか。簡単な話だった。
親に手紙を送られたことを知って、僕も両親を殺してほしいと手紙を送り、それが彼らの手紙よりも先に採用されたからだ。偶然の産物である。
父も母も教師だった。だからこそ教育熱心だった二人の期待に応えたくて、僕は頑張り続けてきた。友達なんて作らず、ゲームもしないで必死に勉強をしていた。
だが、偏差値の高い高校の受験に落ちた瞬間、全てが無駄になった。両親は僕を無視するようになり、やがて手紙を出した。
それを知った瞬間、僕はコンビニで便箋と封筒を買った。今まで従順に生きてきた僕にとって最初で最後の反抗のつもりで出した手紙は選ばれ、両親は生贄となった。
二人の解体には僕も参加した。できれば一緒に殺すのを参加したいとも書いたからだ。
父と母が死ぬ瞬間は今までもよく覚えている。母は下半身の皮を全て剥がされたあとに死んだが、父は長く持った。
死に際になって麻酔が切れたようで、僕を見て、悲痛な声で僕の名前を呼んだ。気付いていたのだ。自分の息子がそこにいたことを。
悲しくもなかったし、嬉しくもなかった。両親に嫌われた時点で僕の心は死んでいた。
仕事が終わり、シャワーを浴びてから水と共に建物を出る。呼んでいたタクシーに乗って、マンション近くのスーパーに寄った。
「ねぇ、陽野ちゃんこれ買おうよ」
そう言って水が見せたのは、オレンジ色のマグカップと赤色のマグカップだった。
「明日でぼくと陽野ちゃんが一緒に暮らすようになってから一年になります」
「だから?」
「その記念品! 陽野ちゃんがオレンジ色ね」
「……………」
僕は赤色のマグカップを水から奪って棚に戻した。そして、青色のマグカップを手に取る。
「……水にはこっちが似合うよ」
そう言うと水は幸せそうに笑みを浮かべる。
こういう水の顔を見ていると僕は不思議な気分になる。何日も降り続いた鬱陶しい雨がようやく止んだとき、或いは朝焼けの美しい空を見たときと似た感情が湧き上がる。
僕は小さく溜め息をついて安物のマグカップ二つをカゴにそっと入れた。
水というのは勿論本当の名前ではない。最初、水は自分を「ぼくのことは水子って呼んでね」と明るい口調で言った。これも本名ではないだろう。
本人が水子と名乗りたいならそれでいい。だが、僕はどうにもその名で呼びたくなくて、だから『水』と呼ぶようにした。
清らかで透明な水。発音の響きもいい無邪気に微笑むその姿にとても似合う呼び名だと思ったのだ。